仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

普通の日常に満足できない人

試験がきた時に、何らかの形で
友達の足を引っ張りたくなる気持ちが起きてきますよね。

自分の成績をあげることに頭がいっぱいになって、
友達から、
「あなた勉強してるの?」ってきかれて、
ごめんごめん全然してないんだ」って答えて、
実は、密かにやってたりします。

勉強なんかするなっていいながら、自分はちゃっかりやってたりします。

大学の授業でも、つまんない授業だと、普段は出席しません。
だけど、直前になると、まじめにでてた友達から、
そのときだけ親友のふりをして、
ノートをコピーさせてもらいます。
こんなことって結構あるんですよね。

進級する為には仕方ないとはいいながら、
「あなたそれで本当にいいの?」
っていわれると、あんまり気持ちのいい感じもしません。

じゃあまじめに勉強すればいいかっていうと、
くだらない授業に無駄な時間を、使っちゃうのももったいない。
五月病になってしまいます。

じゃあどうすればいいのかっていってもわかんなくって、
仕方がないっていいながら、
ながされちゃってるのが、実態なんじゃないですかね。

それでモラトリアムになる。

みんな、今の状態に、満足できていないっていう人が多いんですよね。
でもどうすればいいかはわからない。

本当は明るくって、楽しくって、充実した日々を
送りたいっておもってるのに、満足できず、不安なまま、日々が流れていきます。
どうしてだろう。

何を、どうかえれば、本当に生きてきてよかったっていう人生になるんだろう。
これってみんなが知りたいことなんだよね。

じゃあ何をどうかえればいいのか。
っていうことが仏教に教えられています。

 

体で殺すよりも心で殺すほうが恐ろしい

仏教では
「殺るよりも劣らぬものは思う罪」
と歌われるように、手にかけて殺すのも殺生罪ですが、
心で思ったらもう殺生罪です。

 

この心の罪というのは信仰が進んで罪悪感が深まらないと、わかりません。
ですが真実はそうです。

わかりやすく数字でいえば、
口や体は1とすれば、心は2です。
これ世間の常識とは違います。
私たちの常識では体や口は重い。
心は殆ど問題にされませんが、
仏教はその常識を覆しています。

心の方が罪が口や体よりも倍だと説かれています。
それが真実です。

心で思っただけでその罪、その業力は阿頼耶識に収まります。

喜ぶ心があるだけでも同じですから、殺生は随喜同業といわれます。

例えば一軒の家でゴキブリが走っていました。
それを見た奥さんが、自分で殺すのは嫌だから、主人にお願いしました。

主人は期待されたのでよし判った、私がやっつけてやる、
こう思ってゴキブリを新聞紙を丸めてぱしっと殺しました。
そうすると殺した本人は主人だから主人は自殺という罪です。

奥さんからすればゴキブリに対して呪うなら主人を呪いなさい、
わたしは殺していませんよと言う気持ちかも知れませんが、
奥さんも命令して殺しましたので
奥さんも他殺の罪を造っています。
ところがそれを見ていた子供がお父さん、やったやったと
お父さん上手だと喜んだ子供があるなら、家族三人皆殺生を犯したことになりま
す。

そのの種まきは必ず本人が刈り取っていかなければならないのです。

全人類は悪人と聞いて人間不信に陥る?

仏教を聞いたある人が、
ブッダの説かれるすべての人の悪を造っている姿を聞いて
「わたしは人間不信に陥りました」
という人がいました。

「だからみんなと一緒に団結してやっていくことはできません」
と言います。

その理由は、心口各異だから。
思っていることと言っていることが違うから
人間不信に陥ると言った人がいました。

それに対しての答えは、
まずこの団結というのは、和合僧といって、
仏法者にとって団結が非常に大事ですが、
この団結というのは本当の団結です。

本当の団結というのは人間の現実、人間の真実の相、
これを知らされたところに起きてくるのです。

質問した人は、あの人は心口各異、言念無実だから
もう信じられないと言ったのですが、
仏教では自分も心口各異なのです。

人間お互いみんな心口各異、言念無実のお粗末なもの、
こう知らされたところに団結が起こるのです。

よく人間不信に陥いったという人があるが、
こういう人は私はこんなんじゃない、私はしっかりしている。
あいつがそうだ。
他人がそうだ。

こう言うところから人間不信が起きてきます。
わたしもこうだ。
相手もそうだろう。
ここから人間愛、同胞愛が生まれてきます。
あるいは人類愛が生まれてきます。

人間愛、同胞愛、人類愛が生まれてくる。
浄土真宗親鸞聖人がそうですね。
全人類に愛情を注いでおられます。

真実の自己を知らされたところから起きて来るんです。
人間不信というのは、
私はそうじゃないと思い上がっているところから出てきます。

思い上がりなんですね。

越えなばと思いし峰。箱の連続

昔からこんな歌があります。

「越えなばと思いし峰に来てみれば 尚行く先は山路なりけり」

あの山を登ろうと目標に向かって苦労して頑張ります。

頂上にたどりつくと、やったあと喜んだのも束の間、
今まで見えなかった新しい山が見えてきます。

人生は、そんなことの繰り返しだという歌です。

確かに子供のときから、
こんなことの繰り返しではなかったでしょうか?

早く小学校に入りたい、新しいランドセル。
小学校に入ると、今度は、中学校。
集団登校めんどくさい、自転車通学にあこがれます。

高校へいっても同じです。
やっぱり大変なことが増えてきます。

大学へ行っても同じです。

社会に出たらもっと大変です。

どこまでいっても大変なことが増えるだけでは、五月病になってしまいます。

何かの買い物なんかでもそうじゃなかったですか?
欲しくて欲しくてたまらなかったもの、
手にしてみても、その喜びは、ホンの一瞬でしかありません。

あるテレビドラマに出ていた話
お母さんが、幸薄い娘に語りかけます。
「人生ってね、次から次へと、箱を開けていくようなものなの」
箱を開けるのは、何か楽しみ、胸がワクワクドキドキします。

満を持して開けてみます。
「さあ何が出てくるかな」
だけど、開けてみると、中身は空っぽ……
というわけではないけど、
また小さな箱が控えています。

かすかな期待だけがあります。

しかし常に期待はずれです。
なんか共感しちゃったんですよね。

そしてこれからもこんなことの繰り返しです。

一体なんのために生きているのでしょうか

それじゃあ、嫌だ、何か変えたい変わりたい、とは思うけど、
ところが、じゃあ「何」を変えたらいいんだろう。

「何」をどう変えればいいのか?
それがハッキリしないんです。
だから、「何も」変わらないんじゃあないでしょうか?

一体何を変えれば幸せになれるのかは、仏教に教えられています。

限られた命

実は最初から、生きている間に使える時間って限られているんです。
それが時々刻々と減っている、減りつづけています。

最初に80年の命をもらったとすれば、
80年の時間をつかって何をするかということです。

そしてそれは長くはありません。

ジャネーの法則というのがありまして
心理学者の作った法則なんですが、
時間というのは年を重ねるごとに早く感じられます。

だから、人生80年としても、その中間地点は
だいたい10歳前後になるそうです。

ちょうど、折り返し地点、砂時計ならもう逆さまになってしまったときです。

あと半分、命という燃料を使いきったら、泣いても笑っても終っちゃいます。

最後はお金も財産も地位も名誉もすべて儚い夢のように消えて行きます。
酔生夢死です。
何に生命を燃焼させるべきなのか?

そういう問題が、この「人生の目的」であり、
生きる意味」という問題です。

 

大学は通過点

あるテレビ局で、大学生へのインタビュー企画
大学とは、あなたにとって何?
答えで一番多かったのは、「通過点」です。

受験生は、大学入学が生きる意味のように思っていますが、確かに大学は「ゴール」ではありません。

確かにモラトリアムになったとしても、通過点は通過点です。

では、「通過点」とはいうものの、大学を通過点として、最後は、どこに向かうのでしょうか?

将来の仕事のため、司法試験を受けて、弁護士になる。
医者になって、病苦に苦しむ人を救うぞ。
海外に留学し、世界を舞台に活躍するんだ。

色々な道はあります。

じゃあ、司法試験に合格し、望みとおりの弁護士バッジ、それが人生のゴールでしょうか。

ゴールというのは、そこについたら
「ここまで頑張ってきてよかった」
と心から言えるものです。


理系の学部のある人は、いつもぼやいていました。
苦労して受験勉強したのはレポート書くためだったのか!

毎週鬼のように実験、レポートがあります。

考えてみると、今一生懸命レポート書いて、単位をとっているのも、将来の仕事のためです。

会社に入れば今度は、ノルマの達成に汲々とします。

聞くところによると、全業務のうち、本当にやりたい仕事は全体の0.5%というデータがあるようです。
やりたくもない仕事をするために、今一生懸命勉強してるとなったら、虚しい気持ちも出てきます。虚無感におそわれる人もあります。

死ぬまでに何をすれば心から満足なのか、というのが本当の生きる目的であり、生きる意味なのです。

それが仏教に教えられています。

なぜ今哲学か?

ブログのテーマは、仏教研究、その裏テーマは「生きる意味
こう聞くと哲学的なアカデミックな香りがするでしょ。
そこで、はじめに
なぜ今、哲学なのか?
ということからです。

「経営者は哲学を持て」
というアスペンセミナーがあります。

読者の中には、将来日本を背負って立つ
そういう人が溢れていると思いますが、
会社の社長、世界史に残る研究をする研究者、その他
経営だけでなく、政治家も、科学者も、
みんな必要なことではなかろうか、
と特に21世紀になって声高に叫ばれていることです。

 

アエラという雑誌に、
こういうような学生は買い
こんな学生は要らない、という記事が出ました

売れない学生の典型は、
・コミュニケーション能力のない人
・会社がゴールになっている人
・やたらと資格を持っている人

会話ができない、敬語が使えない
これでは社会人としてやっていけない

会社がゴール、これもだめ、一流企業にだけ入れたらいい
そんな人はロクな仕事をしない

やたらと資格だけ持っている
英検1級、行政書士中小企業診断士、電気設備士、アマチュア無線4級
剣道初段、なわとび3段とか…

共通して、採用に携わる人が言う事に、
「自分は、こういうことがやりたい」というビジョン、もっと言えば理念がない」

結局、学生時代に、
「自分の人生80年間の持ち時間を総て使って、何をしたいのか」
こういうことを考えたことがあるかどうか
そういう素養のない人は、
あんまり深みのある人間になれない。

生きる目的は何か、
生きる意味は何かが問題なのです。