仏教研究室

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親鸞聖人は29歳で人生の目的を果たされた

親鸞聖人は仏教を聞かれて、29歳の御時に人生の目的を果たされた。
人生の目的を果たし遂げようと思われたきっかけ、

これをまず知ってもらいたい。

聖人は800年前にお生まれになられて、

わずか4歳でお父様が亡くなられた。
親をなくすということは大変なショック。
そのショックは私たちでは想像のできないものであったでしょう。
子供のときの支えは親。
そして8歳のお年で、杖とも柱ともしておられた

お母様、吉光御前が亡くなられた。

当時20歳前後で子供を産む。だとすれば、30歳前後で亡くなられた。
幼少のとき心の支えであった両親がいない。

大変なショックであり、無常を知らされるご縁になった。
人の死を通して、自分も死んでゆくと、

いつも一緒にいて言いたいことを言って、

おねだりをしたり、全幅の信頼を置いていた、

そのお母さんがこの世にいない。
聖人のご両親が亡くなられた。

このショックは無常を激しく知らされる大きな縁となった。
死んだお父さん、お母さんはどこへ行ったのだろう。
後生という問題が自分の問題となった。
後生がハッキリしない。ハッキリしない後生に向かって自分が進んでいる。
決していいことがあると思えない。

真っ暗がりな後生。

この心を抱えて生きていたら安心満足することもない。
何よりも今晩ともしれない後生。人によって知らされ方は全く違う。
聖人が詠まれたお歌。

「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」

どういう経緯でよまれたか、いきさつは。
当時、後生の問題、これは仏法にしか教えられてなかった。
天台宗真言宗。聖人は天台宗を選ばれた。
出家得度の儀式を慈鎮和尚にお願いしたところ、明日得度しようと言われた。
そこで聖人がおもむろに筆と硯をもたれて詠まれたのがこのお歌。
明日あると思っているのは間違いですよ。何が?
自分の命。これを桜の花にかけている。
また明日、今と同様に桜の花があると思っていたらそれは大変な間違いですよ。

嵐が吹いたら散ってしまう。
無常の嵐は待ってくれません。もし今晩死んだら仇になってしまう。

激しい無常観。無常観とは無常を観る。

小学校のとき、朝顔のスケッチをする。

そのときの観察の観。
赤なら赤、ピンクならピンク、そのまま観なさいということ。
無常を無常と観なさいということ。四角なら四角、三角なら三角。
人の命をあきらかに観なければならない。

聖人のお歌は正にその通り。

シドニーオリンピックソフトボールは銀メダルをとった。

テレビでよくやっている。
女子ソフトボールエースの高山。
その人のお母さんが白血病で亡くなった。
通夜で多くの人が参列した。
オリンピックの銀メダルをとった人の母。
なぜこんなに話題になるか。
実際そのお母さんは、オーストラリアまで行ってそこで応援していた。
子供のメダルをとる姿を見るのは嬉しい。
急性白血病と診断されてから2日後。初めは体調が思わしくなかった。
明日とも知れない命。
白血病の怖さは自覚症状がない。
医者から宣告を受けて、早ければ2日、アンディーフグは5日、

長い人でも数ヶ月。
亡くなる3日前までは喜んでおられた。

明日あると思っているのは間違い。

どれだけ科学が発展しても、このお言葉は相容れるお言葉。

いつの世もどこの国の人も変わらない真実。
無常を観たら、死んだらどうなるのだろう。必ず直面する問題。
死んだら死んだときだよ、と思っているのは一大事じゃないのでなく、

後生が分かっていない。どう分かっていないのか。
「明日ありと思う心の仇桜」と分かっていない。
今急ぐことがあるから……この心にだまされて一大事を一大事と気づいていない。

無常を無常とあきらかに観ていない。

聖人が出家された動機は死んだらどうなるか。
私達は、無常の風の吹きすさぶ中、生きている。
世界では、ユーゴ、チェチェンで戦争が起きている。人が殺されている。
日本にいて周りを見ても、本当にそんな事が起きているの、と思う。
でも事実。
人の死で、これが自分の一大事だと思う人があるか。
ここに聖人を尊敬せずにはおれない理由の一つがある。
どれだけ我が身の一大事と思えるか。一時の感情ではない。
ハッキリしたらどうなる。

この世のことにたとえると1週間後に手術がある。
その人はその手術が成功するか、失敗するかしか頭にない。
食事は何だろうとか、立合い人は誰なのかとか、そんなことは後回し。
生きるか死ぬか。ハッキリしなかったら不安で何も手につかない。
聖人は、20年間、何としてでもハッキリさせたいと比叡山でご修行された。

生きてはいるけど、行き先がわからない。
マラソンで言えば、どこまで走ればいいのか分からない。
その心一つ。充実感も無い。
今走って苦しいけど、どこまで行ったら解消されるのか。
どこに向かっているのか。
生きている私達もどこへ向かって生きているのか。
これがハッキリする。

どれだけ頑張って修行しても、千日回峰行をされても、心に明かりが灯らなかった。
言うならばゴールのないもの。解決できない。
善いことをやりなさい、でも善いことができない。
だからゴールがない、あっても届かんと言ってもよい。
誰もが救われるものでない、誰も救われないと言ってもよい。
そういう中、私達、人生の目的、これを達成させられる仏教を聞いている。
これは素晴らしいこと。
人生の目的果たし遂げられるぞ。

阿弥陀仏の本願によって人生の目的を果たし遂げられる。

後生の一大事が解決できる。
そのお約束通りに29才のときに救いとられた。
比叡山には、人生の目的を果たし遂げられると約束された

阿弥陀仏の本願を教えられる人は誰もいなかった。


そういう中、山を降りられて善知識にお会いできた、これは稀なこと。
仏縁に恵まれた、そういう人はどこにでもある訳ではない。

20年間聖人は本当に正しい仏教なのか、今解決できるのか、

そう思いながらも、修行に励まれた。疑い、苦しんだ。
救いとられたとき、本願まことであった、

善知識にあうことは非常に難しいことだった、いろいろなことが知らされる。

これを慶ばしいことだ、喜ばずにおれない、とおっしゃっている。
それだけ、今まで苦しんでおられたということ。


真実の仏法に遇われる前に20年、

もっと言えば、生まれては死にを繰り返して、

非常に長い間苦しまれた。