仏教研究室

仏教を研究しています。

人間の慈悲と仏の慈悲の違い


人間の慈悲と、仏様の慈悲とは、いろいろな点で違う点がある。

たとえば、昔からよく、人間の慈悲を小慈悲と言いまして、

仏様の慈悲を大慈悲と言う。

単にその慈悲が深い大きいと言う意味にとどまらず、

親の慈悲とか家族の愛情というのは大事なんだけれど、

仏様の慈悲とは大きく分けて3つ違う。

 

1続かない。仏の慈悲ははずっと続く。

2差別がある。お母さんが自分の子供のオムツを換えている。

「よくもまあ汚いのに」親は子供のためになんでもする。

しかし、隣の子のオムツはと言ったらそうはいかない。

あなたはよく彼にお弁当をあげる。

「僕にもちょうだい」と言っても、作ってくれない。

エスペシャリーフォーユー。

3盲目の慈悲

良かれと思ってやっても、必ずしもその人のためになるとは限らない。
「溺愛し子供をダメに育ておる」という歌がある。

子供がかわいいと言う親の愛情がついつい子供を甘やかす。

甘やかされた子供はついついひ弱になってしまう。

三田佳子さんの長男。20歳になるのに、麻薬覚せい剤で逮捕された。

けれども、またしても逮捕、

三田佳子は40周年記念公演と言うことだが急遽キャンセル。

どうしているかというと、病院で寝込んでいる。

女優というのはなかなか仕事が忙しくて面倒を見れない。

ついつい我が子であると盲目的で甘やかす。

自分にとってかわいいということになると、

「だいじょうぶかー」と言うようなことばっかり言う。

 

昔ある男の仏教を聞いている人がいた。

しばらくしてある若い女性が仏法聞くようになった。

両親を亡くして自分でバイトをして稼いでいる。

まかないつきのバイトをやって、賄いを自分でやっている。

それを聞いて「そんなこととてもかわいそうで見ておれん」

「食事は全部俺がおごってやる、旅行代も出してやる」

その男の人も実はお金がない。

この女の人は、実は同じセリフをいろんな人に言っている。

でもこの人はわからない。

月日がたってこのことがわかって、ひどく落ち込む。

恋は盲目

love is blind
という言葉もあります。

よかれと思ってやったことが逆にだめになる。

助けてやったと思ったのが、逆にだめにする。

ごめんなさいと言えばそれでいいと思う。

本当に自分を鍛えて向上しなくてもいいんだと言うことになる。

果たしてそれで本当にその人のためになったのかと言うと疑問符が残る。

結局俺がやってきたのはなんだったのか・・。

どこまでが盲目的でという境界線は非常に弾くのが難しい。

曖昧模糊。
それに比べて仏様の慈悲は智慧に裏付けられている。

知恵があるというのは、一体何をどうしたらどうあがいたら

その人を本当に救うことになるのか。

これは凡人ではわからないこと。

知恵に裏付けられた慈悲と言うのは、人間にはいろいろな苦しみがある。

事業が失敗したとか、単位落としたとか・・・。

それらの苦しみで沈んでいるときに、

一緒に泣いてあげるというだけでは根本的に問題を解決することにはならず、

また苦しむ。

仏様の慈悲は、そういうあなたを苦しめている根源は何か、

その根源を教えてくださる。

苦しみの根源とは何かを教えて知らせてわからせて、

その苦悩の根元をぶち破ったときは、家族が幸せでうれしいとか、

結婚して幸せとか、皆続かない一時的な幸せでしかないけれど、

この苦悩の根元を断ち切られたときには崩れることのない幸せのみになれる。

 

絶対に崩れない幸せを与えてやると言う慈悲は親の慈悲にはなくて、

仏様の慈悲にしかないと言うことを、お釈迦さまが仏の教え、仏教に教えられている。

ですから仏教の目的は抜苦与楽、

すべての人を変わることのない幸せの身にするということ。

その仏教を聞き求めていくと、仏の慈悲によって苦悩の根元が断ち切られて、

true-buddhism.com

変わらない幸せの身になったと言うことがありますので

そこまで聞きもとめていってもらいたいと思います。