仏教研究室

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二河白道のたとえ

二河白道のたとえについて。

 

二河白道の譬えと言うのは、善導大師の作られたもの。

1300年前の唐の方。

親鸞聖人は善導大師のことを

「善導独明仏正意」といわれている。

善導大師ただお一人仏の正意に明らかにせられた。

明らかであられたからこそ、明らかにせられることができた。

 

当時、高僧がたくさん輩出された。天台・浄影・嘉祥。

天台は、智者ともいう。

親鸞聖人も「ああ教観にあきらかなること、誰か智者にしかんや」

といわれているほど。

 

善導大師は、大心海化現の善導といわれている。

極楽浄土から現れられた。

30年間寝所につかれず、母以外の女性を見られなかった。

そして、人生の目的を達成された、後生の一大事を解決された。

では、どういう心のプロセスを通られたか。

どこまで言っても流転輪廻の中で、

どういうプロセスを通られたかを、たとえをもって教えられた、

これが二河白道のたとえです。

 

どんなたとえかというと、一人の旅人が旅をしていました。

何を得たら、どこに行ったら、満足、喜べるのか。

人間に生まれた歓喜の身になれるのか。

それを探して、旅をしていた。

しかし、どこにいっても本当の幸せはない。

教行信証には、これを無人空コウの澤と。

人一人いないところを旅していた。

だから、どこに行っても、何をやっても安心・満足がない。

そういう時に、尊い方に出会った。

どんな人にあっても、どんなんことをやっても、結局もとの木阿弥。

オリンピックを見ていて、体操の塚原は期待されても全然ダメだな、と言いつつ、

見ている。

最高潮が高橋金メダル。

閉会式が終ったら、始まる前とおんなじ心。

日本シリーズがはじまって巨人が負ける。

そして冬がくるだけ。

それが、真の喜び、満足はここにある、

ということを尊い方から聞かせていただく。

 

尊い方は、幸せになりたいなら、西に向かって進みなさい。

と仰言った。

仰言る通りにしよう、と旅人は西に向かって進んで行った。

突如、河に出くわした。

右からは水の河、左からは火の河。底が知れない深い河。

何をやっている!そんなところで足踏みしていも、幸せにはなれないぞ。

そんな事を言われても…。

向こう岸に向かって、わずか四五寸の白道が、伸びていた。

そこを指差して、ここを行けばよいと旅人に言います。

こんな激しい水の河と、火の河を、どうやって行くんですか、

と言いながら、旅人は、一歩一歩進みます。

ああ怖い、危なかった、と。

何をやっているんだ、こちらの岸に戻ってきてどうするんだ、

一体こちらの岸で、そなたの満足するものがあったか?

胸に手を当てて考えてみる。文化祭で空中ニ回転をやったなあ…、

遠足に行って楽しかったなぁ…、

しかし、今も喜べる幸せがなにかあったかなぁ。

こちらの岸で何を得ても、雲のように消えて行く、

シャボン玉を膨らませて割れるようなもの。

1歩2歩進み、恐れて戻る。励まされてまた進んで行く。

なぜ旅人は進むことができるのか。2つの理由がある。

 

東側の岸で、尊い方が行け行け、

西の岸で、こいよ、こいよと呼んでおられる。

そして、しばらくたつと、群賊悪獣悪知識が出てくる。

あなたのためを思って言ってるんだよ、こっち来て遊ぼうよ。

やっぱり戻ろうかなぁ。と思っていたら、

尊い方が「何をやっているのだ!」と言われて、また進む。

やがて、化けの皮が剥がれて、群賊悪獣悪知識が本性をむき出してくる。

剣を振りかざし、狙ってくる。

こういった妨害を振り切り、尊い方のお導きと、

西の岸におられるかたのお力により、進んでいく。

 

そして、白道が見えなくなる。

これ以上進むことができない。

ここまで進んできたけれど、もう進むことができない。

しかし、帰ろうとしても、帰る道が見えない。帰ることもできない。

行くこともできない。とどまっていてもどちらかの河に流されてしまう。

にっちもさっちもいかないところ、三定死。

そして、西岸上からの呼び声を聞いた一念に、

白道が無碍の大道に変わり、旅を続けることができた。