ミッドウェーの海戦中心になったのは空母。
アメリカも日本も総力戦。
いろんな空母がつぎ込まれていた。
そしてそれぞれの空母には戦闘機がつみこまれていた。
当時の日本の海軍は優秀だった。
ゼロ戦。
非常に優れた戦闘機。
パイロット。
必死になって戦って見事に敵を撃沈する。
ところが航空母艦を先にやられてしまった。
後は帰るだけだった勝ったのに、帰るところがない。
燃料はだんだんとなくなっていく。
勝ったのに帰るところがない、何のために戦ったのか。
海の藻くずと消えていく。
考えてみると、私たちの人生もこの飛行機にたとえる事ができます。
生まれたということはは、飛び立ったという事。
高いところを飛んでいるという人もいれば、低空飛行している人もある。
飛び方は人それぞれです。
しかし、人生はただでは飛んでおれない。
いろんな敵がやってくる。
大学受験という敵がやってきた。
大学の赤点という敵がやってくる。
それを乗り越えても、次には失恋という敵がやってくる。
そういう飛行機もあるかも知れない。
あるいは借金という敵。
それでも何とか飛ぶが、病気が来たり、試験が来り、
複雑な人間関係の渦に巻き込まれる事もあるかも知れない。
そんな問題が一つもないという人は一人もいないでしょう。
仏教では、このような障害のことを障りといいます。
歎異抄第7章には無碍の一道という言葉がありますが、
その碍というのは障りの事であります。
次から次へと障りがやってくる。
これが人生。
みなさんなら、その中、これまで懸命な努力をはらっていきてきた。
しかし、一ついえる事は、もし仮にそれらの敵を全部打ち落としたとしても、
この飛行機は燃料が必ずなくなるという事です。
私たちの命のガソリンに限りがありますから、そうなると、あとは死んでいく
しかないとなったなら、それまでやってきた事、戦ってきた事は何だったんだ。
しかも、降りていくところがない。
敵をどう倒すか、どうよけるか、ことも大切ですが、
やがて燃料が切れるのですから、
いつ切れても大丈夫という身になることが一番先決なんです。
と教えられたのが親鸞聖人です。
歎異抄に記された無碍の一道の碍とは死をも障りとならない幸せ。
いつ死んでも悔いなしという身にんれるんだぞという事です。
親鸞聖人は、無碍の一道に出たぞと言われていますから、
無碍の大空港をもっているぞと言われているのです。
ところが、誰もこんな空港を持っていない。
そこに苦しみの人生が始まるんだぞ。
だから早く、無碍の一道の身になれよと教えて行かれた。
この世界に出ると、一切の障りが障りのままでさわりとならない世界にでるから、
念仏者は無碍の一道と言われたのです。