仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

漫画哲学ってなんだろう

漫画哲学ってなんだろう』という本があります。
御厨良一という人の本で、平成2,3年に出版されています。

その『漫画哲学ってなんだろう』の第二部に、「死を考えることが哲学を理解することになる」とあります。


死の話ばかりしていると、暗くなりますが漫画で書いてあります。

生きることを考えるのに死を考えねばならなりません。
これは20世紀最大の哲学者といわれるハイデガーの言っていることです。

死を見つめることの大切さは、モンテーニュも言っていますし、パスカルも言っています。
私たちも、大学入学試験、就職活動、結婚には準備をします。
しかし大学受験や就職、結婚はない人もあります。
それに対して100%確実にすべての人が直面するのは死です。
その死の準備を誰もしていないのは、手抜かりと言わざるを得ません。

同じようなことをはるかに先にいわれているのが、ブッダです。
仏教には、死の問題を解決して、死が来ても崩れない変わらない幸せになることが、本当の生きる意味だと教えられているのです。

 

池谷裕二『単純な脳、複雑な私』

脳科学者の池谷裕二の『単純な脳、複雑な私』という本があります。
高校生に向けて講演した記録です。

そこには
「脳は私のことを理解しているのか」
と問いかけてあります。

えっと思います。


実は、自分で自分を意識しようとしても、意識できるところとできないところがあります。

意識と無意識があると昔から心理学で言われていますが、大部分は無意識です。

私たちは意識された世界だけしか知りません。
無意識は巨大です。
意識の世界はむしろ間違っていることが分かっています。
脳は自分は分かっていません。
自分が自分はわからないのです。
自分のことを知っていると思うが、自分のことは知らないのです。

ところが仏教には、心のしくみが詳細に顕らかにされています。

その上でそんな心で本当の幸せになるにはどうすればいいのかが説かれているのです。

量子力学でも人生は夢のようなもの

『死後の世界を突き止めた量子力学』という本があります。

昔、科学 といえば死後を否定するものと思われていましたが
最近ではこんな本も出ています。
この本の中でもこんな表記がありました。
__________

観察するという意識と行為がなければ
この世は存在しないと考えることを余儀なくされるからである。
科学者がいて観察しているという行為が
客観的に観察しているのでなく
想念によって生み出しているといえる。
__________

ニュートン力学からいうとここに物質があります。
これはもう間違いないということです。

それに対して今朝を見たとします。
夢だったのか、夢でよかったと思います。
夢は幻想やと思います。
夢さめたとき夢の中で登場した人物やものは実存しないものと
しておそらく自分の心が夢の中で生み出したもので夢さめれば存在しない。
だけどこのホワイトボードはある、マーカーはあります。
これを夢の中のものとはぜんぜん違います。
こう思ってきました。

皆さん、今でも思うでしょう?

ところが量子論的にいいますと物質の最小単位はクォークですが
クォークは定まった場所にあるようでありないようであり、
質量をもったようでもあり質量もたないようでもあり、波動のようでもあり・・・・
つまり実体がありません。
実体がないものから我々ができているとすれば一体どうなのでしょうか?

これはといいます。

たとえば夢の中で登場人物がいます。
夢の中では確かに「いる」のです。

夢から覚めても覚えている映像もあります。
夢の中で出てきた誰々くんとここで振り向いて
みた誰々くんは一緒ではありませんか?
いつもの服きて、いつもの顔して、いつものかばんかけてきました。

夢の中でも先輩のイメージと起きてあっているイメージは一緒です。
どちらも同じです。
昨日先輩にあったイメージと一年前夢の中であったイメージとどこか違いがありますか?
記憶として両方残っているのだから違いはないというのが量子論

こうくると、わからんようになってくるでしょう。
ところが現代物理学の最先端では実はこういうレベルなのです。

夢の中で見たり、出会ったりする人やものと、昨日見たりであったりした人とは区別がつかないものです。
大体夢醒めたこの世界、これは現実だ!とおもっているでしょう。
ひょっとしたらこれも、夢かもしれませんよ。
その可能性否定できる人いないでしょう。

ところがそういうことはすでに仏教では教えられていることなのです。

さらに、その上で儚い夢のように消えて行く人生で、生きる意味は何なのかが明らかにされています。

科学を包む仏教

科学 を包む仏教』という本があります。

水原舜爾という方は亡くなられましたが岡山大学の医学部の名誉教授で90何歳まで長生きした。
バリバリの理系ですね。
この本を出す前にでたのが『科学 から仏教へ』という本です。
1980年ごろのだいぶ古い本です。

科学 を包む仏教』は平成入ってからの本です。
水原舜爾は、国立大学で医学部の教鞭をとられながら仏教の勉強もされていました。
これを発刊されたのは大学を退官されてから若者に仏教を聞いてほしいと思われてのことです。

科学 を包む仏教』科学 よりも仏教が上なんだということです。
このような本を他にももう2冊出されています。

科学 が取り扱うことのできる領域は、物質とエネルギーのみです。
人間の心には探求のメスを入れることができません。


したがってものと心のあり方を包括する仏教を科学 的知識のみで説くことはできません。

しかし仏教の教義には存在論や人間の深層心理を説いた唯識がありますので、これらを説明するのには仏教しかありません。

存在論は私のみたところ科学 と矛盾しないばかりか科学 の進みゆく究極のところを先取りしているのが仏教

ですから仏教は科学 的知識を導入して

科学 の進むゆく究極のところを先取りしているのが仏教だと国立大学の医学部の名誉教授が本に書いて出版されています。
こういうことは普通知られていません。

ということは仏教といえば宗教の1つで迷信だ。
拝めば何かいいことあるかもしれないと思っています。


最近の仏教のイメージは葬式法事です。
死んだ人にお経読んだら死んだ人が浮かばれると言います。
若い人はそんなの迷信だと思います。
何か意味わからないで聞いている人は早く終わらないかなと思いますが、死んだ人にはあれが嬉しいんだろうなと思います。
若者はそんなこと思いません。
早く終わらないかと思うだけです。

そんなことおもって仏教も迷信だと思いますが、仏教を知っている人は科学 の進みゆくところを先取りしているといわれます。
科学 がこの100年間、相対性理論とか量子論といわれる今までになかった分野に来ました。

文系の人には申し訳ないけど理系の人は聞いたことあるでしょ。
文系でも知ってる人もあると思います。

アインシュタイン相対性理論ともう一つの柱、量子論です。
この2つが100年間の現代物理学といわれる最先端です。

このレベルまで来て初めて仏教はすごいな。これらをはるかに超えた内容を仏教に教えられていると書いてあります。

E=mc2のことが書いてあります。
見えないエネルギーと質量をもった物質とは根本的に等価であるということをアインシュタインがやっと20世紀に発見したが、経典には2600年前に明かされています。

20世紀に入ってからやっとこういう関係に気づいたわけですが私の考察が正しいとすれば2600年前からお釈迦様はこの関係に気づいておられたわけですから仏教は科学 の進みゆくところを先取りしていたということになります。

そして、科学 のような合理的な前提の上で、本当の生きる意味を明らかにされているのが仏教です。

西洋のはるかに先を行っています。

 /p>

私たちの運命に一番影響するのは心

仏教では、私たちの行いを心と口と身体の3方面から見られます。

心を行いというのも世間と違いますし、その上その3つの中で、一番大事なのは、心であることもまったく違います。

世間の法律は、身体の行いを一番重視します。

今ストーカー殺人事件がありますが、無言電話がかかってくるし、アパートの近くまでつきまとっています。
こういう苦情があっても、結局警察に相談していたのに殺されてしまいます。

なぜかというと、殺されてしまうまで決定的な対処ができないからです。
なにか決定的な障害とか問題がおきないと手を出せないというのが警察です。

口で言った、これで警察が取り締まれるのはごく一部です。
このように、法律の場合、外から確認できる確実な証拠がなければならないのです。

しかしながら倫理や道徳ではもっと口で言うことも問題になります。
変なことを言うと、道徳的には失礼なことを言ったとか、
問題発言したということで評価は下がります。

法律や道徳倫理ではここまでですが、それらではわからないのが心です。

だけど事実は心が中心です。
なぜなら心が思ったことを口や体でやるからです。

「ちょっとちょっとネクタイが曲がってますよ」
と言われれば
「ああ有難うございました」
といえますが
「ちょっとちょっと根性曲がってますよ」
といわれたら、
「なんだと、あなたのほうが七曲がり半多く曲がっている。
あんたには言われたくない」
と思います。

心をそれだけ大事にしているのです。

ですから仏教でも、その事実をありのままに見つめて、心を最も重視するのです。

ですから心が私たちの運命に最も大きな影響を与えます。

これは、引き寄せの法則でもいわれますし、原因と結果の法則でも言われますし、鏡の法則でも言われます。そのルーツが仏教 の因果応報にあるのです。

 

小説に見る無常観・哲学にない罪悪観

五木寛之という作家があります。
以前も親鸞という新聞小説を書いていました。

仏教の中でも親鸞聖人や蓮如上人に関心を持っている人です。
あの人の文章はプロだからうまいですね。
内容も考えているなというところあります。

五木寛之の本の中にこういうこと書いてありました。
人間があと4ヶ月の命、実際そういう人があったんでしょう。

こういうふうになった人が今から金儲けするだろうか。
使うことがあっても貯めようとはしないだろう。
名誉を得ようとおもって努力もしないだろう。

あと4ヶ月となって金や財産や名誉は価値をもたないだろう。
私も思わない。
ところがじゃあみんなはどうかというと金がほしい。
名誉がほしい。
ということは自分は絶対死なないと思っているからだ。

当たり前のことだが良い文章で書かれると納得せざるをえない。
なかなかいいこと書いているなと思う。

あと4ヶ月の命なったらね、仕事や資格試験の勉強をしますか?
あと4ヶ月ということは、7月11日だから11月11日まで。

大学生ならもうすぐ7月末に前期の試験があります。
この試験はがんばらなければならないと思いますか?
その間に試験あるといわれても試験勉強やろうとは思いません。
先がないことはっきりしておって将来の仕事や資格のための勉強はしない。

お金つかいまくろうと思っても使わないように貯めようとは思いません。
人は死ぬということを全く念頭においていないことがわかります。
これがこの話の結論です。
だから人生を間違うのです。

自分は絶対死なないという人生観は全く無意味だと五木さんは本に書いています。
これは西洋でいえば、メメント・モリ

仏教でいえば無常観です。
諸行無常、いつ死ぬかわからないんですよ。
なのに目先の幸せを求めて走り回って追っていいんですか?
こういうことしているから臨終に後悔するんだ。

これはスピリチュアルペインといってほとんどの人がする後悔です。


スピリチュアルペイン・臨終に起きる心の痛みとその理由

無常観は小説家の本にもあるし、それをみつめたハイデガーのような哲学もあります。
人間とはと見つめてはいるが、西洋哲学に決定的に欠落しているのが罪悪観です。
やがて死なねばならんのが私といっても、自分は悪ばかりだと気づくものがいない。
人間の考えた哲学にまったく欠落しているのが罪悪観なのです。

最近の鶏は鳴かないようになった?

年配の方で、
「昔の鶏はよく鳴いたけど、最近の鶏は鳴かなくなった。
鶏も最近の若いもんと同じで働かなくなった」
という人がありました。
しかし鶏は、今でも鳴いています。

単に、その方の耳が聞こえにくくなっただけです。
自分の耳が聞こえなくなったことを顧みることなく、外側に原因を求めています。

まさに
「知るとのみ、思いながらに何よりも 知られぬものは己なりけり」
と歌われている通りです。

私たちは、自分のことは自分が一番よく知っていると思っていますが、何か悪いことがあると、人のせいにしてしまうので、自分は見えていません。

それは、自惚れているということです。
自分はいいものと思って、悪くはみられませんので、自分で自分のありのままの姿を知ることはできないのです。

キャッシュコーナーに財布を置き忘れたとなったら驚きますが自分を忘れていることには驚かないのです。

財布を忘れたとなったら血相かえますが、自分自身を忘れていてもちっとも驚きません。
昔から、
「汝自身を知れ」
と言われますが、いまだに名言として語り継がれているということは、どんなに科学 が進歩しても、自分自身を知ることは極めて難しいのです。

しかし、自分がどんなものかわからないで幸せになることはできませんので、ブッダは、私たちの本当の心の姿を教えられているのです。