仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

二河白道のたとえ

善導大師二河白道のたとえで、

弥陀の呼び声は

すべて水火の難にだすることをおそれざれ、

と聞こえた。

 

水火の難というのは、

水とは欲の心
火とは怒り。

順境のときは欲の心が吹き上がって聞けなくなる、

調子がいいときはついつい欲にひきづられる。

逆境のときは腹が立つ。
順逆ともに心していけ。

 

ともに後生の一大事を心にしめて二河白道をすすんでいけ、

調子がいいとうかれていると足をさらわれるぞ、

いまいましい腹が立つ、怒りの心で身を焼いていると仏縁を失ってしまうぞ、
順境のときも逆境のときも二河の道を進め

 

うきことも悲しきことも善巧とただひたすらに二河の道ゆけ

 

つらいこと悲しいことも全部ご縁として仏教の道を進めよ。

如来方便とうけとめて。

調子のいいときも悪いときもただひたすらに

二河の道ということは、水、火の河と戦っている、

信心決定するまでは煩悩はさわりになる。


どうしてこんな欲の心が強いんだろう、

怒りの心なくなってくれたら

どうして心が落ち着かないんだろう?

真剣に聴聞 しようとすればするほどそういう心が邪魔になる。

真剣になろうとすればするほどなれない。

意馬心猿

われわれの思いは暴れ馬、一時としてじっとしない、

サルのように木から木へ激しいく動く。

馬、サルのように散り乱れて、じっとしない、仏法に集中できない心の姿を言う
みんな煩悩のなせる技。

 

定水を凝すと雖も識浪頻に動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う、而るに一息追がざれば千載に長く往く、何ぞ浮生の交衆を貪って徒に仮名の修学に疲れん、須らく勢利を抛って直に出離をねがうべし。(歎徳文)

 

おさえようとしても煩悩がふきあがってきて閉ざしてしまう、

自分の二河白道が見えない。

見渡す限りよく、怒りの河が広がっている。

善導さまも4,5寸の白道しかなかった。なさけない聞法心しかない。

こんな自分が求めきれるだろうか、不安になる、それが畏れている姿。
進めば段段聞法心がつよくなっていく。

 

そして救われて、ということじゃない。

いよいよ欲、怒りの河が逆巻いてきて水火の難に落ちるのではなかろうかという不安

そういう不安で苦しむ、

信心決定直前の苦しみを三定死

 

その心に届くのがみだの呼び声、水火の難にだすることをおそれるな。

畏れている三定死の人に聞こえる

なんだ、みんな欲の心在るじゃないか、

ちっとも畏れていない人には聞こえない
こんなことですすめるんだろうか、

畏れている人にとどくのが畏れるなという呼び声。

 

なぜ畏れるなといわれるのかというと、
煩悩で苦しんでいると思っているだろう、
本当に苦しんでいるのは煩悩ではなく、

無明の闇で苦しんでいるということ

水火の難にだすることを畏れるな、苦しみの根本原因じゃないよ、
ここで無明の闇が破れたときに
無碍の光明は無明の闇を破するえにちだったとしらされたときに

苦しみの根本原因だと分かる。やぶれてわかる

破闇満願


苦しみの根本原因は無明の闇だったと知らされる。

それを親鸞聖人はここでおっしゃっている畏れるな、

ということは根本原因では在りませんよ、

無明の闇ですよ。


ぶちやぶってくださる無碍の光明のお力。

こら阿弥陀たすけたければたすけさそ 罪は渡さぬ喜びの元

庄松同行が
煩悩で苦しんでいるものとばかりおもっていたけど煩悩はかわらない。

阿弥陀如来 の呼び声聞いて無明の闇がぶちやぶれて、
煩悩が原因だと思ってきたけど無明の闇だった、

煩悩はやらんぞ、喜びの元だから。

助けたいなら助けさせてやる、無明の闇だけもってけ、
ここまでは煩悩との戦い、いろんな煩悩がでてくる

やな事が在れば腹がたつ、因果の道理を認められない心ばかり。

どうにかならんかな

どうにもならんとしらされたとき無明の闇がやぶれて、

喜びの元転悪成善

ご恩喜ぶ種になるから畏れるな、ここまでは畏れる、

だから煩悩との戦い

心、自己との戦い、

一念にさわりにならなくなる

 

御一代記聞書46番

「我が心にまかせずして心を責めよ、仏法は心のつまる物かと思えば、

信心に御慰み候」と仰せられ候。

 

我が心にまかせずして。

自分の心、煩悩にまかせた求道ではだめ。

 

すき放題やりたい放題で仏法もとめようといったら大間違い。

心を責めなさい、煩悩と戦いなさい。心をせめよということ。

 

そうすると
仏法は心のつまる物かと思うでしょう。

しんどいということ。

何と窮屈だな、しんどい、つらい、やりたい放題やれないんだから、

自分の心と戦って、自分の煩悩をおさえるのは心が詰まる思いがする

 

信心におんなぐさみ候

戦って詰まる思いがするけれど、けして楽な路じゃない
右は欲、左は怒り、細い細い白道を進むのは大変それが

一念で信心に御慰み候

 

さわりにならない無碍の一道、

どんな煩悩罪悪もまったく往生のさわりにはならなかったという無碍の一道に出る、

ここまではおそれるな、という呼び声が聞こえない。

煩悩とたたかって心をせめてせめて

じだんだ踏んで畏れている人におそれるな。

 

連如上人非常に短い言葉だが、求道の過程が非常に現れている
信心決定して煩悩はまったくさわりにならない
煩悩即菩提、生死即涅槃