仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

正しい信心をあらわす蓮華の五徳の花果同時の徳

花果同時の徳とは、
花が咲いたときに実がなる、それだけでは不十分。

特徴の一つ目は、一度に音を立てて咲く。

朝顔はゆっくり咲く。三分、五分と咲いていく。

蓮華は咲いてないときは咲いていない。

開くときにポーンと音たてて咲く。

もう一つは、花が咲くのと実がなるのと同時。

それぞれ何をさす?一念で完成する信心。


親鸞 聖人の教えられた事は、30年かけて暖めるものでない。

信心強めよ、だんだん強める信心ではない。

一念で、ガバッと私の心に信心開く。
親鸞聖人そのように仰言っている根拠。

「それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念あり。

 信楽とは信楽開発の時剋の極促をあらわし

 広大難思の慶心をあらわす」(教行信証

親鸞聖人は、真実の信心といったら、自力の信心と思う人がいるから。

意味は真実の信心と同じ。真実の信心には一念がある。

そして、想像もつかない喜びが起きる。
無碍の一道に出たら、どんな喜びの心が起こるか。その想像は会っていない。
難思だから。人間に生まれて善かった心って何、と思っても、想像しても違う。
だから、広大難思の慶心。
また、親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願も難思と仰言っている。

難思の弘誓。

アメリカ大統領。アメリカの人だけ。

阿弥陀仏は全ての人とお約束しておられる。
弥陀の本願も難思、といわれる。
難思の弘誓は想像つかない。自分でなるのではない。

あなたが想像している阿弥陀如来 の本願力では助からない。

想像つかないお力で進ませていただいている。

こういうことを聞くと、このくらいと思ってるのも訂正、

どれだけ絶大なものを想像してもよいが、

本当の本願力には到底及びもつかない、信楽の心になれる。

親鸞聖人「若不生者のちかいゆえ信楽まことにときいたり」

そんな本願力だったと。

その本願力によって、必ず信楽の身になる。
一念で完成すると仰言った親鸞聖人のお言葉。

「極速円融の真詮」

早さの極まり。完全無欠で欠け目無い。真詮=信心。

蓮如上人は

「一念発起入正定之聚」

正定之聚とは絶対の幸福のこと。

長いことかけて強めて、信じ抜いて完成するものでない、

一念で完成するものだと教えられている。

 

 

生涯かけてでも求めるべきものは何か。いろは歌

それは最後、「すべて夢だった」
「何もこの手の中に残ってはいない」と空しく終わっていくような
ものではない。

○何を手に入れたら「求めて本当によかった」といえるのか。
そんなものが本当にあるのか。
それを「いろは歌」の後半では、「ある」「あるから求めよ」と
訴えられている。

 

「うゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」
⇒「有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔いもせず」

 

「有為の奥山今日越えて」

有為の奥山…苦しみのジャングルに迷い込んだような人生
そこから、今日、今はっきりと抜け出る事ができた。
本当の幸せを手に入れたという叫び

 

「浅き夢見じ酔いもせず」

その幸せは浅い夢を見ているようなものでもなければ
酔っ払っていい気分になっているのでもない。
cf.秀吉の手に入れた幸せは「夢のまた夢」

 

夢も酔いも必ず覚める…覚めたら「なんだ、夢だったのか」

夢から覚めたような体験であるということ

 

これを歎異抄と言う本には、「無碍の一道」といわれています。

一切の障りが障りとならない、今死が来ても崩れない、
そんな、幸せな世界があるのだということです。

 

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親鸞聖人は29歳で人生の目的を果たされた

親鸞聖人は仏教を聞かれて、29歳の御時に人生の目的を果たされた。
人生の目的を果たし遂げようと思われたきっかけ、

これをまず知ってもらいたい。

聖人は800年前にお生まれになられて、

わずか4歳でお父様が亡くなられた。
親をなくすということは大変なショック。
そのショックは私たちでは想像のできないものであったでしょう。
子供のときの支えは親。
そして8歳のお年で、杖とも柱ともしておられた

お母様、吉光御前が亡くなられた。

当時20歳前後で子供を産む。だとすれば、30歳前後で亡くなられた。
幼少のとき心の支えであった両親がいない。

大変なショックであり、無常を知らされるご縁になった。
人の死を通して、自分も死んでゆくと、

いつも一緒にいて言いたいことを言って、

おねだりをしたり、全幅の信頼を置いていた、

そのお母さんがこの世にいない。
聖人のご両親が亡くなられた。

このショックは無常を激しく知らされる大きな縁となった。
死んだお父さん、お母さんはどこへ行ったのだろう。
後生という問題が自分の問題となった。
後生がハッキリしない。ハッキリしない後生に向かって自分が進んでいる。
決していいことがあると思えない。

真っ暗がりな後生。

この心を抱えて生きていたら安心満足することもない。
何よりも今晩ともしれない後生。人によって知らされ方は全く違う。
聖人が詠まれたお歌。

「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」

どういう経緯でよまれたか、いきさつは。
当時、後生の問題、これは仏法にしか教えられてなかった。
天台宗弘法大師真言宗では、親鸞 聖人は天台宗を選ばれた。
出家得度の儀式を慈鎮和尚にお願いしたところ、明日得度しようと言われた。
そこで聖人がおもむろに筆と硯をもたれて詠まれたのがこのお歌。
明日あると思っているのは間違いですよ。何が?
自分の命。これを桜の花にかけている。
また明日、今と同様に桜の花があると思っていたらそれは大変な間違いですよ。

嵐が吹いたら散ってしまう。
無常の嵐は待ってくれません。もし今晩死んだら仇になってしまう。

激しい無常観。無常観とは無常を観る。

小学校のとき、朝顔のスケッチをする。

そのときの観察の観。
赤なら赤、ピンクならピンク、そのまま観なさいということ。
無常を無常と観なさいということ。四角なら四角、三角なら三角。
人の命をあきらかに観なければならない。

聖人のお歌は正にその通り。

シドニーオリンピックソフトボールは銀メダルをとった。

テレビでよくやっている。
女子ソフトボールエースの高山。
その人のお母さんが白血病で亡くなった。
通夜で多くの人が参列した。
オリンピックの銀メダルをとった人の母。
なぜこんなに話題になるか。
実際そのお母さんは、オーストラリアまで行ってそこで応援していた。
子供のメダルをとる姿を見るのは嬉しい。
急性白血病と診断されてから2日後。初めは体調が思わしくなかった。
明日とも知れない命。
白血病の怖さは自覚症状がない。
医者から宣告を受けて、早ければ2日、アンディーフグは5日、

長い人でも数ヶ月。
亡くなる3日前までは喜んでおられた。

明日あると思っているのは間違い。

どれだけ科学が発展しても、このお言葉は相容れるお言葉。

いつの世もどこの国の人も変わらない真実。
無常を観たら、死んだらどうなるのだろう。必ず直面する問題。
死んだら死んだときだよ、と思っているのは一大事じゃないのでなく、

後生が分かっていない。どう分かっていないのか。
「明日ありと思う心の仇桜」と分かっていない。
今急ぐことがあるから……この心にだまされて一大事を一大事と気づいていない。

無常を無常とあきらかに観ていない。

聖人が出家された動機は死んだらどうなるか。
私達は、無常の風の吹きすさぶ中、生きている。
世界では、ユーゴ、チェチェンで戦争が起きている。人が殺されている。
日本にいて周りを見ても、本当にそんな事が起きているの、と思う。
でも事実。
人の死で、これが自分の一大事だと思う人があるか。
ここに聖人を尊敬せずにはおれない理由の一つがある。
どれだけ我が身の一大事と思えるか。一時の感情ではない。
ハッキリしたらどうなる。

この世のことにたとえると1週間後に手術がある。
その人はその手術が成功するか、失敗するかしか頭にない。
食事は何だろうとか、立合い人は誰なのかとか、そんなことは後回し。
生きるか死ぬか。ハッキリしなかったら不安で何も手につかない。
聖人は、20年間、何としてでもハッキリさせたいと比叡山でご修行された。

生きてはいるけど、行き先がわからない。
ラソンで言えば、どこまで走ればいいのか分からない。
その心一つ。充実感も無い。
今走って苦しいけど、どこまで行ったら解消されるのか。
どこに向かっているのか。
生きている私達もどこへ向かって生きているのか。
これがハッキリする。

どれだけ頑張って修行しても、千日回峰行をされても、心に明かりが灯らなかった。
言うならばゴールのないもの。解決できない。
善いことをやりなさい、でも善いことができない。
だからゴールがない、あっても届かんと言ってもよい。
誰もが救われるものでない、誰も救われないと言ってもよい。
そういう中、私達、人生の目的、これを達成させられる仏教を聞いている。
これは素晴らしいこと。
人生の目的果たし遂げられるぞ。

阿弥陀如来の本願によって人生の目的を果たし遂げられる。

後生の一大事が解決できる。
そのお約束通りに29才のときに救いとられた。
比叡山には、人生の目的を果たし遂げられると約束された

阿弥陀仏の本願を教えられる人は誰もいなかった。


そういう中、山を降りられて善知識にお会いできた、これは稀なこと。
仏縁に恵まれた、そういう人はどこにでもある訳ではない。

20年間聖人は本当に正しい仏教なのか、今解決できるのか、

そう思いながらも、修行に励まれた。疑い、苦しんだ。
救いとられたとき、本願まことであった、

善知識にあうことは非常に難しいことだった、いろいろなことが知らされる。

これを慶ばしいことだ、喜ばずにおれない、とおっしゃっている。
それだけ、今まで苦しんでおられたということ。


真実の仏法に遇われる前に20年、

もっと言えば、生まれては死にを繰り返して、

非常に長い間苦しまれた。

人生の目的はなぜ完成できるのか

人生の目的に完成がある、とは、
剣の道を完成したとかいうのとは違います。

それは、あまり剣の道を知らない人です。
宮本武蔵は、名実共に日本一の剣客でした。
しかし、まだまだと、完成なんてないと言っています。

将棋で、羽生名人は、
将棋の道完成したかというと、そうではない。
まだ負けることがあります。

スポーツの世界など、卒業はないのです。
天下を統一する道、政治の道、
完成したということはないのです。

では、人生の目的、完成があると、
なぜ言えるのかと言うと、
欲を満たしたというものではないからです。

親鸞 聖人は、無明の闇の破れたことだと仰っています。
これが真実の信心なんですよ、卒業があるんですよ、
このように言われたのです。

 

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信心とは

信心といいますと、諺にも、
「鰯の頭も信心から」
と言います。

鰯とは、非常に安い、昔は人間も食べなかったものです。
しかし、尊いと思って信じれば、それも信心です。

何でも信じていれば、信心です。
宗教を信じていない、そういう人が多くいます。
無宗教、無信心と言いますが、宗教に関心がないわけではありません。
日本人の半分以上は、宗教に何らかの関心を持っています。
しかし、特定の宗教を持っているわけではないです。
欧米では、無宗教と言うと、薄っぺらな人間と思われたりします。
免許を取る際でも、宗教は何かという欄があります。
日本では、信じている人は少ないのです。

信心とは、心で何かを信ずることです。
だから、全ての人は、信心を持っているのです。
特定の宗教でなくても、これで幸せになれるという
ものを持っていれば、それも信心です。

仕事信心、恋愛信心、強い信心を持っていませんか?
親を信じているなど、何かしら信じています。
何も信じていない人はありません。
だから、生きる=信ずる、と言えます。

例えば、床屋に行って剃刀で髭を剃ってもらう。
寝ていられるのは、信じているからです。
斬ったら、必殺仕事人。
そういうことはないと信じているのです。
飛行機も、間違いなく目的地まで運んでくれると
信じて乗る、信じなければ、1日たりとも生きてはいけません。
まさか、このビルが明日潰れていると思ったなら、そこに泊まろうとは思いません。

こう考えてみますと、生きる=信ずるといえるのです。
全人類は、信心を持っていると言えます。
法の華など、そういうものを信じていなくても、信心を持っていることが分かります。

じゃあ、自殺をする人はどうなのか。

いろいろなものに裏切られて死んでいく、
信ずるものはないのだろうと。
どうでしょう?

今が苦しくて自殺をします。
死んだら、その苦しみから離れることができるだろうと、そう思うから自殺をします。
今よりも楽になれると信じて自殺をする。

ですから、信心と無関係という人はいないです。
健康信心、親信心、恋愛信心、お金信心、大学信心など。

みんな信心をもって生きています。

 

しかし、信心には、真実の信心と真実でない信心があります。

これまであげたのは、すべて真実の信心ではありません。

 

正信偈の龍樹菩薩のところの意味

正信偈

龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の所。

憶念弥陀仏本願

 自然即時入必定

 唯能常称如来

 応報大悲弘誓恩」(正信偈
弥陀仏の本願を憶念すれば。
憶念というのは、どちらもおもうということだが、

憶は時々おもう、念は明記不忘といって、常におもう。

阿弥陀如来の本願ハッキリ刻み込まれて忘れない。

大好きな彼女がアメリカへ行ってしまう。

「僕は君を思い出すからね」

と言うと、彼女は怒り出す。なぜか。
『思い出すよじゃ思いがうすい思い出さずに忘れずに』
私のことを思い出すなんて言わずに、忘れないでね、と言った。

信心決定する前は、普段忙しくて、仏法のことなんて忘れている。

そしてたまに、仏法大事だな。仏教講座に行こう。

仏教講座に行ったときだけ阿弥陀如来 のことをおもう。

それではダメ。普段忘れている。それはまだ一つになっていない。

憶念というのは、ハッキリと刻み込まれてもう忘れない。明記不忘という。

そのときに、自然即時入必定
自然というのは、他力。願力自然。
即時は、その時に、一念で。
必定、正定聚のことを必定という。必定にはいる。
阿弥陀仏の本願力によって一念で必定にはいる。

そのうれしさがこみ上げてくるから、

その御恩何とかしてお返ししたい、と
唯能常称如来号応報大悲弘誓恩

必定というのは、必ず仏に生まれられることに定まった。必定の菩薩。
必ず仏になるに定まった人。一念でなれる。
そうすると嬉しくて嬉しくて、

阿弥陀仏に対してお礼を言わずにおれない。
そのお礼の言葉が
唯能く常に如来の号を称する
如来の号とは念仏のこと。
それが「応報大悲弘誓恩」=お礼。

常にお礼の心が絶えない。

念仏衆生

歴史上の人物ナンバーワン

今日にも名前を残す人物が色々いますが、
最も多くの人から注目を浴びて、歴史 上人物ベストワンという人がいます。

時は約800年前、鎌倉時代
平安から鎌倉にかけて、思い出す事と言えば、
源頼朝平清盛

戦国武将で言ったら色々いる。
しかし、何百年の後の人に影響を与えたという事はありません。

鎌倉時代親鸞 と言う人がいます。
かつて、「知ってるつもり」で2時間特集された事がある。

同じ鎌倉時代であっても親鸞聖人が一番。
書店に行っても親鸞聖人関係の本が所狭しと並んでいる。
何百年たって自分の名前が残っている、これはなかなか大変なこと。

 

800年経った最近の人でも、

 司馬遼太郎鎌倉時代親鸞を生んだだけでも偉大だった」
吉川英治「なんとなく親鸞聖人が好きだ」
などと言っている。

 

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