仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

私たちは常に悪を思っている?「常」とは

ブッダは私たちの姿をこう教えられています。

 心常念………心は常にを念い
 口常言………口は常にを言い
 身常行………身は常にを行い
 曽無一善………かつて一善もなし

ここで常という言葉、ここ注意して貰いたいですね。
これかつて仏教の講師が新潟県で話したときに、
ある仏教青年団長が手を挙げたんです。

「それはちょっと酷すぎるじゃありませんか」

これは余りにも酷いではないか、時々なら判りますが、常にとおっしゃる。
これは酷いではありませんか。

こう言ったと言いますが、これは信心決定するまではハッキリしません。

しかもこの常は、途切れる間のない常なんです。
途切れるつねは「恒」という漢字です
常は常でも連続した常です。
恒は途切れることがあるつねなんです。

機の深信がたって、本当の姿が知らされた己は、
心と口と体で、常に、ズーッと
心で悪いことを思い続け、
口で悪いことを言い続け、
体で悪いことを行い続ける。

これ『一念多念証文』におっしゃっています。
使い分けされていますね。

『恒』はつねにという、『願』はねがうというなり。
今『つねに』というは、絶えぬ心なり、をりに従うて時々もねがへというなり。
今『つねに』というは常の義にあらず、
常というは、つねなることひまなかれという意なり。
時として絶えず・処として隔てずきらわぬと常というなり。

この常の意味と恒の意味が違う。
この常というつねは、つねあること暇がない。
この常は時としても絶えません。
この常はところとしてもたえない時間も絶えない。
いつでもどこでもずっと続く常です。

それに対して恒星の恒、このつねは、おりに従って時々ですね、
途ぎれることがある、つねですね。
同じつねでも違う。
信心決定して知らされた、
おのれの姿はこの常です。

常にを思い、を言い、をやっている。
引き寄せの法則ではありませんが、
それは全部、悪業力として、つまりカルマとして
阿頼耶識におさめられ、未来に恐ろしい結果を引き起こすのだぞと、
こう私たちにブッダは教えておられます。