仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

やりたいことをやれば幸せになれる?

誰しも自分のやりたいことを思う存分やればきっと楽しく、
満足して幸せになれると考えます。
はたしてそうでしょうか。

これにまつわるボクシング世界チャンピオンだった鬼塚の
興味深い記事があります。

 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた
俺にとっては神様に近い存在ですよね。
凡人の俺が、そんな凄い場所に辿りつくことができたら、
いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
 しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ? なんで、何もないんや」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。
だけど何も残らない。
 試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが
何もなかったという寂しさで発狂しそうになりました。
俺は常に素直に飛び跳ねる自分でおりたいのに、充足感がないから、
「何でや?」という思いばかりが虚しく深まっていく。
最後の試合までずっとその繰り返しでした。
(『週刊文春』平成六年十一月)

試合に勝つ前はこの試合に勝てば、何か充足感があるに違いないと思ったが、
結局なかった。
次の試合に勝てば・・・結局最後までなかった。
試合の後は生き残れた安堵感と、何もない虚しさで気が狂いそうだった。

虚しいということは、好きなことをしていても、生きる意味が分からない。あんなに頑張ったのに、何もなかった。
一体どこまで頑張れば生きる意味が感じられるのでしょうか?

最高の仏恩報謝とは?

最高に仏さまのご恩に報いることができるのはどんなことでしょうか?
親鸞聖人はこのように教えられています。

大悲伝普化
真成報仏恩

これは、「大悲を伝えて普く化す。真に仏恩報ずるに成る」と読みます。 

大悲を伝えて普く化す
とは阿弥陀如来のみ心を十方衆生にお伝えするということです。
阿弥陀仏のみ心を伝えるというのはブッダ親鸞 聖人のみ心をお伝えすることです。
親鸞聖人の教えをお伝えするということは阿弥陀如来 のみ心をお伝えするということです。

化する」というのは単に知識を伝えて、
そういう考え方もあるよね」と頭だけ理解されても
化した」とはいいません。
相手が「本当にそうだ」と思って、すばらしい仏教の教えを知らされた喜びから、
それを他の人にも言わずにおれないくらい伝えるということです。

仏教を聞くことができない8つの難所

仏教を聞くのが難しい8つの難所があります。

その中には、「聾盲瘖瘂の難」というのがあります。

」とは耳が聞こえないこと、
」とは目が見えないこと、
瘖瘂」とは口がきけないことです。

それらの障害のために仏教を聞けない、というのが「聾盲瘖瘂の難」です。

これは8つのうち7番目です。

ちなみに8番目は、「仏前仏後の難」といいます。

仏様であるブッダが生まれる前に仏教を聞くことはできませんし、
ブッダが亡くなった後に仏教を聞くことはできない、
ということです。

お釈迦さまが仏教を説かれた後なら、
正しく仏教を伝える僧侶がいれば、
その人を先生として仏教を聞くことができます。

しかし、その時代、正しい仏教の先生と違う国に生まれたら、
本当の仏教を聞くことはほとんど不可能です。

仏教は、ブッダがインドで説かれてから、
中国、日本と、時代によって伝えられている場所が変わってきました。
現在はインドでは仏教はほとんどありません。
中国も共産主義で、ほとんどありません。

とはいえ、日本も葬式法事 仏教となって、ほとんど聞けません。

本当の仏教を聞くには、様々な条件が揃わないといけません。

人気作家の五木寛之氏でも、親鸞聖人に生きる意味の答えがあるのでは、というところまで行っているのですが、生きる意味の答えは知りません。
そういうのも、ある意味「仏前仏後の難」とも言えます。

本当の仏教の教えを聞くことは難しい

本当の仏教の教えを聞くことが難しいことを、親鸞聖人は、御和讚で教えておられます。

善知識にあうことも
 おしうることもまたかたし
 よく聞くこともかたければ
 信じることもなおかたし
親鸞聖人・浄土和讚)

善知識にあわないと真実を知るということできません。
真実を知らないと求めることも獲得することもできません。
真実を教えてくださる善知識にあうことは難しいことです。

真実とは、本当の生きる意味です。

また善知識がその真実を教えるということがまた難しいのだ。
またその中真剣に聞かせて頂き、その通り体にかけて求めている人、聞いたことを実行している人も少ないと言われています。

難しいということは素晴らしいということです。
善知識にあうこと難しいのにあうことができた人は大変幸せな人です。

真実を知るものは幸いなり」と言われます。
真実を知っている人なんてほとんどいません。

高校の卒業式で一緒に「仰げば尊し」を歌った人は沢山いたと思いますが、真実知らされたのはあなただけなのでは?

高校時代、その中には自分よりももっと勉強のできた人、優れた人、人気のあった人いたはずなのに。
どうして私たちが仏教に説かれる本当の生きる意味にめぐりあえたのでしょうか。

まさに人生のエリートです。

 

日本には車が何台あるか

昔中国の揚子江のほとりに城をもつ天子が、
揚子江を眺めると、たくさんの船が通っていました。

そこで天子は宰相に尋ねます。
「みよ、沢山の船が行き来しているが一体何艘ある?」

ところが宰相は
「はい、二艘でございます」
「何を申すか?朕がみるところでも30や40ではない、何百艘も見えるぞ」
「いえどれだけの船がありましても、名利の二艘でございます」
と答えた。

名利とは名誉と利益。

名誉か利益を求めて船は走っているのだと指摘した見事な答弁でした。

 これは現代でも同じです。

道にはたくさんの車や電車が走っています。

それは何台の車なのかというと、2台です。
しかし、これにはキリがありません。

名誉欲や利益欲の喜びは一時的です。

手に入れたときは嬉しいのですが、すぐにまたワンランク上のものを求め始めます。
手にいれれば手にいれるほど度を増して心は渇き、欲し、不足に思います。

欲望は無限ですが、命には限りが有ります。
これでは死ぬまで求めるために苦しみ、死んでいくだけの人生になってしまいます。そんなものばかり求めていると本当の生きる意味は分かりません。

一体なんのために生きるのか、生きる意味を知ることが先決です。

 

爆風スランプのランナーに見る奇妙な人生

かつて早稲田大学出身のサンプラザ中野率いる
爆風スランプというバンドが
「ランナー」という歌を歌いました。
今は懐かしきバブル時代を彷彿とさせる歌です。

「走る、走るおれたち流れる汗もそのままに・・・」

あのころは何もかもが右肩上がりで、ひたすら走っていました。
とにかく、負けるな、休むな、くじけるな、と大人も子供も走りました。
走ればその先に何かがあると思いました。
しかし、何もなかった。
その幻想はバブルとともに、バブルの如く消えました。

働く意味がわからない、一体何を求めていたのだろうか、私は」
と、お父さんは黄昏れました。

それで虚無感を感じて、
ミッドライフクライシスとか中年の危機になってしまうのです。

苦労しても苦労しても何もならないとすれば、
人生は虚しい徒労の人生になってしまいます。

 

一体何のために走るのか、走る方角とか目的地が大切です。

それがあってこそ、走る意味があるのです。

 

流転輪廻

仏教では同じ事を繰り返している私たちの生命を流転輪廻といっています。

同じところを際限もなくまわり続ける、ということです。

何かを求め、手に入れて喜び、すぐに飽きて新しいものを求めます。
何かを手に入れるたびに、ワンランク上のものを欲しがります。

同じところをぐるぐる回って、どこまでいっても心からの安心も満足もありません。

いつも不足で不安です。
これでは徒労であり、無駄骨であり、破滅であり、絶望です。
しかし、これはおそるべき真実です。

漢字4字に古今東西の全人類の永遠の生命の歴史が収まっている、
すごい言葉です。
しかし、恐い言葉です。

こんな無意味な繰り返しの日々に終止符を打ちたい、
変わりたい・・・・流転輪廻への挑戦。
その心の叫びが人を動かしてきたのです。