国木田独歩という文学者がいます。
熱心にキリスト教を信じていました。
ところが死が近づくにつれて、キリスト教で本当に救われるのかという疑いの心が日増しに大きくなってきました。
そして自分をキリスト教に導いてくれた植村正久に質問したところ、
祈りなさい、と言った。
素直に祈ってみたところ、祈る事はたやすい。
しかし祈る心が得難い。
祈ろうと思っても、祈る気持ちはでてえきようがない。
「祈らずとて助くる神なきや」
と言って死んでいきました。
自分が毎日入っている家でも、どこに何があるかあやふやになってしまう。
行った事もない天国なんてどうして信じられるのか。
しかも、キリスト教の場合、この世の終わりに最後の審判があって、天国に行けるのはそれからです。
まだ最後の審判がないので、キリスト教で天国に行った人は誰もいないのです。
ところが仏教では、信じてもだめです。
信じるというのは、疑いがまじっているからです。
仏教で本当の幸せは、ツユチリ程の疑いもなくなった、無疑の信心です。
人間に生まれてよかったという生命の大歓喜が起きます。
それは、死んでからではなく、生きているときに獲得できるのです。
これを『歎異抄』では「摂取不捨の利益」とか「無碍の一道」といわれています。