仏教研究室

仏教を研究しています。

信心とは

信心といいますと、諺にも、
「鰯の頭も信心から」
と言います。

鰯とは、非常に安い、昔は人間も食べなかったものです。
しかし、尊いと思って信じれば、それも信心です。

何でも信じていれば、信心です。
宗教を信じていない、そういう人が多くいます。
無宗教、無信心と言いますが、宗教に関心がないわけではありません。
日本人の半分以上は、宗教に何らかの関心を持っています。
しかし、特定の宗教を持っているわけではないです。
欧米では、無宗教と言うと、薄っぺらな人間と思われたりします。
免許を取る際でも、宗教は何かという欄があります。
日本では、信じている人は少ないのです。

信心とは、心で何かを信ずることです。
だから、全ての人は、信心を持っているのです。
特定の宗教でなくても、これで幸せになれるという
ものを持っていれば、それも信心です。

仕事信心、恋愛信心、強い信心を持っていませんか?
親を信じているなど、何かしら信じています。
何も信じていない人はありません。
だから、生きる=信ずる、と言えます。

例えば、床屋に行って剃刀で髭を剃ってもらう。
寝ていられるのは、信じているからです。
斬ったら、必殺仕事人。
そういうことはないと信じているのです。
飛行機も、間違いなく目的地まで運んでくれると
信じて乗る、信じなければ、1日たりとも生きてはいけません。
まさか、このビルが明日潰れていると思ったなら、そこに泊まろうとは思いません。

こう考えてみますと、生きる=信ずるといえるのです。
全人類は、信心を持っていると言えます。
法の華など、そういうものを信じていなくても、信心を持っていることが分かります。

じゃあ、自殺をする人はどうなのか。

いろいろなものに裏切られて死んでいく、
信ずるものはないのだろうと。
どうでしょう?

今が苦しくて自殺をします。
死んだら、その苦しみから離れることができるだろうと、そう思うから自殺をします。
今よりも楽になれると信じて自殺をする。

ですから、信心と無関係という人はいないです。
健康信心、親信心、恋愛信心、お金信心、大学信心など。

みんな信心をもって生きています。

 

しかし、信心には、真実の信心と真実でない信心があります。

これまであげたのは、すべて真実の信心ではありません。

 

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正信偈

龍樹菩薩の所。

憶念弥陀仏本願

 自然即時入必定

 唯能常称如来

 応報大悲弘誓恩
弥陀仏の本願を憶念すれば。
憶念というのは、どちらもおもうということだが、

憶は時々おもう、念は明記不忘といって、常におもう。

阿弥陀仏の本願がハッキリ刻み込まれて忘れない。

大好きな彼女がアメリカへ行ってしまう。

「僕は君を思い出すからね」

と言うと、彼女は怒り出す。なぜか。
『思い出すよじゃ思いがうすい思い出さずに忘れずに』
私のことを思い出すなんて言わずに、忘れないでね、と言った。

信心決定する前は、普段忙しくて、仏法のことなんて忘れている。

そしてたまに、仏法大事だな。部会行こう。

部会に行ったときだけ阿弥陀仏のことをおもう。

それではダメ。普段忘れている。それはまだ一つになっていない。

憶念というのは、ハッキリと刻み込まれてもう忘れない。明記不忘という。

そのときに、自然即時入必定
自然というのは、他力。願力自然。
即時は、その時に、一念で。
必定、正定聚のことを必定という。必定にはいる。
阿弥陀仏の本願力によって一念で必定にはいる。

そのうれしさがこみ上げてくるから、

その御恩何とかしてお返ししたい、と
唯能常称如来号応報大悲弘誓恩

必定というのは、必ず仏に生まれられることに定まった。必定の菩薩。
必ず仏になるに定まった人。一念でなれる。
そうすると嬉しくて嬉しくて、

阿弥陀仏に対してお礼を言わずにおれない。
そのお礼の言葉が
唯能く常に如来の号を称する
如来の号とは念仏のこと。
それが「応報大悲弘誓恩」=お礼。

常にお礼の心が絶えない。

常念仏の衆生

歴史上の人物ナンバーワン

今日にも名前を残す人物が色々いますが、
最も多くの人から注目を浴びて、歴史上人物ベストワンという人がいます。

時は約800年前、鎌倉時代
平安から鎌倉にかけて、思い出す事と言えば、
源頼朝平清盛

戦国武将で言ったら色々いる。
しかし、何百年の後の人に影響を与えたという事はありません。

鎌倉時代親鸞と言う人がいます。
かつて、「知ってるつもり」で2時間特集された事がある。

同じ鎌倉時代であっても親鸞聖人が一番。
書店に行っても親鸞聖人関係の本が所狭しと並んでいる。
何百年たって自分の名前が残っている、これはなかなか大変なこと。

 

800年経った最近の人でも、

 司馬遼太郎鎌倉時代親鸞を生んだだけでも偉大だった」
吉川英治「なんとなく親鸞聖人が好きだ」
などと言っている。

 

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モチベーションが続かない

調子のよいときは、よし頑張るぞ、と無理をしてでも頑張ろう

という気持ちがあるのですが、その思いが続かなくて、

気落ちすると仏法を聞こうという気持ちがなくなってしまいます。

感情の揺れが激しくおこる人はどうすればいいのでしょうか。

 

仏法を求める上で、調子のよいときと、調子の悪いときの波がある。
若存若亡」という。
調子のいいとき→若存
よし頑張るぞ。よし、これで信心決定できるぞ、と調子のいいとき。
調子の悪いとき→若亡
いや疲れた。仕事もきついし、というような色々なことがあると、

ついつい、ああ体もしんどい、お金もない、お腹もすいた。

信心決定、大事なのは分かるけど、やれやれ。

これは誰にでもある。親鸞聖人にも。

不如実修行といえること

 鸞師釈してのたまはく

 一者信心あつからず

 若存若亡するゆえに

不如実修行→自力の信心。
鸞師曇鸞大師。

信心が厚くない。厚くないからフラフラする。

それを若存若亡という。

順境、調子のよいときが続くと、よし頑張るぞ。

しかし逆境が続くと、もういいや、となる。

そんなときにどうするか。


どんな人でもなかなかなかなか一人で一直線に求めていけるものでない。

よしやるぞ、という一直線にはならない。

若存若亡しながら、だんだん信心決定に近づいている。

調子のいいときも悪いときも、光に向かって進めば、

間違いなく信心決定に向かって近づいている。

そんな私達はどうすればよいのか。御一代記聞書に教えられている。
「連れが大事、教えが大事。」
「同行・善知識にはよくよく近づくべし。『親近せざるは雑修の失なり』と『礼讃』にあらわせり。悪しき者に近づけば、それには馴れじと思えども、悪事よりよりにあり。ただ仏法者には馴れ近づくべき」由仰せられ候。俗典にいわく、「人の善悪は近づき習うによる」と。また「その人を知らんと思わぱ、その友を見よ」といえり。「善人の敵とはなるとも、悪人を友とするなかれ」という事あり。

(御一代記聞書150番)

 

同行というのは、同じ所に行くと書く。

仏法を聞いている人は、みんな信心決定して、

弥陀の浄土に行こうとしている人だから、同じ所に行く人。


志が同じ人を同志という。

俺とお前は同志だ。目指すものが同じなら同志。

私達は同志といってもいいが、仏教では同じ弥陀の浄土に行く人。同行。

法友のこと。
善知識というのは仏教の先生。

お釈迦様はもちろん善知識。親鸞聖人、蓮如上人も善知識。

そういう方はほとんどおられない。

 

同行のことを連れ、と言われている。

善知識のことを教えと言われている。

善知識に近づくのは、教えに近づく。

仏法を求めるときに、連れが大事。

なかなか波があって、しんどいなと思う。
自分が調子よく、連れの人が調子が悪い。

そのときは励ましてあげる。
ところが自分が調子悪いとき、連れの人が励ましてくれる。
若存の人が若亡の人を励ます。

仏法とは不思議なもので、法施をすればするほど自分も元気になる。
与えた人も、もらった人も元気になる。

自利利他。

そこが法施のいいところ。

やる気なかったけれど、誰かに仏法の話をしていたら元気が出てきた、

と言うことがよくある。生きる力をお互いに与えることができる。

「施しは生きる力の元と知れ」
お互いに元気になる。

善知識に近づくというのは、教えに近づく。
ともに教えに近づかなかったらならない。
順境の時も、逆境の時も、友達に色々相談したり、

少しでも教えを聞いて、一歩でも前へ進めるようにしたらいい。

それと、調子のよいときはどんどん色々なことをやったらいい。

だけど調子の悪いときは、あんまりでっかいことをやると、気が引ける。

できる、小さいことをやる。


若存の時は、普段あまりできない大きいこと。
若亡の時は、ちょっとでもできること。

今日はちょっと部屋掃除しようか。

靴みがこうか。ノート整理しようか。
ちっちゃな事をやっていると、あ、次これやってみよう、

次これやってみよう、と元気になってくる。
調子のよいときは、百のやること。全部できる。
ところが調子悪いとき。

あれもこれも、全部投げ出したいときに、一番簡単なことから手をつける。

すぐにできること。

調子のいいときは、普段なかなかできないこと、こういうものがいい。
そうやって、若存の時も、若亡の時も、少しでも前進できるように。
ちっちゃな事でもやれば、一ミリでも前へ進めるわけだから。
部屋は汚い、靴は汚い、バッグもめちゃくちゃ。人生投げたくなってくる。

それではダメ。
小さな事でも、一歩でも半歩でも前進しよう、という心が大事。
若存若亡、これは親鸞聖人も、善導大師も、みんなあること。
或いは本当に疲れたら、休む。体が疲れているのだから。

ぐっすり休んで、英気を養う。おいしいもの食べたら元気が出る。

感情に左右されずに仏法を求める心掛け、皆さんも工夫してもらいたい。
世の中ではストレスということがあるから、何にもヤルキがない。

仕事もできない、子供の顔も見たくない、帰宅恐怖症。

かわいそう。

新婚の二、三年は家に帰りたい。しかしその後は冷めてしまう。
会社で仕事して、家に帰らずにサウナに泊まる。
遠くへ行ってサウナに泊まると、中高年の人が沢山。

家に帰りたくない。
どんな仕事をしても、順境と逆境がある。
仕事やめようかな、首でもつろうかな。本当に死んでしまう人もある。

人生どっちにしろ苦しみはやってくる。

仏法聞かなくても逆境はやってくる。
自殺する人33000人もある。

苦しくて苦しくてどうしようもない。

自殺未遂は10万人と言われている。
どうせ苦労するなら、どうせ苦しむなら、苦しみ甲斐のある道がいい。
努力して苦しんで、全然報われない人生よりも、努力して苦しんで、

それが報われる。

人間に生まれてきてよかったな、仏法聞いてきてよかったな、

と思える決勝点がある。

高橋尚子さんが、マラソン途中でリタイヤしたら、

「とっても楽しい35㎞でした」とは言えない。

最後でもいいから、最後まで走る。

「とっても楽しい42㎞でした。」これは言える。

どっちみち人生は、苦しみはどこへ行ってもあるのだから、

生まれてきてよかった、生きてきてよかった、仏法聞いてきてよかったな、

という世界を味わってもらいたい。

努力、苦労が報われる世界。

受験勉強でも、苦しい勉強して、合格して、ああ受かってよかった、となる。
途中でやめたら喜べない。

 

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極楽には往きやすいのに人がいないのはなぜ?

『大無量寿経』にお釈迦さまが「易往而無人

と言われている意味を

蓮如上人はこのように明らかにされた。

これによりて『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。

この文の意は、安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、

信心を取る人稀なれば浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり。
(御文章)

 

これを親鸞聖人はこう教えられた。

「易往而無人」というは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ず
れば実報土に生るること疑なければ往き易きなり、「無人」というは、
ひとなしという、ひとなしというは真実信心の人はありがたき故に実報
土に生るる人稀なりとなり

(尊号真像銘文)

 

これは、親鸞聖人が易往而無人というお言葉を説明して下されたお言葉です。

これ、非常に大事ですね。

信心決定すれば、間違いなく本願の実報土に生まれられる。

極楽往生できる。

そして、真実信心の人、信心決定した人が少ないから、浄土には人無し

こういうことなんです。

 

蓮如上人と親鸞聖人の仰有ることは、全く同じです。

 

 

存覚上人という人が、この「無人」ということについて解釈しておられます。

 

存覚上人は、覚如上人のご長男です。

そうすると親鸞聖人の、曾曾孫ということになりますね。

存覚上人は、大変な学識のある方で、

親鸞聖人を除けば、おそらく最も教学力のある方と言われます。

六要鈔といって、教行信証六巻の要を書かれています。

昔から、教行信証を理解しようと思ったら、

この六要鈔を読まねばならないと言われるほどです。

だから、大変な学者だったんですね。

この存覚上人の御著書に、浄土見聞集というものがあります。

そのなかで、この易往而無人のお言葉について、

 

ひとなしというは、よくおしうる人もなくよくきく人もなきなり
(浄土見聞集)

といわれています。

お釈迦様が、極楽に人がいないと仰有るのは、

よく教える人、よくきく人がいないからだと。

よく教える人とは、善知識。

善知識がおられないと言うことです。

仏法を正しく説かれる方、この道を導いて下さる方です。

また、よくきく人もいない。たとえ善知識がおられても、

その善知識の教えを聞ききる人がいない。

だから信心決定する人がいない。

だから、極楽に生まれる人がいない。このように仰有っています。

易往而無人というわずか漢字五文字ですが、

親鸞聖人・蓮如上人・存覚上人、それぞれが教えられているわけです。

 

自力の念仏と他力の念仏の違い

蓮如上人は、御文章に他力の念仏を勧められている。

末代無知の在家止住も男女ならんともがらは、心を一つにして、阿弥陀仏
深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に「仏たすけた
まえ」と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来はすく
いましますべし。これ即ち第十八の念仏往生の誓願の意なり。

ここまでが、念仏往生の誓願の心。あえて念仏往生といわれている。

かくのごとく決定しての上には、寝ても覚めても命のあらんかぎりは、

称名念仏すべきものなり。

(御文章5帖目1通末代無知)

 

かくのごとく決定してのうえには、信心決定しての上には。

第18願の心を体得した、信心決定した上には。

寝ても覚めても念仏称えなさい。

 

寝ても覚めても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すべきばかりなり。

これを信心とりたる念仏者とは申すものなり。
(御文章5帖目17通それ一切の女人)

 

これが歎異鈔に念仏者は無碍の一道なり、といわれている念仏者。

 

さて、この上には、なおわが身の後生の助からんことの、

嬉しさをおもいいださんときは、

寝ても覚めても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ととなうべきものなり。
(御文章5帖目18通当流聖人)

いくら念仏称えてもたすかりませんよ、といわれている

蓮如上人が寝ても覚めても、といわれている。

戒められたのは自力の念仏。

いくらとなえても助からない。

親鸞聖人が3つに分けて教えられたのを、

蓮如上人は自力の念仏、他力の念仏と2つに分けて教えられた。

 

南無阿弥陀仏におさまっているもの

昔、戦争でたくさんの若者が戦場に散っていった。

連合艦隊という映画で、零戦に乗った若者が、まだなれない操縦で、

敵艦にぶつかっていく。

その時「お母さん!」と叫んでいた。

ああ言うときに、誰もお父さんと言わないんだね(笑)

女の子でもそうだろうね。

お母さんというのは、単なる文字でなくて、その人にとっては自分の命なんだね。

先立つ不幸をどうかお許し下さいと。

その時は、もうお母さんと一緒になって、母の命を自分の命として死んでいく。

その時の言葉はただの文字ではないんですね。

分からない人にはただの字にしか見えないかも知れないが、

ここには阿弥陀仏の命がこもっている。

だから、お釈迦様でさえ百千万劫かかっても説き尽くせないと仰有るんです。

親鸞聖人も、不可称不可説不可思議の大功徳と仰有るしかない。

それを、迷った凡夫の考えで金ぴかの木像がいいという。

それを蓮如上人が叱っておられます。

不思議だと思うのは、南無阿弥陀仏をただの字だと思っているからだと。

悪凡夫が弥陀をたのむ一念で仏になれることが不思議だと。

一念の信心をいただくのが真実の宝を頂くと言うことで、

それは阿弥陀仏の命を頂くと言うことなのです。

そんな南無阿弥陀仏を今度頂くのです。

自分の書いたラブレターの返事に「わたしもすきです」と書いてあったら、

受け取った人には、それはただの文字ではない。彼女の命なんだ。
そんな命も、10年もするとなくなってしまうこともあるけれど。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の命。

絶対に裏切らないと言う約束が込められている。

尊んで、礼拝するものです。

下に置いて、踏んだりしたら大変です。