今回は、突っ込んだ深い話です。
昔、国木田独歩という文学者は、キリスト教の信者でしたが、臨終になって牧師を呼ぶと、ただ神に祈りなさいとしか言いません。
真心で祈ろうとしましたが、死の不安はまったく解消しませんでした。
なぜかというと、本当に神がいて、助けてくれると心から信じられなかったからです。
普段は信じているつもりでしたが、最後に本当に命がかかってくると、信じられなかったのです。
信じようとすればするほど疑いが出てきます。
ドイツであった話ですが、圧搾機に入りませんかといわれた人があります。
科学技術で頭をつぶされることはないと言われても、その機械に入って本当に大丈夫かと思います。
命がかかってくるほど、疑いが出てきます。
国木田独歩のように臨終になると本当だろうかと疑いが出てきます。
こんなので救われるはずないとなります。
そして、信じなくても助ける神はいないのかと言って死んでいきました。
私達が何かを信じて幸せになるときは、信じる心と信じる対象があります。
不実な心というのは、無常ということで、続かないということです。
続かない心で続かない物を信じていても幸せになれません。
普通に仏教を聞くと、阿弥陀如来を信じて、死んだら極楽に連れていって頂こうと思います。
しかし、不実な心では信じられません。
そこで阿弥陀如来の作られた南無阿弥陀仏は、南無と阿弥陀仏に分けられます。
南無というのは信じる心です。
阿弥陀仏は助ける力です。
信じる心は本来私たちが起こさなければならないのですが、私たちには信じる心はないと見抜かれた阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏の名号の中に、信じる心をおさめて完成されたのです。
信じる心がないものに、信じる心を与えて救うという救いが阿弥陀如来の本願です。
信じる心を与えて救うという救いということです。
信じる心を用意して、それを与えて救う。
南無阿弥陀仏は、称えたら救われるのではなく、南無阿弥陀仏を頂いたら称えずにおれなくなります。ですから救われたお礼の念仏です。
学生が親元へ戻ってくるとき、親からもらった仕送りでお土産を買ってきます。
親は自分のお金が買ってきているのですが、それでも両親は喜びます。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏のお力で称えさせられているのですが、それでも阿弥陀如来は喜ばれるのです。