仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

白骨の章とは

白骨の章には、この世の無常について切々と書かれている。

諸行無常 。すべてのものは移り変わっていく。
この世のすべてのものは続かない、無常である。

無常を観ずるは菩提心の一なり」といわれるように、

無常」をよくよく見ていくことが菩提心のはじめ、

「本当の幸せになりたい」と思う心の第一歩といわれている。


自分の乗っている船が泥船であるということが分かれば、
どこかに沈まない船がないだろうかということで探さずにおれなくなる。
無常無常と観ていくことが大事。
それが真実だから。
それについて、白骨の章に書かれている。

 御文章5帖目第十六通  白骨
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、
この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身を受けたりという事をきかず。
一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日ともしらず、明日とも知らず、
後れ先立つ人は、本の雫、末の露よりも繁しといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわち二つのまなこたちまちに閉じ、
一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、
桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属集まりてなげき悲しめども、
更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となしはてぬれば、
ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

もし絶対の幸福にできなければ命を捨てる

若不生者不取正覚

もし生まれさせることができなければ、

絶対の幸福にできなければ命を捨てようと命がけの約束をされている。
この世も未来もどんな苦悩を持つ者も平等に絶対の幸福を与えよう、

一味平等の幸せにしてみせる、差別のない世界。
とてつもない本願なので親鸞 聖人は正信偈

建立無上殊勝願

といわれている。

 

この通りになれる。
体験できる。

ですから阿弥陀如来の本願にツユチリほど疑いなくハッキリするのは当たり前、

生きているときに弥陀の本願が誠とハッキリするので疑いの出ようがない。

例皆さんでお金を貸したことがあるという人。
人間関係に問題が出るのであまりよくないが、貸したら本当に返してくれるかな。
忘れるかも知れないと疑いが出る。
彼だから返さないことは無いと信じているけれどもと疑う。
疑いの心一杯、所が約束の3日前にこの前借りた1万円返した、
そうしたら疑いはなくなる。

返してもらったのに、彼は帰してくれるかなという疑いは微塵も出てこない。
阿弥陀如来 の本願通りに、36文字通りになれば、

ですから本願と一つになる、疑いがないので、

誠だった、誠だったとなります。

この一念までは疑い一杯、阿弥陀仏の本願通りになっていないから、

しかし一念で信楽の身になりますから、

絶対の幸福になるので本願まことだったとなる。

阿弥陀如来は架空の仏?

阿弥陀如来は宇宙最高の仏、
原子については原子物理学者しか分からないように
仏の智恵を体得したか方しか仏の世界は分かりません。
大無量寿経

如来智慧海は、深広にして涯底なし、
二乗の計る所に非ず、唯仏のみ獨明了せり
(大無量寿経

仏の智慧は深くて広くて底がない。
二乗とは声聞、縁覚で、私達よりずっと悟りを開いている人、
それでも計ることができない.唯仏のみ明了せり。

よくさとりの52位が山登りに喩えられます。
山のふもとにいる時は見える範囲は狭いわけです。
ですが山をだんだん上ると遠くまで見えます。
一番上まで行くと山の裏側までわかりますが、
下のほうの人はどうやっても分かりません。

例東京でも一番下の方にいるとごみごみして分かりませんが、
スカイツリーからみれば、分かります。
富士山まで一望できます。
こんな町で殺人事件など色々おきているのか。

仏の境涯のことは仏智を体得した方しか分かりません、
この地球上にはブッダといわれるお釈迦さましかおられないので

釈迦の前に仏無し釈迦のあとに仏無し

といわれます。

それ以外にも自称仏という人がいますが、そんなのはほっとけ。

その釈尊が成仏してから涅槃の雲に隠れられるまでに説かれた
一切経には沢山の仏が説かれています。
その中で一番多いのが阿弥陀如来 のお名前です。

あなたは自分で自分を見られるか?

自分の心を見つめる2つ目の鏡は、自分鏡。

自分鏡とは、自分で自分を見る。
これは欲目が入って、本当の自分をうつさない。
自分の子供に対しても欲目がある。
子供が万引きで捕まった。
「うちの子に限って」と親は必ず言う。
自分の子供が泥棒したら、自分は泥棒の親になる。
そんなはずはない。
親バカ。
ある医者から聞いた話。
腹痛ということで、娘さんとお母さんがやってきた。
診察してみると陣痛。
「これは陣痛ですよ」とお母さんに言ったが、「そんなはずはありません」という。
「うちの子がそんなふしだらなことするはずがない」と信じている。
ある医者の奥さんから聞いたことですが、御主人は、家族を自分では診察しない。
どうしてもよく見よう、という欲目が入るから。
自分のことは悪く思えない。
自分の子供や家族でさえ欲目がはたらくのですから、
まして自分自身となればいわずと知れています。
みんな自分に惚れきっている。

白髪が増えたな、と思っても、自分よりもっと若くて白髪の多い人を連れてきて安心する。
近くにいなければ何里先でもつれてくる。
どうしても欲目、自我意識を離れることができない。

自分でありのままの自分を見ることはできない。

 

無碍の一道(歎異抄)とは?

ミッドウェーの海戦中心になったのは空母。
アメリカも日本も総力戦。
いろんな空母がつぎ込まれていた。
そしてそれぞれの空母には戦闘機がつみこまれていた。
当時の日本の海軍は優秀だった。
ゼロ戦
非常に優れた戦闘機。
パイロット。
必死になって戦って見事に敵を撃沈する。

ところが航空母艦を先にやられてしまった。
後は帰るだけだった勝ったのに、帰るところがない。
燃料はだんだんとなくなっていく。
勝ったのに帰るところがない、何のために戦ったのか。
海の藻くずと消えていく。
考えてみると、私たちの人生もこの飛行機にたとえる事ができます。
生まれたということはは、飛び立ったという事。
高いところを飛んでいるという人もいれば、低空飛行している人もある。
飛び方は人それぞれです。
しかし、人生はただでは飛んでおれない。
いろんな敵がやってくる。
大学受験という敵がやってきた。
大学の赤点という敵がやってくる。
それを乗り越えても、次には失恋という敵がやってくる。
そういう飛行機もあるかも知れない。
あるいは借金という敵。
それでも何とか飛ぶが、病気が来たり、試験が来り、
複雑な人間関係の渦に巻き込まれる事もあるかも知れない。

そんな問題が一つもないという人は一人もいないでしょう。
仏教では、このような障害のことを障りといいます。

歎異抄第7章には無碍の一道という言葉がありますが、
その碍というのは障りの事であります。

次から次へと障りがやってくる。
これが人生。
みなさんなら、その中、これまで懸命な努力をはらっていきてきた。
しかし、一ついえる事は、もし仮にそれらの敵を全部打ち落としたとしても、
この飛行機は燃料が必ずなくなるという事です。
私たちの命のガソリンに限りがありますから、そうなると、あとは死んでいく
しかないとなったなら、それまでやってきた事、戦ってきた事は何だったんだ。

しかも、降りていくところがない。
敵をどう倒すか、どうよけるか、ことも大切ですが、
やがて燃料が切れるのですから、
いつ切れても大丈夫という身になることが一番先決なんです。
と教えられたのが親鸞聖人です。

歎異抄に記された無碍の一道の碍とは死をも障りとならない幸せ。
いつ死んでも悔いなしという身にんれるんだぞという事です。
親鸞聖人は、無碍の一道に出たぞと言われていますから、
無碍の大空港をもっているぞと言われているのです。

ところが、誰もこんな空港を持っていない。
そこに苦しみの人生が始まるんだぞ。
だから早く、無碍の一道の身になれよと教えて行かれた。

この世界に出ると、一切の障りが障りのままでさわりとならない世界にでるから、
念仏者は無碍の一道と言われたのです。

 

true-buddhism.com

 

自力が廃るとどうなるか

自力の心がなくなるとどうなるのでしょうか。

自力の心のことを無明の闇といわれます。
これがなくなったどうかが問題であると、親鸞 聖人は教えられています。
愚禿鈔です。

 

信受本願 │ 本願を信受するは
前念命終 │ 前念命終なり
即得往生 │ 即得往生
後念即生 │ 後念即生なり(親鸞聖人)

 

本願を信受するというのは、本願まことだったとしらされたということです。
本願には三つの心が誓われています。
それを、天親菩薩という大変偉い方が、信楽の一心であると教えて下さいました。
そして、信楽とは、破闇満願の身にしてみせるということを
曇鸞大師という、また大変偉い方が明らかにして下さったということです。
親鸞聖人はこのお二方を、大変尊敬されています。

破闇の闇とは無明の闇のことで苦悩の根元です。

私達は、あの人がいるから、金がないから、レポートが大変だからと、
色々思っていると思います。
こういうことはハッキリしているんじゃない?

そこから間違っているんですね。
本屋にいっても、対処法の説明ばかり。
根元を教えたものなんかないんだね。
レポート嫌なら大学やめればいいじゃない。
でもそうしたら、高卒でどうやって仕事探すかという悩みが出てくるわけだ。
枝葉なんだよ、そういう悩みは。
いろんな苦しみを引きずりながら、沢山の実をつけながら、何とか生きているんだね。
その苦しみの根元から抜き取ってみせるというのが、
無明の闇を破るということなんです。

これがあったら幸せになれると思っているものもありますね。
一年生になったらっていう歌ありますね。
ああなったら、こうなったらとその都度やっているけど、みんな根元を間違っているんですね。
その苦しみの根元を無明の闇と教えられ、それを抜いてみせるというのが阿弥陀如来の本願です。
親鸞聖人は、その無明の闇が破れたよろこびを
「慶ばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て」と仰っています。

この心が一念で、無明の闇という、迷いの命が終わったんだと。
一念で信楽という心に生まれたと。
本願まことだったと知らされたんですね。

現生不退とは

「現生不退」とは現在世で正定聚不退転になれるということで、
この世で完全な救いにあずかるということ。

真に知んぬ。
弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大槃涅槃を超証す。
(教行信証信巻)

 

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
(正像末和讃)

五十六億七千万年後、婆意多利耶如来となる釈迦の後継者
弥勒は、最も位の高い等覚の菩薩である。
弥勒信者は、今でも決して少なくない。
横超の金剛心が徹底すると同時に我々は、
その弥勒菩薩と同格になる。
それだけではない。
五十六億七千万年後でなければ仏覚に到達できない
弥勒を尻目に、「お先ご免」と念仏者は、
命終に無上覚を超証するのだ。
「真に知んぬ」明らかな聖人の、偉大な信念の表白である。

まず一番最初の、「真に知んぬ」と言うお言葉。
教行信証の中で、幾たびか仰っておられます。
これは親鸞 はこのように思うとか、こうではなかろうかということではなく、
親鸞ハッキリ知らされたぞということを仰っています。


ツユチリの疑いもなく、ハッキリ知らされたことを仰るときにしか、
使われないんですね。
明らかな聖人の、偉大な信念の表白です。

どんなことが知らされたのか。
対句で、弥勒大士と念仏衆生を対比されて仰っているんです。
弥勒大士は現在、等覚の金剛心だと。
それに対して念仏衆生は、横超の金剛心を窮めるんだと。
龍華三会の暁、弥勒大士は無上覚位を極めると。
それに対して、念仏衆生は臨終一念の夕に、大槃涅槃を超証すると。
完全な対比で教えて下さっています。

弥勒大士  :念仏衆生
等覚の金剛心:横超の金剛心
龍華三会の暁:臨終一念の夕
無上覚位  :大槃涅槃

親鸞、真に知らされたと仰ったあとに、
阿弥陀仏に救われたということが、
いかに素晴らしいかということを説明されています。
私達は、比べないと分かりませんから、
対比されて教えられるんですね。

日本人に生まれてこんなに仏法を聞かせていただけるんですね。
周りや世界の常識と比較してみて、初めて有り難さが知らされるんですね。

弥勒大士を引き合いに出されて、親鸞聖人が教えて下さっています。
弥勒大士とはどういう方かというと、大変有名な方で、
いろんな経典に出てきます。
大士とは菩薩と同じ意味ですが、
菩薩というのは仏のさとりを求めている人を言います。
さとりといっても52ありまして、さとりの52位と言われます。
力士にも、位がありますね。
この場合は相撲協会が決めたものですが、
さとりの位は宇宙の法則だと言われましたね。

52段目のさとりを無上覚と言われます。
これ以上無いから無上覚。
ここを目指して仏法を求めている人を菩薩と言います。
弥勒 は、等覚の菩薩と仰っていますが、これは51段目のことです。
補処ともいわれます。
現在も兜率天と言うところで修行されています。
釈尊が次にさとりを開くのは弥勒だと仰っているように、釈尊の跡取りです。

聖道仏教の理想的人格者と言われます。
理想的と言われるのはよほどの人ですよ。
理想的な仏法者と言われる人がいたら、相当です。
先生に教えていただいているとおりに、
一つ一つきちんと実行しているということですから。
ましてや聖道仏教の理想的人格者ですから、私達とは雲泥の差です。
そして51段目にいると。
そして、五十六億七千万年後に仏のさとりを開くと。
これを龍華三会の暁と言います。
これは、弥勒菩薩初転法輪のことです。

法輪を転がすというのは、盤根錯節した心の大地をならしていくという
ことで、その最初ですから、初転法輪と言われます。
それはいつですかといったら、五十六億七千万年後ですと。
歴史のある空手でも何千年か。
途方もない長さですね。
しかも、その間ぼーっとしておられたわけではないんです。
理想的人格者ですから。
今まで、どれだけ修行されてきたことか。
大変な決意で臨まれていることがわかります。

私達が求めているのも同じなんです。
それが分かれば、こんだけやっているのに
まだ信心決定できないとか言っているのが、
どれだけあさましいことか分かります。
こんだけって、どれだけ?
まだ獲信できんのかという人がいるけど、全然分かってない。
会社入って二三年のひとがマイホームたたないと行っても、変な人でしょう。

一方、念仏衆生というのは、横超の金剛心をえている人のことですが、
もっといえば親鸞聖人ご自身のことですね。
弥勒菩薩とご自身を比較されて、驚くべきことを仰るんですね。
横超の金剛心とは、51段相当のさとりということです。
横というのは他力をあらわします。
それに対して竪は自力をあらわします。
超というのは一念のことです。
一念で、ぽーんと、弥勒と肩を並べるところまで行くんだと。
だから、金剛心も自力と他力があるということです。

これを大無量寿経には
次如弥勒
といわれています。
こういう身に、親鸞させていただいたぞと仰っているんです。
「おい弥勒、元気か」こうい
う感じです。
そう言う身に、親鸞なったぞと。
すごいことでしょう。
一段でさえ、五十六億七千万年かかっているのに、
阿弥陀如来のお力とはいかにものすごいものであるか。
自力修行している人から見たら、
果てしない長期に渡って修行してきた弥勒菩薩に、
一念で追いつくというのですから、もう信じられないことです。