仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

阿弥陀仏の19願の「至心発願」の意味

阿弥陀如来の19願に「至心発願」というお言葉が誓われています。

 至心発願の「至心」とは「まことのこころ」ということです。
誰の心でしょうか。

私達にはまことのこころはあるんでしょうか。
ないもの出せ!と言われているんですが、
これは「まことのこころにして」ということです。

「まことのこころ」にならん私が「まことのこころ」にしようとして、
ということです。
もっとも多くの人が間違ってるところだと思います。
どうせならないもの、と思っているのは
「まことがない」と本願力に照破されたのとは全然違うんです。
実行してみないと分からないものです。

いくつか例をあげてみますと、挨拶するってことあるじゃないですか。
私が、子供の頃「おはようございます」と言うのが素直にできなかったんです。
そもそもそんなこと言う気持ちがないんだ、
だからここで言うのは自分に対する裏切りだ!とか。
「ごめんなさい」も言えない。
たしかに俺も悪いけどお前も悪いんだ!とか。
上司や先輩にあいさつしてるのをみるとヘドが出る!
何だコビ売りやがって!と思ってました。
多かれ少なかれ、こういう気持ちってみんなあるんです。

そういう心しかないんですけど、
それを「まこと」の心にして、
そして挨拶してみる。

これが「至心発願」です。

そこを自分の思いのままにやってるのは、
素直なんじゃなくてガキなんです。
お礼状やお詫び状にしてもそうです。

書く気もない自分の心を正して「合掌」「拝啓」とか書くんです。

自分の心を見つめて、心をまことにしようと努める。
これが19願のみ心にかなっていると思うんです。
御一代聞記書に「心を責めよ」というのがあります。

「わが心にまかせずして心を責めよ」
というのは、三願転入の道を進む時、あれはしたいこれはやりたくない、
という弱い心に任せておっては、
諸々の功徳を菩提心を発して至心に発願してやってる
とは言えないんだということです。

カッコだけつけとかなくてはならないからやっとくの。
掃除の時間も、ほうき持って動くだけ。
心をこめてやってるわけじゃない。
しかし19願では、そんなあなたの心を「まこと」にしようとするんです。

挨拶するにせよ、
自分と接する誰かに少しでも幸せになってもらいたい、
こういう思いが必要なんです。

仏法の話をする時だって、話す人に少しでも幸せになってもらいたい
という気持ちがあるかどうか、これ非常に大きなものなんです。
仏法にお金を使う時だってそう、
後生の一大事解決の為ならばこれくらいではまだまだなんですが、
という気持ちになってるか、それとも体裁だけを取り繕っているか、
大きな違いです。

昔、ある女性の方が御縁を結びました。
そこで真実の自己を話します。
一生造悪の話をします。
すると、確かに言ってることは分かるんだけど、
そんなこと考えてたら誰も信じられない、
誰も愛せないじゃないですか。
仏法者は結婚 するにせよ恋愛結婚 ではいけない、
人生の墓場だと覚悟して結婚式をあげる。
こういうのが理想なんでしょ、と言ってくれるんですね。
潤いも明るさも希望もありませんね、って。

しかし、人間のまことの相というのは、
18願に出させていただいて、
無量の光明に照破されて知らされることです。
そこへ進んでいく19願では、精一杯まことの心にしようとするんです。

「まごころ込めて」という言葉あります。
仏法聞き誤ってる人は、まごごろなんてないんだ!
「まごころ抜きで」贈り物を、と言うんです。
無念無想で念仏称えるぞい!なんて。

「心こそ、心惑わす心なれ、心に心、心許すな」
「最大の敵は心であり、最強の味方も心である」
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」(法句経)
「いくたびも思い定めて変わるらん思うまじきはわが心かな」
「そのまま我が心に任せたならば地獄行き」
「心せよ心許せば身の破滅」

自分のことを楽な方へと導く心。
理由と絆創膏はどこへでもくっつく、自分を正当化しようとする心。
そういう心を責めよ、と言われています。

「至心発願」というのは、仏様の眼から見ればまことなんてのはないんだけど、
そのあなたの心をまことにする。
そうやって阿弥陀如来極楽浄土に生まれたい(欲生我国)
という願いを起こして、ということです。