仏教研究室

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韋提の権実

韋提希夫人はお釈迦さまに導かれ、

とても善のできるような私ではない。
極楽どころか地獄しか行ようのない自分でありました
と知らされました。


後生の一大事に気付いた苦しみです。
また、無明の闇の苦しみです。

そうした韋提希に、お釈迦さまは次にどんなアクションをされますか。
今から除苦悩法を説くぞといわれ、阿弥陀仏にバトンタッチされています。
そして信楽の身になっています。
非常に短い中に、ひもとけば大変深い内容です。

この世で初めて阿弥陀仏に救われた韋提希夫人。
その韋提希夫人は、権仮の人だ、と言ったのは、
今から1300年前中国の、天台・浄影・嘉祥でありました。
当時の中国ではこの観無量寿経が話題になっていた。
あんな韋提希が救われている。
難度海の人生が光明の広海に変っている。
そこで、中国の仏教の歴史にその名を残す、
天台宗を開いた天台のようなものたちが、
それぞれ、観無量寿経の解釈をしました。
これらの人たちはそれぞれ一宗一派を開いた人たちです。

「権化」というのは、山で修行したようなこともない韋提希が51段高飛びしている。
聖道自力の仏教の代表格の彼らには、にわかに信じ難いことです。
一段一段必死な思いでよじ登っているものにとっては、あっと言う間の一念で
救われるなんてことはあってはならないんです。

「満願」とは、私たちの身の上に、阿弥陀仏の願い、
今生は正定聚不退転、死んだら極楽浄土で弥陀同態の覚り、
という身にしてみせるということです。

「難思の弘誓」といわれますように、私たちでもよく分からないですが、
聖道自力の仏教をやっている人たちにとっては、
もっと分からないことだったのです。

だから、過去世において相当の覚りを開いていたのが韋提希で、
そして今生、釈尊のお導きにあって覚りが開けたんだと解釈したのです。

そこへ「善導独明仏正意」と善導大師が現れ、
こんな解釈では釈尊の出世本懐がねじ曲げられている。
韋提希は「心相羸劣」と経典にあるではないか、
泥泥の泥凡夫「実凡」であったのだ、と明らかにされました。

そういうことを踏まえた上で、親鸞聖人は王舎城の悲劇のヒロインである韋提
希夫人をどのように見られたか。


善導大師を大変尊敬されていた親鸞聖人が味わわれた王舎城の悲劇が、
教行信証の「権化の人」と言われています。
韋提希だけでなく、王舎城の悲劇の登場人物全てを
仏さまの化身だと味わっておられます。

善導大師と違います。
ここで反旗を翻されたのか。

天台らは自分たちの理解にあわせて教えを曲げました。
下からのぼってきた聖者、これが韋提希だ。
過去世は高い覚りをひらいていた。
そういう意味で「権化」と言ったのです。

親鸞聖人は、諸仏方が、仮に韋提希たちの相となって、
演じて見せて下されたドラマであると味わわれたのです。
ではなぜそんなドラマを演じられたのか。
ただ本願があるということを知らせるだけでありません。
どんな極悪人をも救い摂る、その本願の現存をいかに十方衆生に周知徹底するか、
ひとえに念じられる諸仏方の壮大無類のドラマなのであります。

親鸞聖人の明らかな体験から、どうしてこんな身になれたのか、
諸仏方がドラマを演じて、弥陀の本願を明らかにして下されたなればこそだと、
そういう親鸞聖人の韋提希夫人の味わわれ方は「権化」であります。

教行信証の冒頭、難思の弘誓があるぞ、無碍の光明があるぞ、
と断言なされた続きに、この王舎城の悲劇を出しておられるのです。
その後で、「あ〜、弘誓の強縁は多少にもあいがたく」と書かれているのです。

善導大師と親鸞聖人はまったく違っていたのかといいますと、
そうではありません。
弥陀の本願を明らかにする、このことでは全く同じでありました。
一念で泥凡夫を信楽と救い摂る、まさに難思のお約束なんですが、
それを善導大師は「実凡」が助かっている、ということで明らかにされ、
親鸞聖人は「権化」のドラマにしか思えないと、明らかにされたのです。