仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

真言宗の刈萱童心(かるかやどうしん)

後生の一大事に取り組んだ
聖道門自力の仏教のなかでも、後生の一大事の解決に大変苦労した人がいます。
弘法大師の開いた真言宗で、刈萱童心という人がいます。
もとの名前を加藤左衛門繁氏
部下を集めて、花見をしようじゃないか。
昔もそういう宴会があった。
乾杯しようか、の時に、桜が小さなお猪口の中にひらひらと落ちた。
普通は、「風流だな」となるものを、
加藤繁氏は、「なんとはかないものか。
私も今は恵まれているけれど、いつ無常の風に襲われても不思議じゃないな」
と激しく無常を観じた。
宴会は中止。
帰ってしまった。
家に帰ると、奥さんとめかけがいた。
二人が障子越しに琴の競演をしていた。
二人の髪の毛が絡み合って見えた。
二匹の蛇がけんかしている。
このようにけんかしているのは、
わたしのせいだ、と深く罪悪を観じた。

こんな不定の命を持ち、全部罪を背負って死んでいかなければならない。
そんな私が死んだどうなるだろう。
そのまま高野山に上ってしまった。

高野山真言宗
恩愛をたたなければならない。
家族との縁を断たなければならない。
奥さんはすでに子供が宿っていた。
石童丸。
「どうして僕にはお父さんがいないの?」
もううそをつけなくなって、
「今高野山にいる。刈萱童心という人だ」
「会いたい、会いたい」
といってきかなかったから、母と高野山へ。
女人結界だから、「ここからは一人でおいき」
探すがみつからない。
最後にかるかやどうしんにあった。
刈萱童心は、子供をみて、妻とそっくり。
そして形見の刀を持っている。
ここで親子名乗りをあげるわけにはいかん。
「お父さんを知らないでしょうか」
「お父さんは亡くなった」
空いているに連れて行った。
この世に生きている目的は、子供と恩愛の情をもつことじゃない、
後生の一大事じゃないか。
子供を見送って、刈萱童心はがくっとひざをおとしてしまった。
子供は山を降りるとからすが鳴いている。
なんと母が亡くなっている。
一日で父と母を亡くした。
そして最後お姉さんにすがろうとす
るが、お姉さんもすでになくなっていて四十九日。
石童丸は、無常を知らされて、山に登った。
刈萱童心にあって、
「どうした坊や!」
これまでのいきさつをすべて話した。
あまりにも悲しくて、
刈萱童心は、涙を流してしまった。
それで長年のさとりがすべて崩れてしまった。

恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし親鸞 聖人)

偽物の花

香りはと 問われて困る 造り花

親鸞 聖人の教えの一念の信心は?ときかれて困る。
自力他力の水際は?と聞かれて困る。
それは造り花だから。

最近の造花は、凄い。
 騙されて近づいて触って、なあんだ!と驚く。
 本物だと、いくら自画自賛しても、蝶や蜂は見抜いて、寄りつかない。
 蜜や香りの溢れる花には、世界から飛んで集り喜び競う。
 蜜や香りの尊さか。
   蝶や蜂の因縁か。

最近の造花は凄い。
造花…これこそ真実だというもの。
蝶や蜂…仏縁ある人。
蜜や香りの溢れる花…他力信心を体得した人。

他力の信心の尊さから集ってくるのか、
仏縁で集ってこられるのか。

遺産

電車から降りるとき、誰に席を譲ろうかとキョロキョロして気をもんでいる。
自分の電車のように執着し、座っていた席に未練タラタラの者ばかり。
前に立っている人に、あっさり譲って、降りた先のことを考えねばならぬのに……。
あわれというも愚かなり。

 

死後の世界を全く考えていない人に対して。

遺産を、誰に譲ろうかと考えている人ばかり。

ここで言われるようなひとは実際にいたらかなり変な人。

狂人。

 

全人類、皆こんな狂人のようなもの。
秀吉は家康に「秀頼をたのむ・・・」と頼んでいた。

飛行機では、着陸地を全く考えていない姿。

臨終息の切れ際の人だけのことかというと、
私たちも、「このいすは俺のもの!」
と思っている人ばかり。

 

 

一秒も休む暇なし前進す

お聖教のお言葉を苦労して自分で作って書いて覚えた。
自分で書いた文だけ種蒔きが違うから。
自分で苦労する。
パソコンで打つ。
打った人、書いた人が得をする。

見るだけより書いていって読む。
全部総動員させて必死に覚えようとする。
何時も持ち歩いて拝読した。
時間が経っても何回も見て忘れていなければ印をする。
印が五つになればまず合格。

どれだけ言えるか試したことがある。
もちろん獲信しても庄松のような人はあるが、
教学は自然に身に付くものではない。

一秒も休む暇なし前進す

信前であれば尚更こういう姿勢が必要ではないか。

私たちは少しでも一歩でも半歩でも前進しようと言う努力。
因果の道理を知らされたら当然です。

因果応報のしくみ

仏教の目的は抜苦与楽。

人生苦なり。
人生の実相が楽しいものなら何も教えを求める必要はない、
けれど苦しいものだから、何かを求めて対処しなければならない。

お釈迦さまの第一声がこれであった。
ではなぜそうなるのか。
まず人生の現実、実相を教えられ、
それから、ではその苦しい人生何のために生きるのか、
ここから仏教が始まる。

次に因果の道理。
私達の運命は一体何によって決まるのか。
私達は幸せを求めて生きている、ではその幸せはどこからやってくるのか。
そういうことをお釈迦さまが教えられた。

原因と結果の関係、善因善果、悪因悪果、自因自果、
自分にかえってくる運命は全て自分の行為による。因果応報

が左右するとか、星の位置によるとか、そういうことではなく、
全て自分の行為による。

ではその運命を決める行為とは?インドの言葉でカルマ
身業、口業、意業。
だから次の問題に三業がある。
身体や口も私の運命を変えるけれど一番重いのは心。
身体や口なら経験から分かるけれど、何故心も?
人の目に触れないのに。

そこで次に八識。
私達が行いをしたならそれが阿頼耶識に業力となって蓄えられる。
それが縁に触れると結果を引き起こす。
このように運命が何によって決まるかを明らかにされている。

この因果の道理を徹底すると三世因果になる。
孔子が説いたのは、この世生き方をよくする因果。
その孔子にある人が死んだ後どうなるのか聞いたら、
生も分からないのに何で死んだことが分かるんだと答えた。
三世因果を徹底しているのは仏教だけ。

自分が受ける結果は全て自分の種まきによる。
だから過去世がある。
死ぬというのも結果であり原因である。
その結果もあるのだから来世がある。

三世因果を教えられてその結論として、
廃悪修善もそうですが、過去も未来も現在に収まっている、
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
記憶喪失になっても今の結果をみれば過去の因が分かる。
過去も知りたいけれどもっと知りたいのは未来。
早ければ今日から、今からでも後生
自分は一体どこに行くのか、どういう状態になるのか。
それも現在の種まきを見れば分かる。
三世因果の結論は現在の自己を見よ。

本当の仏教の教えは平生業成であり、現生不退、不体失往生
何れも現在の教え。
現在の自己を見よと教えられたのがお釈迦さま。

 

仏教を聞くとき早く救われる心がけ

仏法は聴聞 に極まる。

では聞く聞くと言っても、授業を聞いているように聞けばよいか、
ラジオを聞いているように聞いていればよいか、そうではない。

正座をして心を正して聞かなければならない。
これを譬えられた話があります。

あるとき舎利佛が座禅の修行をしていた。
そこに維磨居士がきた。
維磨居士はお釈迦さまのお弟子でなかったけれど、

この人は非常に嫌われ者だった。

それは、その人の欠点をズバッと言うから。
本当のことをずけずけ言う人というのはみんなから敬遠される。
維磨居士もそいう人だった。
舎利佛は維磨居士がきたということで・・

(きたきたきたー、またいやなやつがきたなー)と思った。
「舎利佛今何をしているのか」
誰が見ても分かるのに、何でそんなことを聞くのか。
「見れば分かるでしょ、座禅をしております」

そのとき大喝一斉
「なにそれが座禅か。もしじっと身体を動かさないでいるということで
座禅になるのなら、山の中の木はみな立派に座禅しておるぞ」

これはどういうことかというと、
座禅は足を折り曲げて特殊な座り方をしているのが目的ではなくって、
あくまで手段。
心を集中させることが目的。
舎利佛は心を見失っていた。
「舎利佛、心を正せ」座禅の目的を言われた。
同じようにあなたがここに座って聞いておればよいかと言いと、
そこに心というものがないと聞いたことにはならない。
この道というのは心が変わっていく心の道。
心の道を進んでいくときに、その心が同じだといったらずっと
止まっているだけ。
人生の目的を達成させていただきたいという心で聞かせていただくのが聴聞
それを忘れて座っている、耳を動かしている。
だから同じように仏教を聞いている、といっても
その人によって進む信度というのが違う。

あなたが必ず苦しむこの世の仕組み

人は何かを信じなければ生きていけない。

信じるということは生きるということ。

人はなにかを当て力にして頼りにして生きている。
パートが辛いけどあの子が大学を出るまで頑張ろう、
という親は子供を当て力にして生きている。
妻は夫を、夫は妻を頼りに生きている。

生きるということは何かを頼りにあて力にしていると言うこと。
絶望ということが言われるけど、
すべてのものに裏切られ当て力にするものが絶えたという事。
私達は苦しむとき、というのはどんなときかというと、
信じていた者に裏切られたときに苦しむ。
信じていない者にどれだけ裏切られても苦しまない。
自分がどれだけ信じているかによって、どれだけ苦しむか分からない。
病気で苦しんでいる人は、病気にならないと言うことを信じていたけど、
裏切られて苦しんでいる。

夫に裏切られて苦しんでいる人は

妻に裏切られて苦しんでいる人は破産して、
お金お金とやってきた人はお金に裏切られて、
能力を信じていた人は野球の二軍で能力に裏切られる。

私達は信じている者に裏切られたときに苦しむ。
ではこの世のなかにこれだけは裏切らないということがあるか。
お金、能力、・・この中でこれだけは絶対に崩れないというものがあるか。
この世の習いは諸行無常です。
諸行とはすべてのもの。
私達の体も・・この諸行に入らないものはない。
私達の周りにあるもので私達の元を去らないものはない。
健康も崩れていく。
恋人も気持ちが続かなくって、病気になって先立っていくという事もある。
江藤淳は妻に先立たれて自殺してしまった。
自分の回りにあるもので自分を去っていかない者は何一つない。

1人は何かを信じなければ生きていけない。

2信じたものに裏切られたとき苦しむ

3すべてのものは裏切る

この三段論法から私たちは必ず苦しみの世界に沈む。
お釈迦さまの言われた、必堕無間である。