仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

浄土真宗で罪に大小がないのはなぜ?

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
罪に大きい小さいはないといわれています。

もとより罪体の凡夫大小を論ぜず、
三業みな罪にあらずということなし
口伝鈔に


これを私たちはどのように理解すればよいでしょうか。

これはちょうど人間には美しい人、醜い人あるとすれば、
レントゲンかける前は美人だとか、
肥っているとか痩せているとか問題になりますけど、
ひとたびレントゲンにかけてみたら、
どんな美人で、目が綺麗で鼻が高くてもみんな醜い骨の羅列。
醜い骸骨しか映っていないんですね。
あの骸骨みて、いや美人だね、といや、ハンサムだねと、
全然言えません。

みんな、あのどくろなんですよ、
鼻が高いも低いも、二重瞼も関係ないわね。
みんな骸骨なんですから。
それと同じなんです。

仏教を聞いて、絶対の幸福になった瞬間
知らされた自分はみんな同じなんです。

絶対の幸福の世界にでるまでは人に差があると思っているんですね。
ちょうどろうそくよりもランプが明るいじゃないか、
ランプよりも電気が明るいじゃないかと自慢しています。

私はあの人よりは善人だ、
あの人よりは私はマシだと思っているのは
自分の姿がまだ判っていないからです。

また真実に導くには、
当然罪に大きい小さいがあると
教えなければなりません。

これは私たちを決勝点まで導くための方便として説かれましたので。
ただ方便と言っても方便だからウソだというわけじゃないですよ。

これはほんとなんですよ。

方便というのは真実に導くために絶対必要なものを方便と言いますから、
このように教えられて、少しでも悪を作らないように、
廃悪修善、実行していかなければなりません。

実行していって、親鸞 聖人の仰有った、
もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、
三業みな罪でないものはない
という世界に出させていただけます。

だからこれはどっちも正しいです。
どっちもホントです。
ちょうど実際この電気はランプやろうそくよりも明るいですが、
しかし太陽が出たらみんな同じ
真っ暗と言っていいんです。

あの無間地獄でもそうですよ。
みんな八万劫年と言うけれどなんでやと。
二人殺しても八万劫年かと、一人殺しても八万劫年かと。

八万劫年プラス二年とかないんか。
八万劫年プラス一日とか。
どうなんやという人あるけれどね、
そんなこといってるんじゃないんだね。

正式に八万劫年プラス五年とか、そんなんありませんから。
実際は差はあると思うよ。
でも絶対のが知らされたら、
みんな八万劫と言っても良いんです。

この喩えで判ると思いますが、
あなたが普段気がついていない罪悪ですけどね。
気がつかないところで、どれだけ私たちはを作っているか分からない
ということですね。

そんな者が救われるのが浄土真宗です。