仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

仏教をせっかく聞いているのに原点である後生の一大事が抜けていると?

仏教後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決に終わります。

仏教を聞いていても、すべての原点である後生の一大事が抜けていると、今辛くて苦しいとなって、逃げ出したくなります。
そんな状態だと、人間関係が辛くて仏教が聞けなくなります。
ちょっと身体がしんどくなると聞けなくなります。

しかし、死のほうがはるかに大きな問題です。

後生の一大事が心に落ちていないとそうなります。
だから、繰り返し聞かせて頂かなければなりません。

今死ぬと思うにまさる宝なし、心にしめて常にわするな

という歌があります。

これは後生の一大事の事です。
常に私たち求道の原点は後生の一大事以外にはありません。
これが抜けると、いろんな問題が起きてきます。
しかし、死に直面して、後生の一大事を目の前にしたら、吹き飛んでしまいます。

他人の事をああだこうだ言う前に、自分の姿を振り返ってみなければ、進めませんよ。
「誰の人も早く後生の一大事を心にかけて」
と、蓮如上人言われている通りです。

仏教を伝えるのもこの魂の解決の勝縁です。
後生の一大事が知らされると、真剣に聞き求めずにおれなくなります。
助かりたい一心で必死です。
後生の一大事があるからですよ。
この一大事の解決をかけての今度の新勧であるということです。

臨終に知らされる後生の一大事

仏教後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決で終わります。
後生の一大事とは、死んだらどうなるかの一大事のことです。

私たちは、100%必ず死んで行かなければなりません。
誰も関係ない人のいない問題が後生の一大事です。

ところが、ほとんどの人が普段忘れているのが一大事の一大事たるゆえんです。後生のそれが一大事という事を、実際、臨終にぶちあたって一大事を一大事と知らされます。

だから、後生の一大事というのは、解決してもいい、しなくてもいい、
そんな生半可な問題と違います。
そんな、解決しても、しなくてもいい、
そんな事なら、はじめから求めなくてもいい。
そんな問題でありません。

だから、この後生の一大事を求める過程が、
どんなに苦しくっても、辛くっても、
その支障を乗り越えて求めなければならない、
解決しなければならいない、そういう問題なんです。

それが臨終、後生にぶつかって気付かされることです。
でも、そうなってから気付いても遅い、後悔します。

だからブッダは、一日も片時も急げとおっしゃっています。
一分一秒でも急げという事です。

臨終になったら、こうなってしまいますから、こういう状態だから、
一日も片時も急げとおっしゃっているんです。
大げさに言ってるのではないんですよ。
だから、後生の一大事の解決を急げ。
それ一つをブッダは教えていかれた。
そういう問題が後生の一大事です。

ブッダの説かれたことは一つだけ

ブッダの説かれたご説法は、後生の一大事しかありません。

わが身の一大事という事を思い出す為には、3つのポイントがあります。
1つには、諸行無常で、自分は必ず死ななければならないということです。

2つには、自分がしか思えないということです。

3つには、因果応報の因果の道理は大宇宙の真理だということです。

 

ブッダはそのように説いておられるんです。これしかないですから。

これらによって後生の一大事が引き怒るのです。

ところが私たちは、これを1年聞かせて頂いても、2年聞かせて頂いても、おとぎ話のようにしか思えないんですね。
無間地獄、そんなものどこにあるんやと。
おとぎ話のようにしか思えません。
1年聞いてもそうでしょ。
2年聞いてもそうでしょ。

この世のこととなると、命をかけれるんです。
仕事とか、勉強とか、スポーツだとか、旅行とか、趣味に没頭するとか、彼女作るとか、金儲けに走るとか、子育てとか、まあ色々あります。

これさえできれば、この世の極楽、満足のいく人生が送れるんでないか
と思ってやっていることばかりですよ、これらは。
この世のことです。

私たちは、欲望を満たすことには本気になれるのですが、仏教を聞くことには本気になれないので、いつまでも苦しみが終わらないのです。

ですから、あなたが仏法を聞いて、この求道聞法の道のりが苦しくなったとき、それは欲望のことは考えられるけど仏教のことは考えられないからですから、思い出されたらいいのは後生の一大事です。

 

 

煩悩をどうすればいいのか

すべての人は、煩悩具足だと仏教で教えられています。
煩悩具足とは、煩悩の塊ということです。

煩悩というのは、欲望怒り愚痴など、私たちを煩わせ悩ませるものです。
その煩悩によって、を造り、私たちは因果応報で苦しまなければならないのです。
それを解決するのが仏教です。

煩悩具足だから、罪悪深重です。
煩悩によって造られるのは罪悪です。
煩悩の塊だから、悪の塊です。
だから、罪悪造らずに生きてくってのは、煩悩なくすってことです。
できますか?

煩悩なくせば、罪悪造らずに生きてけますよ。
だけど、それができるかってことです。
仏教を聞いているとか聞いてないとか関係ありません。
仏教講座とご縁があるとなかいとか、何か関係ありますか?

人間は煩悩の塊ですから断ち切れません。
欲望を断ち切る。
そんなことをしたら、生きてけなくなります。

罪悪を造らない身になるためには煩悩断たなければならない。
だから聖道門仏教は山の中に入って、煩悩を断ち切る為に出家をして、戒律を守り、血みどろの修行をします。
煩悩断ち切ろうと、真剣白刃の戦いに身をゆだねています。
それでもできないんです、煩悩を断ち切ることは。

ですから、煩悩あるがままで、絶対の幸福になる道が説かれているのが仏教です。

それが煩悩即菩提です。

 

仏教で一大事とは

 仏教で一大事というのは、一度おこってしまったなら、
二度と取り返しのつかないことです。
それを一大事といいます。
世間でもよく一大事と言いますね。
例えば、家事で家が丸焼けになってしまうと、
それは一大事だと、みんな言います。

また、主人が交通事故にあって死んでしまったと、
これは一大事だといいます。
大変なことが起こったときに一大事だといいますね。

だけどお釈迦さまは、私たちが必ずぶちあたっていかねばならない
後生の一大事に比べると、小事にすぎない、
ささいなでき事だと言われているんです。

どうでも良いということではありません。
後生の一大事と比べたなら言うこと。

この世でどんな大変なことが起きてしまったと言っても、取り返しがつきます。
家が家事で焼けたといっても、火災保険に入っていれば、もっと立派な家が立つ。
そういう人は一杯います。
主人が死んでしまった、と言っても、その時はもう駄目だと落ち込むでしょう。
でも時間とともに、また新たな人生が始まる。

だから、お釈迦さまは、私たちの後生に引き起こる、
魂の一大事、必堕無間の一大事と比べたら、小事だと言われるんです。
仏教で一大事というと、私たちが死んだ後、死後の世界に引き起こる、魂の一大事。
この後生の一大事のみを一大事と仏教では言うんですね。

 

生きるために生きる

なんのために生きるのか聞くと、生きるために生きると答える人があります。

気が利いているようですが、生きるために生きるというのは意味がありません。
単に生きる意味がわからないから生きるために生きると答えているだけです。

生きることを歩くことにたとえるとよくわかります。

歩くというのは、
右足と左足を交差して交互に前に出したり後ろに下げたりする連続運動です。
その連続運動に意味があるでしょうか?

連続運動自体に意味があるのではありません。
どこかに行くとか、健康の為とか、別の目的があります。
何かに向って歩いている。

歩くために歩いている人はいません。
連続運動の為の連続運動になってしまいます。

ちょうどそのように、生きるというのも、それ自体に意味はありません。
生きるために生きると思っている人は、自分の存在意義がわからないだけです。
生きて何をすのかというのが生きる意味です。

国木田独歩の臨終

国木田独歩という文学者がいます。
熱心にキリスト教を信じていました。

ところが死が近づくにつれて、キリスト教で本当に救われるのかという疑いの心が日増しに大きくなってきました。

そして自分をキリスト教に導いてくれた植村正久に質問したところ、
祈りなさい、と言った。

素直に祈ってみたところ、祈る事はたやすい。
しかし祈る心が得難い。

祈ろうと思っても、祈る気持ちはでてえきようがない。
祈らずとて助くる神なきや
と言って死んでいきました。

自分が毎日入っている家でも、どこに何があるかあやふやになってしまう。
行った事もない天国なんてどうして信じられるのか。

しかも、キリスト教の場合、この世の終わりに最後の審判があって、天国に行けるのはそれからです。

まだ最後の審判がないので、キリスト教で天国に行った人は誰もいないのです。

ところが仏教では、信じてもだめです。

信じるというのは、疑いがまじっているからです。
仏教で本当の幸せは、ツユチリ程の疑いもなくなった、無疑の信心です。

人間に生まれてよかったという生命の大歓喜が起きます。

それは、死んでからではなく、生きているときに獲得できるのです。

これを『歎異抄』では「摂取不捨の利益」とか「無碍の一道」といわれています。