仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

哲学者・池田晶子さんの「死」は怖いものか?

子供でも死を目の前にすると問題になるのは、「死んだらどうなる」です。
こういうことは他にも考えた人がありました。
有名な哲学者の池田晶子さんです。
全部ではありませんが、仏教的な考え方をしている人です。

その中に「死は怖いものか」という題の話があります。
それがこちらです。

現代文明は、ほぼ唯物論の文明ですから、「公式見解」としては、多くの人は、
死後の世界を信じていません。
いや「信じる」というこの言い方が示す通り、そういうのは、信じるか信じないか、個人の宗教的信念の問題だと思っています。
そして、自分は宗教的信念を所有しないと表明する人は、では死後をどう思っているかというと、
「何もなくなる」と思っている。
「死後の世界」なんてものは「無い」、人は死ねば無になるのだと。
人間とは物質すなわち肉体だと見做すのが唯物論の基本ですから、肉体がなくなれば人間はなくなると考えるのは当然です。
しかし、「死ねばなくなる」派の人でも、そのことが正確に何を言っているのか、自分で理解していないことに気がついていないことが多い。
日常の会話や言い回しの端々に、じつはそうとは思っていないことが見てとれることが多い。
たとえば人は、「今度生まれ変わるとしたら」と、平気で言いますよね。
あるいは「死んだら母が守ってくれる」、もしくは「向こうでお会いしましょうね」等々、
死後の世界を想定しているのでなければあり得ない言い方を、人は大変よくします。
もし「死ねば何もなくなる」と本当に思っているのだったら、日常会話からその種の言い回しは
消滅しているはずではないのか。
「死ねばなくなる」と人が本当には思っていないことの何よりの証拠は、
死への恐怖を所有しているというまさにそのことです。
だって、死ねばなくなるのだったら、なぜ死ぬのが怖いんですか。
怖がる人がいないんだから、怖いということもないはずです。
なくなることが今怖いと言ってみても同じこと、それは今の恐怖であって、
死それ自体の恐怖ではないですよね。死それ自体が無なら、無いものをなぜ恐怖できるんですか。
だいいち、「無になる」というこの言表自体が変です。
「無になる」とはつまり、「無に成る」ですよね。
「成る」のだから、やっぱりそれは「無」ではなくて、「有」でしょう。
「無になる」という言表自体が、じつは不可能なものなのです。
 と、このように考えてくると、だんだん整理されてきます。
人は「無になる」ことを恐れているのではなくて、「わからない」ことを恐れているのです。
死んだらどうなるかわからない、本当はこのことが怖いのです。
この場合でも、わからないことはわからない、恐れるべきことなのかどうかわからないのだから
恐れようがないと言うことはできますが、とりあえずここでは、一般的に未知とは恐怖だ
ということにしておきましょう。
池田晶子『暮らしの哲学』「死」は怖いものか? 毎日新聞社 2007年)


核心をついた言葉です。
死んだらどうなるか分からないのが問題、哲学者でも見抜いています。
仏教では2600年前から教えられていますが、現代では哲学者も言っています。
人類はようやく、苦しみ悩みの根源は後生暗い心と気がつき始めています。


しかし現代では科学が唯物論である影響で
「自分は死んだ後はない」と思っている人が多くあります。
しかし若者は死んだ後はあると思っている人が多くなっています。

これはアニメなどの影響らしいです。
中年からご高齢のインテリが「死んだ後はない」と言います。
もう少し年配になると「極楽行きたいな」など言われます。
「今度生まれ変わるとしたら」と言います。
また「死んだ母に」とも言います。
東日本の震災で、子供を亡くしたお母さん
「何々ちゃんは天国で見守ってくれているかしら」
と平気で言います。

死んだら無になったのが寂しいんです、とは言いません。


亡くなった子どもはどこへ行ったの?


たいてい出てくるのは、「空や天国から見守っている」と言います。
千の風になって」が流行りました。

死んでも悲しまないで下さい、風になっているからと歌います。
死んで何かの形で近くにいるのではないかと思うのです。
池田晶子さんは、そのあたりを実に軽妙に指摘しています。
本当に無になったと思っているならありえない。

死んだら無になると思っていない証拠に、死への恐怖を所有している、といいます。
無になるなら恐れるはずがない、おっしゃる通りです。
恐れるものがないからです。

哲学的にすっきりしています。
「無になるから怖い」という考えも破っています。

最後の結論は
「人は無になることを恐れているのではなく、分からないことを恐れている」
まさに後生はっきりしないから苦しいのだ、と言い当てています。
池田晶子さんの本を読んでいると、仏教を学んでいると感じます。
実際、教行信証の言葉が出てくることもあります。

仏教に影響を受けた哲学者です。