仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

御本尊について

南無阿弥陀仏について。

浄土真宗の正しい御本尊です。

他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。

当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。

(御一代記聞書70)

 

蓮如上人のお言葉ですから、当流とは、浄土真宗

真宗の正しい御本尊。

浄土他流では名号よりは絵像、絵像よりは木像、
浄土真宗では木像よりは絵像、絵像よりは名号。

正しい本尊は名号ですよと言うことが、ハッキリ教えられています。

 

この御本尊を常におかけして、

おつとめをしなさいよと言うことです。

これが、その前の御一代記聞書69

蓮如上人仰せられ候、「本尊は掛けやぶれ、聖教は読みやぶれ」

と対句に仰せられ候。

(御一代記聞書69)

 

御聖教は何度も何度も読んで、破れるまで読みなさい。

もちろん、粗末に扱って破りなさいと言うことではありません。

蓮如上人は、教行信証を、表紙がすり切れるまで読み破られたと言われます。

そして、その深い内容を、 御文章に、その要を書いて下さったのです。

私達もお聖教など、いつも持ち歩いて読み破る。

それと同じように本尊も、箱に大事にしまっておくのでなく、

常におかけして、おつとめをさせていただく。
それが大事なんですね。

なぜ絶対の幸福になれるのか

南無阿弥陀仏を頂くから絶対の幸福になる
親鸞 聖人言われている。

我が弥陀は名を以て物を摂したまう。是を以て耳に聞き口に誦するに、
無辺の聖徳識心に攬入し、永く仏種と為りて、頓に億劫の重罪を除き、
無上菩提を獲証す。

阿弥陀如来 は御名をもってものを摂したもう。

摂取と言うことです。

名号をもって衆生を絶対の幸福に救うと。

ものとは衆生。決して捨てない。絶対の幸福に救う。
この名号は耳から頂く。そして念仏となって称えずにおれなくなる。

限りない仏徳が、私達の心に入って下された。

弥陀の命がわが命となる。

弥陀の仏徳が私のものになる。いただける。

そして、永く仏種、仏の種になる。

この名号が。だから死んで必ず浄土へいって仏になれる。

必ず芽が出て仏になれるのだから。

頓とはたちまち。一念でということ。

億劫の重罪を除く。無上菩提を獲証す。

素晴らしいことだね。

 

わが弥陀はこの名号を持って全ての人々を絶対の幸福に救うと言われている。

弥陀の願いが私のものになる。

それは永遠の仏種、仏になる種。

だから必ず無明の闇が破れ、無上菩提を獲証する。これ以上の宝はない。

 

それは一念で頂ける。

私達が信心獲得すると言うことは、

阿弥陀仏が命をかけて作って下された弥陀の命である南無阿弥陀仏を頂くと言うこと。

この信心獲得一つを叫ばれたのが親鸞聖人です。

あわれあわれ存命の中にみなみな信心決定あれかし、

それが善知識の願いですが、その通り信心を頂く。

是非そういう身になっていただきたい。

南無阿弥陀仏の功徳は、何億年かかっても説き尽くすことはできない

若し広説せば百千万劫にも窮め尽すこと能わじ
大無量寿経

どなたのお言葉か
釈尊のお言葉』

どう言う意味か。
阿弥陀如来の本願を説くことは、百千万劫かかっても説ききることはできない』
名号の大功徳です。
名号の大功徳は。勿論、名号は阿弥陀如来 の本願から作られたもので、
本願イコール名号です。

詳細にくわしく説こうとすれば百千万劫にもきわめつくすことあたわじ。
一劫とは四億三千二百万年。長いね。その百千万倍。
それだけかかっても説き尽くす事ができない。

南無阿弥陀仏の功徳は何億年説いても説き尽くせない。
お釈迦様が。
話の下手な人じゃない。
大雄弁家のお釈迦様が仏の広長の舌相をもってしても
何億年かかっても説き尽くすことができない。

そんな不思議な大きな力のある南無阿弥陀仏
これが真実の宝だ。
その真実の宝を一念でお前に与えるぞと誓われたのが弥陀の本願。
それを心得るのが信心獲得

それも一念で。アッという間に頂けるんだよ、と。
全ての人を絶対の幸福にしてやりたいという阿弥陀仏の命がこの南無阿弥陀仏
阿弥陀仏が全身全霊込めて作られた弥陀の願いが込められた力。
これが真実の宝。
我々を絶対の幸福にいかす。
三世の業障を一時に消してしまう。

無明の闇、苦悩の根源をぶち破って下さる力。
これが真実の宝。
それを心得る。
弥陀のいのちを頂く。
そういうことが説かれている。

信心獲得とは

信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
御文章

 

この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。

第十八の願を心得ると言うことは南無阿弥陀仏のすがたを心得る。

阿弥陀如来 の本心と いうのは、十方衆生を必ず絶対の幸福にしてやりたい。

全ての人を本当の幸福にしたい、してみせる。

 

全ての人々を本当の幸せに摂め取って捨て給わず。

摂取不捨の身にしてやりたい。

決して捨てることはない。絶対に貴方を見捨てない。

それが弥陀の本心なんです。その通り心得る。

摂取不捨の身になる。

それは、南無阿弥陀仏のすがたを心得たということだ。
南無阿弥陀仏を頂いたと言うことだ。

南無阿弥陀仏をいただいてそういう身になれる。

神信心の構造

神を信じて、現世利益を祈る。

何かを心の中に救いをもとめるという時には、信じる心、

どういう心で救いを求めようとするのか、ということと、
また何に対して救いを求めるのかという対象の2つがある。

 

金比羅の神に安産祈願して、安全に子供が生まれるかどうかは疑問。

創価学会なら板マンダラを信じて現世利益を求める。


信じる対象が狙った通りの救いを与えてくれるかどうかは、その対象が問題。
たとえそれで病気がなくなったとしても、死ななくなったわけではない。
後生の一大事を解決するというものでなければならない。

助ける力のないものに向かって祈っている。

だから間違っている。

 

仏教では、助ける力のあるものに向かいなさいと

教えられている。

 

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仏法は聴聞に極まる

仏法は聴聞 に極まる事を教えられた親鸞 聖人のお言葉は、
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞く人は
永く不退にかなうなり  (浄土和讃)」

大宇宙が火の海原になっても、そこを突破して仏法を聞きなさい、
ということです。
これ以上真剣な聞き方はないという聞き方をすれば、
聞く一つで救われると言う事を教えられている。

これのもとになったのが、
設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、要ず
 当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽し、
 受持読誦し、如説に修行すべし
大無量寿経の「流通分」です。
結論が書かれている。
エピローグのこと。
プロローグは、「序文」。

本論は「正宗分」。
大宇宙が火の海原になっても、ここを過ぎて、仏法を聞きなさい。
この文の前に、出ているのが、

仏、弥勒に語りたまわく「それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、
乃至一念すること有らん。当に知るべし。この人は大利を得と為す、
すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」このゆえに弥勒……」

南無阿弥陀仏を丸もらいして、功徳が身の上に充満して、具足する。

これを親鸞聖人は
無慚無愧のこの身にて
まことの心はなけれども
弥陀の廻向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう(悲歎述懐和讃)」
などとおっしゃっている。たいへんな幸せの身になる。
だから、聴聞に極まる。
大宇宙一のしあわせになれるから、聴聞をしなさいといわれている。

親鸞聖人の御和讃は、これをもとにまとめられている。
親鸞聖人の浄土和讃というのは、蓮如上人が
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、

世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事浅ましきことなり。

仏法には明日という事あるまじき」
の御一代記聞書の中で言われている。

私たちが娑婆に生まれてきたのは、仕事をするためではない。

後生の一大事を解決するために生まれてきた。

世間の隙というのは、仕事のことです。

仏法には人生の目的が教えられている。
永遠の幸せになるには、仕事を止めてでも聞きなさい。

前触れなしに人生最後の日はやってくる。

大経の流通分と、浄土和讃と、聞書に同じ事が書かれていた。

 

なぜ生きねばならないのか

命を大事に
文芸春秋に、子供たちに、なぜ人を殺してはいけないか、聞かれたら、何て答えますか?
14人くらいの人が書いている。
だけど、人間ていうのは、こういう事をする為に生まれてきた、
だから、命を奪ってはいけない、こう書いているのは、なかなかない。

自分が嫌だから。
こうなると、
自殺、自分を殺す。
そんなに簡単に自殺するのはだめ。
人に迷惑をかけていないからいいじゃん。

自殺する人、三万人。そうすると、あんたね、
そんなに命を粗末にしてはいけない、と言っても。
自殺する人、それなりに頑張って、あまりにも絶望的な事が多いわけ
それをダメだよ、というには。

生きていれば、こういう素晴らしい決勝点があるから、
というのなら、理屈が通っているけれど。

マラソンだったら、走ってて苦しい、こんなにも辛いなら、投げちゃえ。
あのゴールのテープを切ったら、心から満足できる、
これなら頑張れるけれどゴールがなかったら、
なんぼ頑張っても、はりがない、っていうか、
甲斐がないっていうか。
頑張る気持ちになかなかなれないでしょ。

水泳、泳ぐのが気持ちいい、走っている人、気持ちいい、
だけどね、マラソン、ずーっといつまでもやっていなさい、
と言われたら、絶望的じゃない。

僕らの人生ってそれに似てて、受験勉強、あなたのテスト何点だった?
知らないうちに、比べられるでしょ。
偏差値、この大学にはいけるとか。
同じ高校だったあの子はこんな大学、他の人は給料なんぼ、
あなたはなんぼもらっているの?

そういうの、意識したくなくても、テスト、
合格する為には、何点以上、いやおうなしに、比べられちゃうでしょ。
なるべくマイペースで行きたいな
だけど、実際大学に行けるってのは、比べてでしょ。
合格を目標にしていたら比べてやるしかないでしょ。
比べるのはもう嫌だ。大学に入ったらやめる、
だけど、試験、就職戦線、その為には成績どうだった、
面接どうだったか、この人はこの人より優秀だったから、
受験は一つの山、越えたけど、レースはなくなるか、というと、
就職の時は、また山。

社会に出たら、学生の時が一番よかった。
激しい生存競争、銀行とか、エステとか、
女性の間で、エステって大変人気のある商売、そのエステ業界で、
三位だった、エステ・デ・ミロード
すごく羽振りがよかった、
ところが、何の前触れもなしに、母体会社がつぶれた。
わからないものだね。

千代田生命、つぶれたでしょ。
去年から今年にかけて、金融業界がつぶれた、
半年で、最高。
そごう、というのも倒れたね。
勤続何十年、給料でいえば、50万とかもらってた。
再就職。

景気がよくなったといいつつも、全然よくなってないじゃない。
これからの未来はWOWWOW、モーニング娘くらいで。

受験戦線乗り越えて、就職戦線乗り越えて、
それぞれの会社に入ったら、企業戦士として、
そこそこの成果をあげないと、生きてゆけない。
嫌なんだけど。結果的に。

そういうのを総称して、マラソンに似ている。
ここまでいけば、大丈夫、ここまでくれば、ああ、ここまで生きてよかった、
そういう人生の決勝点があるぞ、という言葉が仏教にある。

 

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