浄土真宗を開かれた親鸞聖人の教えはニヒリズムを超えることができます。
なぜこの親鸞聖人の教えがニヒリズムを越えることができるのでしょうか?
それは歎異鈔にその鍵があります。
これは親鸞聖人の書かれたものではないが、
間違いなく親鸞聖人が仰有ったことだろうといわれています。
歎異鈔の後序に、
万のこと皆もって空事・たわごと、真実あること無し。
とあります。
ここで親鸞聖人は、
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界のことは、
万のことみなもって空事・たわごと・まことあることなし。
といわれています。
私たち人間は煩悩具足の凡夫。
私たちの生きている世界は火宅無常の世界。
ひさしに火がついていつ崩れるか分かりません。
私のうちにも外にもそらごとたわごと真実がありません。
まことあることなし。
これこそが真実だと言えるものは一つもありません。
例外なくみんな空事戯言だ。
こう仰有った親鸞聖人がその次に、
ただ念仏のみぞまことにておわします。
といわれています。
この念仏は阿弥陀仏の本願のことなんですね。
ただ阿弥陀仏の本願だけがまことだと。
このようにハッキリ断言できると言うことは、そしてそれ以外が全く
空言、戯言、真実ではないと言いきれると言うことは、
ハッキリと真実が分かった人でなければ言えないことです。
沢山の小判があります。
その小判が、100枚あるとしましょう。
ホンモノの小判がたった一つあります。
後の99枚は偽物。
これも偽物これも偽物とハッキリ言える人は
たった一つのホンモノ小判がこれだとハッキリ断言できる人でないと
これは偽物だとハッキリ言えません。
そうでしょ。
空事たわごと真実あることなし
だけで終わるとニーチェのニヒリズムになる。
生きる意味はない。
しかし、そうじゃない。
阿弥陀仏の本願だけがまこと。
真実がたった一つここにあるぞ
と断言しておられます。
親鸞聖人はハッキリ体験で知らされておられたから、
それ以外の何ものもまことじゃない。
こう言い切れるのです。
聖徳太子は「世間虚仮唯仏是真」と言われましたが、
これ一つだけが真実だとハッキリつかみ取った人でないと
こうは言えません。
阿弥陀仏の本願だけがまことなのです。