仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

仏教で泥棒とは?

仏教偸盗というがあります。

偸盗とは盗みを働くということですが、
偸は、こそこそ盗む。
盗は堂々と盗むと言う意味があるそうです。

いずれも盗みを働く。泥棒です。

これが偸盗罪ですが、
この言葉は不与取ともいいます。

与えずして取る。
これがもとの言葉です。
偸盗罪というのは与えずして取る。
自分が与えていないのに取ることを偸盗罪といいます。
これが偸盗なんですね。


だから、身分不相応なものを身につけるのもまた偸盗罪といわれます。

徳がないのに、ベンツに乗るとか。
そんなのないと思いますけど。
そういうのをいいます。
身分不相応。

徳がないのにそういう身分不相応のものを身につけたりすることを
それも全部偸盗罪になります。

実際もし、仮にヒトラーが生きておって
平穏無事な生活をしていた場合、
あんな生活していていいのかとみんな思います。
600万人殺しながら平穏無事に生きていて、贅沢な暮らしをしています。
おかしいですね。
実は私達もそうなんですね。

毎日恐ろしい殺生罪を造りながら、
衣食住満たされた生活をしておりますけれど、
良い服も着れて良い食事もしています。
本当はそんなことできるような己じゃないんです。

だから本当はみんな偸盗罪つくっていると言えるんですけれど。
手に掛けて盗まなくても実際身分不相応のものを身につけていたら
偸盗罪ですし、心で欲しいなあと思ったらそれも偸盗罪になります。

たちの悪い嘘とは

仏教で妄語というがあります。
これは文字通りですね。
妄語とは
このでも誰でも聞いているように、
たちの悪いと、そうでないがあります。

問題はこれ心がどうかなんですね。
方便としてのは、大事なことがあります。
をついて人を苦しめる、欲望怒り愚痴から出てくるです。

人を苦しめる、人に迷惑をかけたり人を苦しめたりするはもちろん悪いです。
人を真実に導くときに必要なはあります。

分かりやすくいえば例えば医者が本当はガンであっても
その患者のことを心配していや胃潰瘍ですとをつく場合があります。
それは相手のことを思って、相手のことを苦しめる為じゃありません。

相手の幸せを念じてをつくことがあります。

どういう心でこう言うことを言うかですから、
でもたちの悪いとそうでないがありますね。

そう言うことを私達は知らねばなりません。

浄土真宗で罪に大小がないのはなぜ?

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
罪に大きい小さいはないといわれています。

もとより罪体の凡夫大小を論ぜず、
三業みな罪にあらずということなし
口伝鈔に


これを私たちはどのように理解すればよいでしょうか。

これはちょうど人間には美しい人、醜い人あるとすれば、
レントゲンかける前は美人だとか、
肥っているとか痩せているとか問題になりますけど、
ひとたびレントゲンにかけてみたら、
どんな美人で、目が綺麗で鼻が高くてもみんな醜い骨の羅列。
醜い骸骨しか映っていないんですね。
あの骸骨みて、いや美人だね、といや、ハンサムだねと、
全然言えません。

みんな、あのどくろなんですよ、
鼻が高いも低いも、二重瞼も関係ないわね。
みんな骸骨なんですから。
それと同じなんです。

仏教を聞いて、絶対の幸福になった瞬間
知らされた自分はみんな同じなんです。

絶対の幸福の世界にでるまでは人に差があると思っているんですね。
ちょうどろうそくよりもランプが明るいじゃないか、
ランプよりも電気が明るいじゃないかと自慢しています。

私はあの人よりは善人だ、
あの人よりは私はマシだと思っているのは
自分の姿がまだ判っていないからです。

また真実に導くには、
当然罪に大きい小さいがあると
教えなければなりません。

これは私たちを決勝点まで導くための方便として説かれましたので。
ただ方便と言っても方便だからウソだというわけじゃないですよ。

これはほんとなんですよ。

方便というのは真実に導くために絶対必要なものを方便と言いますから、
このように教えられて、少しでも悪を作らないように、
廃悪修善、実行していかなければなりません。

実行していって、親鸞 聖人の仰有った、
もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、
三業みな罪でないものはない
という世界に出させていただけます。

だからこれはどっちも正しいです。
どっちもホントです。
ちょうど実際この電気はランプやろうそくよりも明るいですが、
しかし太陽が出たらみんな同じ
真っ暗と言っていいんです。

あの無間地獄でもそうですよ。
みんな八万劫年と言うけれどなんでやと。
二人殺しても八万劫年かと、一人殺しても八万劫年かと。

八万劫年プラス二年とかないんか。
八万劫年プラス一日とか。
どうなんやという人あるけれどね、
そんなこといってるんじゃないんだね。

正式に八万劫年プラス五年とか、そんなんありませんから。
実際は差はあると思うよ。
でも絶対のが知らされたら、
みんな八万劫と言っても良いんです。

この喩えで判ると思いますが、
あなたが普段気がついていない罪悪ですけどね。
気がつかないところで、どれだけ私たちはを作っているか分からない
ということですね。

そんな者が救われるのが浄土真宗です。

 

仏教を謗る罪の恐ろしさとは?

仏教で一番重い罪は謗法罪だと教えられています。

謗法罪とは仏法を謗る罪、
これが一番重い罪であり重罪です。
なぜかというと全人類の助かるたった一本の道、これが仏教です。
それを断ち切ってしまうからです。

こんな恐ろしい罪はありません。
橋がかかっていて、向こうの岸に渡ろうとする。
この岸を渡らないとみんな助からない。
みんなが、ここにいるのにその橋を叩ききってしまう。
そうするとこの人達は永久に、ここへ渡ることができない。

私達でいいますと仏教という橋、みんな苦しみ悩んでいます。
仏教の教えをねじ曲げると言うことは救いの道を断ち切ることになります。
これは1000人2000人を殺したぐらいの罪ではありません。

仏教を謗る罪、仏教をねじ曲げる罪は、万死に値します。
死んでお詫びするぐらいでは許されるものではありません。
全人類の救われる道を断ち切ることになりかねませんから、
だから謗法罪は恐ろしい罪なんです。

仏教にしか本当に救われる道はありませんから。
ただこれは、一番重い罪が謗法罪と言われてわかる人は、なかなかありません。

これが判るかどうかは仏教の尊さが素晴らしさ、
仏教のすごさがわからないとこの順番は分からないと思います。
仏教の尊さ、素晴らしさ、深さが知らされるほど
謗法罪の恐ろしさが知らされます。

私たちは常に悪を思っている?「常」とは

ブッダは私たちの姿をこう教えられています。

 心常念………心は常にを念い
 口常言………口は常にを言い
 身常行………身は常にを行い
 曽無一善………かつて一善もなし

ここで常という言葉、ここ注意して貰いたいですね。
これかつて仏教の講師が新潟県で話したときに、
ある仏教青年団長が手を挙げたんです。

「それはちょっと酷すぎるじゃありませんか」

これは余りにも酷いではないか、時々なら判りますが、常にとおっしゃる。
これは酷いではありませんか。

こう言ったと言いますが、これは信心決定するまではハッキリしません。

しかもこの常は、途切れる間のない常なんです。
途切れるつねは「恒」という漢字です
常は常でも連続した常です。
恒は途切れることがあるつねなんです。

機の深信がたって、本当の姿が知らされた己は、
心と口と体で、常に、ズーッと
心で悪いことを思い続け、
口で悪いことを言い続け、
体で悪いことを行い続ける。

これ『一念多念証文』におっしゃっています。
使い分けされていますね。

『恒』はつねにという、『願』はねがうというなり。
今『つねに』というは、絶えぬ心なり、をりに従うて時々もねがへというなり。
今『つねに』というは常の義にあらず、
常というは、つねなることひまなかれという意なり。
時として絶えず・処として隔てずきらわぬと常というなり。

この常の意味と恒の意味が違う。
この常というつねは、つねあること暇がない。
この常は時としても絶えません。
この常はところとしてもたえない時間も絶えない。
いつでもどこでもずっと続く常です。

それに対して恒星の恒、このつねは、おりに従って時々ですね、
途ぎれることがある、つねですね。
同じつねでも違う。
信心決定して知らされた、
おのれの姿はこの常です。

常にを思い、を言い、をやっている。
引き寄せの法則ではありませんが、
それは全部、悪業力として、つまりカルマとして
阿頼耶識におさめられ、未来に恐ろしい結果を引き起こすのだぞと、
こう私たちにブッダは教えておられます。

 

自惚れる価値のないものを自惚れる心

仏教で、邪慢という自惚れ心が教えられています。

邪慢とは、自惚れる価値のないものを自惚れることです。
よこしまな、自惚れる価値のないものを自惚れることです。
自慢できることではないことを自惚れることがあります。

自惚れる価値のないものを自惚れます。
一般的な考えを言えば、みんな自分は悪人だと自覚していると
私たちは思いがちですがそうではないんです。

悪人とは思っていないんです。
殺人者は自分が残酷な殺人をしたことを自惚れているんです。
こんな会話があるそうです。
新しく入ってきた囚人に対して、お前何人殺した、1人です。
お前一人か、私は3人殺したんだと自慢するそうです。

また、泥棒ならばね、自分の機敏さ、盗むのが上手なのを自惚れるし、
淫売婦、プレイボーイ、プレイガールは自分の自堕落、
自分は沢山の人と不倫しているんだと、
こういう会話をしている人が若者にもありますね。
私はこれだけ、ナンパした、ひっかけたと。

恥ずかしいことなのに恥ずかしいと思わない。
試験でもそうでしょ。
私は30点だぞ、何を言うか私は10点だぞ。
何を、私は0点だぞ、なかなかこんな点数とれんぞ。
自慢できることではないのに。
おれは団子だという馬鹿な学生がある。
自慢できることは何でも自慢します。

「私は一週間風呂に入っていないんだぞ」と自惚れる人もいます。
みんな迷惑かけていることに全然気付いていません。
この自惚れ心があるために自分の姿がなかなか判らないんですね。

仏教の法鏡に照らされなければ、本当の姿はもうわからないということ。

実にありのままの私たちのすがたを表現されています。
これがブッダの説かれた仏教です。
このように詳しく私たちの姿について教えて下さっています。

自分と同等な人に対する自惚れ

仏教で、自惚れ心を慢といいます。

7つに分けて七慢といわれますが、その中に過慢という自惚れがあります。

これは、自分と同等な人に対して、自惚れます。
ほとんど等しい人に対する自惚れです。
能力から言ったら同じ立場であっても私の方がいいんだと自惚れます。

分かり易い例で言えば私も経験がありますが、
学校の試験で、英語の試験95点とった。
友達も95点。
自分も95。
トップが並んだとします。
そういうとき、どんな心が起きるてくるか。

あの人は一生懸命やって95点。
私はちょっとやって95点。
試験でも終了時間になる前にサーッと出ていきます。
かっこいいですよね。
半分もたっていないのに出ていく。
あの人すごいな、もうでていくのか。
昔やったことありますけど。
ほんと浅ましいことです。
私はちょっと努力して95点。
ということは私が本気になったら100点だ、
と自惚れます。

あるいは、現役と一浪。
もちろん一年、年の差はあっても、あの人は一浪、私は現役。
学年は同じですが、しかし現役の人は私は現役だ、
私の方がいいんだと自惚れてしまいます。

逆に、一浪の人は、私のほうが年上だと自惚れます。

同等のものに対しても私の方がいいんだと自惚れてしまうんですね。
これが過慢です。

この自惚れ心によって自分がありのままに見えなくなるのです。