仏教研究室

仏教を研究しています。

天神地祇も敬伏し

念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、
魔界外道も障碍することなし、
罪悪も業報を感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり、と云々。

歎異抄

無碍の一道とは、一切がさわりとならなくなった、絶対の世界です。

天神地祇は敬伏する。

魔界の者も外道の者も障碍することなくなる。

罪悪も業報も感ずることあたわず。

諸善も及ぶ事なき故に無碍の一道なり。
こういう世界があると仰有っています。

 

天神地祇も敬伏しというのは、天地の神々がひれ伏すということ。

仏教で教えられている神のことです。

3つの神が仏教で教えられています。

 

1つは人間の妄想が創ったものです。

キリスト教のエホバ、イスラム教のアラー。

天地創造の神ですね。

私たちの運命を支配しているといわれている。

これを仏教では天という。

これは因果の道理に反しますし、こういった者は外道といわれて、排斥します。

お釈迦さまは天を拝することを得ざれと仰有っています。


優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲はば、乃至、自ら仏に帰命し、法
に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ふることを得ざれ、天を拝する
ことを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ。
                         (般舟三昧経)


仏教を聞いて学びたいと思う者は、仏を信じなさい、

仏の説かれた教えを信じなさい、説く人を信じなさい。

天を拝むなとハッキリ断言されている。

日の善し悪しを問題にするなと仰有っているところです。

こういった神は存在しませんし、捨てなさいといわれます。

 

次に、鬼神をまつることをえざれ。

これは死んだ人間や畜生の魂がどこかに鎮まって、

私たちに禍福を与える力があると信じられているものです。

 

だいたい日本の神というのは、これにあたります。

明治神宮なら明治天皇

靖国神社なら、日本の軍人。

乃木神社なら乃木大将。

天満宮といったら菅原道真

東照宮といったら、家康。稲荷といったらキツネ。

「みーさま」といって蛇を拝んでいるところもある。

いろんなものがまつられていますけど、みなさんの家の仏壇に位牌があって、

それに手を合わせていたら、それも鬼神信仰です。

これらも総て排斥されます。

そんなところに鎮まっている者ではないと。

 

親鸞聖人は、これらのものを徹底的にぶち破っておられます。

日本は神の国ですから。これをぶち破らないといけなかったんですね。

仏教の教義上からいっても認められませんし、実際にいないものです。

 

3番目は、仏法を守護する神です。

帝釈天とか。仏教を守護し、励ます存在として教えられている神がいます。

それらの者をさして、天神地祇といわれています。

それらが敬伏する。敬って頭を下げる。

 

旅館などに行きますと、仲居さんという人がいて、

列を作って頭を下げてくれます。

気持ちよくていいんですけど。ホテルなんかに行くと、

ボーイさんが荷物を持ってくれたりして、気持ちいいじゃないですか。

でもそれは、私たちがお金を出すからなんですね。

お金に頭を下げている。
自分が偉くなったわけではない。

新宿の歌舞伎町なんか行くと、「社長!社長!」とおだてられる。

しかも店にはいると、ホステスが非常にもてはやしてくれる。

それはその人のお金目当て。

本当の社長でも、その人に頭を下げるのは、出世できないから。

その人の地位や金に頭を下げている。

それで自惚れたら大変なことになる。

敬伏というのは、渋々頭を下げるのではなく、

心から尊敬して、頭を下げるということ。

これはすごいです。

自分なんかいなくてもいいんだと、自己嫌悪に陥ることもありますね。

しかし無碍の一道に出たひとは、こういう身になれると仰有っている。

値のない人間どころでない。

迷った人間は非難するかも知れないが、天地の神々がひれ伏すんだぞと

仰有っている。

しかも、釈尊はこういうひとは「我がよき親友だ」と仰有っている。

上々人・希有人・妙好人・最勝人・分陀利華・広大勝解者といわれている。

 

世間でもてはやされている人に親友といわれただけでもうれしいものですが、

釈尊から親友といっていただける。

寿司でいえば、並どころでない特上。

素晴らしい人、滅多にいない人、大学者。

こういう言葉を連発されている。

そういう人ですから、天神地祇は当然ひれ伏すに決まっているんです。

だから周りの非難など全く問題ではなかった。

迷いの衆生から誉められるよりも、

一人の尊敬する人から誉められる身になりたい。

大宇宙最高の宝である南無阿弥陀仏と一体になった人だから、

無碍の一道に出た人に頭を下げたり、親友といったりするのです。