仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

人間は考える葦である

パスカルは人間は考える葦である、と言いました。
詳しくはこう言っています。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。

自然は不条理なものです。
いつのように襲いかかってきて、死んでしまうかわかりません。

そんな中で、考えてこそ人間という意味ですが、何を考えるのでしょうか。
それは、必ず死ぬのになんのために生きるのか
ということです。

なぜ生きるかを考えなくても、生きることはできます。
しかしもしなんのために生きるのか考えないのであれば、
あくまで、生物として生きているのであって、
考える葦としては生きていないのです。

細胞が集まって、
人間の形をしているだけです。
人間は万物の霊長と言われます。

なぜ、霊長と言われるのでしょうか。
それは人間だけが、自分の生きる意味を考える事ができるからです。
生きる意味を考える事は人間だけが持つすばらしい特権です。
その特権を放棄してただ、食べて寝て一生を送って、
どうして人間に生まれた意味があるでしょうか。

逆に生きる目的を持ち、達成したときには
我、生きるしるしここにあり、
人間によくぞ生まれたものよ、と凱歌を挙げることができます。
生きる目的を達成してこそ、
私は人間にしかできない、生き方ができたのだ、
人間に生まれて本当に良かった、と満足する事ができます。

だから、人間らしい人間とは、生きる意味を真面目に考える人です。
頭の善し悪しなんかでは、人の価値は決まりません。
もし記憶力のよさで価値が決まるのならば、
コンピュウーターは人間より偉い事になります。
生きる目的を真面目に見つめ、達成すれば、人間として生きた、
価値ある人生となります。
そこでこれは、人類始まって以来の壮大なテーマなのです。
昔から、心ある人ならば、誰でも考えずにおれない事なのは当然です。
そして、人類はこの答えを見つけてきたのです。

すでに仏教に答えが示されていて、
生きる意味はズバリ何か、
人類の大切な智慧として、受け継がれてきたのです。