仏教では心を重くみられます。
口や身の行いをどれだけよくしようとしても、
心が元ですから、元である心が最も重要なのです。
仏教では心の種まきを最も重視することを言われた
一つのエピソードがあります。
明治時代の禅宗の僧侶に原担山という人がありました。
この人がある時、もう一人の僧侶と旅をしていた時です。
ある川にさしかかると、たまたま一人の娘が立ち往生しているのをみたのです。
連日の雨で、水かさがましていて、とても飛び越えられないので、
担山は、
「どれどれ私が渡してあげよう」
と娘を抱いて、渡してやったのです。
ところが連れの僧侶は禅僧の身が女を抱くとはけしからんと思って、
ものも言わずにさっさと歩いていったのです。
そして夕暮れになったので、
担山が「どこかでとまる事にしよう」というと、
「女を抱いたような生臭坊主との同宿はごめんこうむる」
と言ったのです。
そうすると担山はカラカラと笑って、
「何だ、おまえはまだあの女を抱いていたのか。
私は川を渡した時にもう話してしまったよ」
と言いました。
その朗らかな答えに、もう一人の僧侶は
返す言葉がなかったということなのです。
これは原担山は川を渡った後はもう女の人のことは忘れていました。
体では抱いたのだけれども、心では抱いてはいなかったのです。
ところが連れの僧侶は、体では抱いてはいなかったけれど、
心では夕暮れまで抱き続けていたのですね。
心の種まきを重視するのが仏教です。