真諦門、俗諦門というのは、
真俗二諦の教えと言われます。
真諦門というのは、いつでもどこでも変わらない真実のことを言います。
時代によって、場所によって変えるものでない。
どの人種も、いつの世紀になっても、宇宙人であっても、
三世十方で変わらない真実を真諦門と言います。
死後に一大事があります、と教えられたのが仏教です。
これを言うといやがる人がいます。
だから言うのをやめましょう、ということではいけません。
そして、死んだらどうなるの一大事の解決は
阿弥陀仏のみによるのだから、
一向専念無量寿仏です。
これも曲げてはなりません。
阿弥陀仏 というと、抵抗を感じるんじゃないか、
ということで、世間の人で、
阿弥陀如来 のことを言わずに、「大宇宙のパワー」とか言っている人がいます。
そういうと、神か何かと勘違いします。
これも曲げてはなりません。
そして、断じておぼろげな体験ではなく、
一念で救われるハッキリ救われる教えです。
いつでもどこでも、時空を超越して変わらない教えです。
こういったものは、死守すべきものです。
国家権力から弾圧を受けても、仏法者が守って行かねばならない真実を言います。
それに対して、俗諦というのは、
三世十方を貫く教えをどのように伝えるのか、
ということを言います。
道徳も法律も憲法も違う、
時代や場所にマッチした方法で、真実を明らかにしていく。
変えていって良いもの、むしろ変えて行かねばならないものです。
日進月歩して変えて行かねばなりません。