親鸞 聖人が田植え歌を、最初は田植えのはかどる歌といわれた。
みんな全然説法を聞きに来ないから。
あの人達にとっては後生とかどうでもよくて
田植えのことで頭がいっぱい。
私達も仕事がある、近所づきあいがある。
仏法どころじゃない。
親鸞聖人は本当は田植えをされに来たんじゃないのに、
田植えをされて、休憩時間に話をするということになった。
私達をいかにして助けるか、その大慈悲心によって
たてられたのが弥陀の本願。
その本願が形になって現れたのが名号。
もとになったのは阿弥陀仏の大慈悲。
愛を下さい、金を下さいという心ならあるけれど
阿弥陀如来の本願を聞く気はない、清浄の心なく、真実の心なし。
そこを阿弥陀如来 が真の心で名号を完成された。
聞く気のないものには聞く心も織り込まれた。
表面に現れた姿には違いがあるけれど
その心は全て阿弥陀仏の大慈悲心。
また法蔵の願心ということにもつながる。
麻酔かけられて昏々と眠っている、
そういう者をなんとか助けたい、これも大慈悲心。
蓮如上人は信の人のまねをせよといわれています、
聖人がなされたように、私達も同じようにやってみる。