漢の時代の武帝という王様がいます。
武帝という王様は、
「歓楽尽きて哀情多し」と言っています。
漢の武帝で有名なのは、酒池肉林です。
酒をそこら中にもってきて、飲み放題にしました。
酒の池のようなものです。
うまいものそこら中にあります。
この肉というのは、一説には女性です。
綺麗な女性が沢山いました。
歓楽というのは、宴とかコンパとか飲み会です。
そういうのが終わって、非常に虚しい。
「哀」とは、かなしい。あわれ。
「情」は、感情、心。
コンパや文化祭、そういうものが終わって、むなしい。
こういう虚無感は、一体どこから来るのか。
私たち、楽しいと思うのはどういう時かというと、欲が満たされた時です。
食べたいものを食べる。音楽を聞く。
お酒を飲みたい、酒を飲む。
欲が満たされたのを楽しいと感ずる。
むなしさを感ずるのは、どういう時か。
何もやることがなく、欲が満たされない状態に感ずる人もあります。
やりたいことあるけど、やれてない状態です。
そういう時に感ずる人もあります。
しかし、やりたいことをやれた時です。
やりたいことを満たされている状態で感じている人もあります。
もし欲が満たされていないから感じているなら、満たされているなら感じないはずです。
欲が満たされているのに感じています。
そうすると、虚しさの原因は、欲の心ではありません。
じゃあ、一体、この心はどこから来るのか。
仏教では、この心は、心の闇から来ると言われます。
心の闇とは、暗い心ということです。
闇といのは、暗いということです。
暗いというのは、分からない、ハッキリしないということ。
何がハッキリしないのかというと、生きる目的が分からない。
生きる意味がわからない。
生きる意味が分からない。これが心の闇。
生きる意味が分からないとこから、虚しさが来ると仏教では教えられる。
私の人生ってこんなものなのかな。
このまま続いていって、それで終わってしまうのだろうか。
こんな毎日の繰り返しに、一体どんな意味があるというのだろう。
この根本は、生きる意味、目的がわからない。
ここに根元があります。