昔の 文藝春秋に書いていた。
○藤原智美(作家)
(略)
奇妙なことに、だれに訊かれたわけでもないのに私たちは、
人を殺してはいけない「理由」を探しているのだ。
それは子どもたちのもつ理解をこえた「命への感覚」に気づき、
私たち自身がひどく不安になっているからにほかならない。
たとえばこういう十代の「気分」が存在する。
「いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら」
この言葉をまえにしたとき、これまでの倫理、道徳観に根ざした殺してはいけない
「理由」は無力だ。
例えば「人の命の尊さ」といったとき、いったいその言葉で何を説明し、
どう彼らを説得できるだろう。
手垢のついた常套句であるからダメだなどといっているのではない。
私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」
などと本当に信じているかが問われているのだ。
(略)
もしかすると「かけがえのない」と信じている命、
「地球よりも重い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされ
なおかつ保存される。
そういう状況をむかえるかもしれない
(私はそうなると確信しているが)。
複写機にかけるように無限にコピーされる命のどこが尊いのか、
そう問われたとき私たちにどんな答えが用意されているのだろう。
(略)
いつのときも若い世代は時代の気分をもっとも鋭く反映させる。
少年少女たちの気分は時代の先端部分、
すなわちエッジを表現しているにすぎない。
彼らの「いいじゃん」は私たちの、
言い換えれば社会の「いいじゃん」なのである。
自分もその渦中に存在し、
その社会を構成していることにまったく無自覚に、
人を殺してはいけない「理由」を
もっともらしい一般論としてならべたてても、
無意味なばかりか有害でさえある、と思う。
(略)
人命の尊さ、命のかけがえのない価値は、
やはり作家のような知識人でも分からない。
命の意味が分かるのは、お釈迦さまだけである。