仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

四聖諦の意味

仏教が明らかにした4つの真理四聖諦といいます。
この4つです。

     苦諦──果
     集諦──因   
     滅諦──果
     道諦──因

四聖諦とは、分かりやすくいうと、
仏教が説き明かした苦しみの原因と結果です。

苦しみの原因を集諦と言う。
この集諦によって人生が苦しみに染まる。
苦諦となる。

じゃあ、どうしたら幸福になれるのか。
その原因が道諦です。
そしてその道諦によって滅諦、
苦しみの滅した世界に出させていただける。

四聖諦を分かりやすく、仏教が説き明かした苦しみの原因と結果。
聖とは正しいという意味で理解しても良い。
略して四諦ともいいます。

これ関連してますね。
人生が苦しみである真理、これが判らないと苦しみを抜きたい、
原因を知りたい気持ちも起きないし、
どうすればよいか知りたいという気持ちも起きない。

だからまず人生は苦なり。
居場所がない、がらくただ。
そういうことを知って貰わなければなりません。

じゃあその原因は何なのか。
集諦。
集諦というのは、漢字の意味からすれば
諸々の悪業が集まって苦しむのだという真理。

始めから心の闇、疑情だと言っても分かりませんから。
煩悩が原因だという言い方ですね。
私たちは煩悩によってを作ります。

その悪業で苦しむんです。
悪をたくさん作り続ける。
その諸々の悪業が集まって苦しむ。
聖道仏教で言われます。
浄土仏教では言われません。

こういうところから教えないと、方便からしか真実へ導けませんから。

これがブッダの本当の御心ですから。
苦悩の原因は煩悩ではありませんから。
もし苦悩の根元なら、なくならなければなりません。
しかし煩悩はなくなりませんから。

初めから真実を言っても分からないから、
集諦、諸々の悪業が集まって悪果を引き起こす。
こう言うと分かるから。
そして苦悩の原因と結果ね。
苦しみの原因と結果をまず明らかにする。

抜苦与楽で四苦八苦はどうなる?

仏教の目的は、抜苦与楽です。

苦しみを抜いて、楽しみを与えるということです。
苦しみといえば、仏教で説かれる有名な苦しみに、
四苦八苦があります。

抜苦与楽の身になるとこの四苦八苦はどうなるのでしょうか。

生死の苦海は変わりませんからあるのですが、障りにならない。
嫌なのは当然です。
でもそれが障りにならない。
たとえば怨憎会苦なら、獲信したら過去の因縁が懐かしめる。

嫌な奴がいるけれども過去に因縁があったのだなと
過去の因縁を懐かしむことができます。
例えば学生時代、学校が、嫌で嫌でたまらなかったが、
卒業式で、最後去っていくとき。
嫌な学校に行かなくてもいいという気持ちもあるが、何か懐かしくなる、
寂しくなる。
これでこの正門を二度とくぐることはないのかと思うと、寂しくなります。

今ケンカしている憎たらしい人があってもそれは過去世に御縁があったからです。
過去の因縁が懐かしく感じられる。
怨憎会苦はありますが、それがそういう風に味わえる。

転悪成善、煩悩即菩提
苦しみのまま苦しみとならない。
抜苦与楽、心の闇が破れた世界です。

仏教の目的

仏教の目的は何ですかと聞かれたら
一言で抜苦与楽です。
これが仏法を聞く目的です。
抜苦とは苦しみを抜く、与楽とは楽しみを与える。

この苦は人類苦悩の根元です。
苦悩の根元である心の闇です。
これが苦ですね。
心の闇

後生暗い心です。
疑情ともいいます。
心の闇がぬかれる、後生暗い心が晴れ渡る。
仏教というのは、この煩悩を喜ばせるような、
肉体を喜ばせるような程度の低いものではない。

人類苦悩の根元を抜き取って未来永遠明るくするのが仏教。
世間の宗教煩悩を喜ばせるものばかりです。
相対の幸福。

そんな相対の幸福では本当の幸せにはなれない。

苦悩の根元を抜き取る。
大無量寿経』では「生死勤苦の本」といわれています。

阿弥陀如来のお言葉です。
「諸の生死勤苦の本を抜かしめたまえ」
とおっしゃいます。

苦悩の根元です。
心の闇をぶち破ってみせる。
もろもろの生死勤苦の本を抜いてみせるとおっしゃるんですね。

心の闇を破って信楽の身に生まれさせてみせる。
これが阿弥陀如来 の本願です。
これが仏法の目的なんだぞということです。

源信僧都の往生要集

平安時代天台宗僧侶源信僧都という方があります。
源信僧都は、阿弥陀如来の本願を伝えられた方です。

この方は沢山の著書が残っていますが、
その中で有名な不朽の名著が往生要集です。

私たちが往生できるかどうか、その要の経・論・釈、
お経や論とか釈を集められて書き残されたものです。

これは、源信僧都が信心決定されて、
臨終間近のお母さんの所に行かれ、
間に合って、説法されました。

それを聞いたお母さん、臨終間際ですが、
阿弥陀如来 に救い摂られています。

そして親子共々極楽往生できる身に生れられた。
やがてお母さんが亡くなられて、野辺送りされた後、
お母さんの往生 を縁として書かれたのが往生要集です。

大変素晴らしい名著ですね。
今日極楽地獄という捉え方考え方が定着したのも
この方の往生要集だと以前、テレビでも放映されていました。

この方は76才で極楽往生を遂げておられます。

龍樹菩薩とは

龍樹菩薩とはどんな方でしょうか?

ブッダの亡くなられた後、700年後にインドに現れられた方です。
この方によって大乗仏教が大成され本当の仏教を知ることができます。

この方沢山の著作がありますが、その中の主著が十住毘婆娑論です。

この中に阿弥陀如来の本願まことを教えられております。
この中に易行品というところに、弥陀の本願が説かれています。

その中の易行品は、浄土真宗のお聖教となっています。
これを引用しておられますね。
親鸞聖人の正信偈には、龍樹菩薩の所、十住毘婆娑論の御文を引用して
弥陀の本願まことを私たちに教えて下さっています。

この龍樹菩薩は八宗の祖師といわれ、あらゆる宗派の祖師と言われます。
どの宗派の人、大乗仏教の者達ならみんな尊敬します。
日蓮宗でも尊敬しています。

どの宗派の人でも龍樹菩薩をけなす人はありません。
その龍樹菩薩の本意、本当の御心は弥陀の本願一つです。
その弥陀の本願が十住毘婆娑論に説かれています。
最後は殉教されています。

仏法を伝えるのに命を懸けられ、命を散らされているということです。

それが浄土真宗七高僧の筆頭、龍樹菩薩です。

恋人達はとても楽しそうに。

昨日のマイケルジョーダンもそうだけど、
浜崎あゆみのappearsという歌。
「恋人達はとても楽しそうに手を繋いで歩いているけれど」
というせりふがあるんだって。

把握している人いますか?
『♪恋人達はとても幸せそうに、手を繋いで歩いているけれど、
まるですべてがうまくいっているかのように、見えるけど』
「見えるよちくしょう」

だけど本当は二人しか知らないトラブルがあるとか。
お互い手を繋いで携帯電話で、
お互い男女と話をしています。

全然好きでも何でもなければ振り回される必要もないんだけど
大事な人がいたらいたで面倒くさいと。

やっぱり有無同然です。

はたまた、学校の成績があまり宜しくないという人は、
これが自分の心配不安のタネだと思います。
ところが、その成績を思いっきりよくなるように上げてみると
「お前やればできるじゃないか、もっとがんばれ」

実力以上の期待をされてもっと苦しくなるという人があります。
また一旦いい成績を取ると
いい成績をとり続けなければならないということに
大変なストレスを感じる人がある。

となるとお金があったら、恋人があったら、いい成績がとれれば。
有無同然なので、
ない人はない人で心配や不安になるけどあればあったで心配や不安になる。

結局心配や不安に変わりはないということを表す言葉が有無同然です。
そうしてみるとマイケルジョーダンが、
非凡な才能を持ちながら平凡を持ちたいという。

沢山のお金を持ちながら少しも満たされない、
どこか幸福の行方の話と重なってじゃあ一体何をどうしたら幸せになれるのか。
何が手に入ったら幸せになれるのか考えずにおれなくなっちゃう。

有無同然という言葉は出典を調べてみると世界最高の偉人といわれている
ブッダが古い仏教の経典に教えられたお言葉で
大無量寿経というお経に出てくる言葉であるらしい。

ジョーダンじゃないよ

引退する人は昔栄光が華々しかったけれど、
今はおっちおちの場合が多くあります。

ところがマイケルジョーダンが引退するとき
そんなおっちおちかというとそうではあませんでした。
NBAで年俸50億です。

これは引き寄せの法則で何とかなる成功を超えています。

そこで
「どうしてジョーダンさんは引退してしまうんですか。
多くの人があなたのプレーに夢を持っているんですよ」
と記者団が詰め寄ったとき、
「私はすっかり疲れてしまった。
自分の子供を幼稚園に送り迎えしたい。
そして平凡な家庭の生活をしたい。
普通のパパに戻りたいんだ」
こう言って周囲を唖然とさせます。

普通だったらね、これ非凡な才能に恵まれて非凡な記録を打ち立てて半端じゃない
めっちゃめちゃお金も名声も欲しいままにした人が
求めたのが平凡なパパに戻りたいというのですから
人生というのは分からないものです。

ちなみにね、私もスポーツやっていましたけど
スポーツをやっていて分かったのは自分って本当に才能がない。
非凡な才能に恵まれている人が本当にうらやましいと思います。

お金があまりもらえないともっと沢山のお金が欲しいと思う。
もし天才的な才能を持っていて多くの人から振り向いてもらえたら
これほど結構なことはないと思います。

普通で平凡な人は「自分って本当に平凡な奴」と思われてきて
自信喪失になったり自己嫌悪になったりという人の方が圧倒的に多いのに
マイケルジョーダンはあれ程非凡な才能があるのに普通に戻りたいというわけです。

非凡な人は平凡に憧れ、平凡な人は非凡に憧れるわけだから
一体人間の幸せって何なんだろう。
私たちがこれがあったらあれがあったらと色んなものを追いかけて
幸せに憧れているけれど幸せって一体何なんだろう。

有無同然です。
私たちはなんのために生きるのかおもわず考えずにおれなくなっちゃう。

そんなマイケルジョーダンでした。
ジョーダンさん、子供を送り迎えしたいなんてジョーダンでしょ」
ジョーダンじゃないよ」

このギャグを言いたいが為にこのタイトルをつけました。