人工信心は、頂いた後は、聞く気がなくなります。
信心決定するまでは、火の中かきわけても聞きたいとは思えません。
しかし信心決定したならば、火の中かきわけても聞きたくなるのです。
もっと聞きたい。
昔、三代市という妙好人が
姑に反対されながらも仏法を聞き抜きました。
それからも寺へ聞きに行こうとする三代市に
姑がこういう歌を歌いました。
危ぶみのないならないで 寺参りとぼとぼせずに 家で働け
それへの返歌がこれです。
危ぶみのなき身にして下されたご恩思えば家におられず
親鸞聖人が法然上人との別れを悲しまれたのは、
上人からもう聞かせて頂けないことを悲しまれているんです。
また、流刑から京都へ戻られる時のお言葉も、
また上人からお聞かせ頂けるのだ、と言われています。
聞かせていただけるのが嬉しい。
親鸞 聖人のお歌にもあります。
「♪帰洛の旅の身の軽さ」
小躍りされるお姿がわかります。
また上人にお会いできる、聞かせて頂ける。
救われた後、聞きたい聞きたいの気持ちをもっておられたのです。
信心決定したなら、阿弥陀如来の本願が初事初事と聞こえます。
余計に聞きたくなります。
余計に心をかけずにおれなくなります。