仏教研究室

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お釈迦さまのご方便

王舎城の悲劇で、韋提希夫人が、牢屋に入れられたとき、

お釈迦さまが来られます。

韋提希夫人はこう言います。


唯願わくは仏日、我に清浄の業処を観ることを教えたまえ
                          (観無量寿経)


そこでその後お釈迦様がどうされるかというと、

眉間の白毫相から光を放たれて、十方諸仏の国土を見せられるんですね。

これは厭離穢土欣求浄土といわれます。

厭離穢土とは、汚い世界は嫌だから離れたい。

そして、清らかな世界に行きたいと思うように、

韋提希に見せられたんですね。

 

余方因順といって、相手に合わせて見せられるんです。

もしネコに見せられるとすれば、鰹節で出来てると言われますけど、

人間ですから。

 

そして、阿弥陀仏極楽浄土に生まれたいという心をおこさせたんです。

地獄より行き場のないものがよくもぬけぬけと
悪しか作れぬものが、よくも仰せの通りになどと

阿難や目連は上のように思っているんですが、

お釈迦様だけは会心の笑みをもらされています。

 

その時、世尊、即便微笑したまう」         (観無量寿経)


即便微笑といわれます。
浄業機彰れてというのはここのことなんですね。

 

阿弥陀仏の本願を説く機があらわれた。

そして、次の頁に、有名な言葉が出てきます。


汝今知るや不や阿弥陀仏ここを去ること遠からず。
                 (観無量寿経


こうして説かれるのが定散二善です。定善十三観、散善三観です。

定散十六観ともいわれます。

よいことを進められているんです。

阿弥陀仏に向かって善をしなさいと勧められています。

ここからが、観経の本論なんですね。

正宗分といいます。

ここで、善を勧められているんです。

韋提希夫人は、言われたとおりやろうとするんですが、

阿闍世とダイバへの怒りが吹き上がって来るんですね。

定善というのは息慮凝心といわれ、慮をやめて、心を凝らすということです。

心を落ち着けてやるということです。

散善は、廃悪修善です。

心が散り乱れていてもいいから、善をしなさいということです。

定散二善を説かれた目的は、阿弥陀仏の19願に、

修諸功徳といって善が勧められているからです。

 

悪しかできない自己の姿を知らせるためなんですね。

悪を照らし出すのは善だけなんです。

 

悪ばかりしている人が、自分が悪人だと思うかな。

思わないんですね。

悪の姿というのは、善に向かって初めて照らされるのです。

極悪の姿は、極善でなかったら照らせません。

親孝行なんかも、やろうとして初めて、

出来がたいことが知らされるようなものです。

 

心想羸劣韋提希に定善の行などできないことは

釈尊には初めから分かり切っておられたんです。

 

仏、韋提希に告げたまわく、「汝は此れ凡夫なり。

心想羸劣にして未だ天眼を得ざれば、 (観無量寿経)


そして、韋提希は外にむいていた目が、

お釈迦様巧みなご方便、妙手によって、内側に向いてきたんですね。

 

そして、ナレーションがありますが、

苦悶に落ちて行くんですね。

 

それは、お釈迦様に怒り愚痴をぶつけて苦しんでいたときとは明らかに違います。

後生の一大事に、韋提希は苦しんでいるんです。

苦しみの質が明らかに違っているのです。