王舎城の悲劇という話がありますが、これは実話です。
お釈迦さまが生きておられた時、実際にあった話です。
『観無量寿経』というお経に説かれています。
韋提希夫人という女性は実在した人物なんですね。
あらすじとしては、韋提希夫人というお妃様が、自分のお腹を痛めて生んで、大事に育てた我が息子。
阿闍世という息子に裏切られて牢の中に閉じこめられて苦しむ。
母親が子供に裏切られることほど苦しいことはないですね。
お母さんにとって子供は自分の骨を溶かしてその栄養分をわが子に与えて育てた分身ですから、子供はもう母親にとっては命と言っていい。
その命に裏切られる。
自分の分身に裏切られる。
この苦しみはおそらく男性には理解しがたいかも知れない。
そういう意味でいいますと韋提希夫人の苦しみというのは、大きなものがあったと思います。
でも世の中に、自分の信じているものに裏切られて苦しんでいる人はたくさんある。
韋提希だけじゃない。
ところがその韋提希夫人が、絶対の幸福に救われた。
この絶対の幸福のことを摂取不捨の利益ともいう。
摂取不捨の利益というのは、おさめとって決して捨てられない幸せ。
この王舎城の悲劇について、詳しいことはこちらにも出ています。
どうして摂取不捨の利益になれたのか。
決して捨てられることのない、二度と裏切られることのない幸せにどうして韋提希がなれたのか。
ここなんですね。
この最も大きな縁になったのが、釈尊に会えたということなんです。
お釈迦さま。
もしお釈迦さまに会えなければこの話は単なる悲劇に終わる。
子供のために苦しむ母親、今日でもよくあります。
牢に閉じこめられることはなくても、何の会話もないとか、食事も食い散らかすだけで有り難うもなにもない。
そういう姿はお母さんにはショックですね。
ましていわんや年老いてから、子供に養老院に放り込まれるとか、また家にいても座敷牢のようなところに放り込まれて話しもしない、というのはお母さんは悲しいですよ。
そんな中でどうして韋提希夫人が摂取不捨の利益になれたのか、お釈迦さまが非常によい縁になったんです。
だからこの悲劇は、悲劇ではなくハッピーエンドになった。
多くの人々が苦しみながら結局仏法にあえずに裏切られたまま苦しむ。
それではどんなに苦しんでも報われない。
苦しんで苦しんで苦しんで、最後の最後でも良い、その苦しみが報われてこそ、生まれてきて良かったと言えるので。
信じては裏切られ、愛しては裏切られ、最後の最後も裏切られて死んでいく。
流した涙も報われない。
やった努力も報われない、最後涙ながらに死んでいくならこんな人生生まれなければ良かった、こんな子供生まなければ良かったとなってしまいます。
もう、残酷な裏切りに傷つけられたくはない。
命としていた子供のために裏切られて苦しむ。
最も辛いのはわが子の逆恩ですよね。
裏切られぬ幸せのほかに、全生命を投入して悔いなしといえるものが、あるでしょうか。
一切の滅びる中に、滅びざる幸福こそ、私たちすべての願いであり人生の目的なのです。
摂め取って捨てられない、摂取不捨の利益こそが生きる目的なんですね。
裏切られて苦しむために生まれてきたのではないんです。
生きている間楽しくても死によって全部裏切られるなら結局生きる目的はなかったということになります。
生きている間に死が来ても裏切られない幸せを得る。
これが生きる目的です。
それを始めて体験した人が、この韋提希という人なんですね。
この時お釈迦さまが『法華経』の説法をされていたんです。
この『法華経』というのは非常に重要なお経なんですね。
詳しい内容はこちらに出ています。
聞きに来た人たちは、今日はとても重要なお話じゃそうじゃよ、
今日の話を聞かなければ仏法聞いたことにならんそうじゃよ、といっていた。
沢山の人が聞いてる。
そこに韋提希夫人の心の叫びが釈尊の心に届いたんですね。
その時釈尊は法華経の説法を中断されて、大衆を待たせて阿弥陀仏の本願を説きに行かれた。
私たちも人生に於て色々な場合に二者択一を迫られる場合があります。
二つの内どっちを取ろうかと。
両方大事だけれどもどっちを選択しようか。
この時に大事なのは、どちらも大事ではあるけれども、この私の出世の本懐は何か。
この場合は、お釈迦さまがこの世に生まれ出た目的は何か。
『法華経』も大事。
しかしこれはいまだ出世の本懐ではない。
私がこの世に生まれてきたのは、出世の本懐は、弥陀の誓願、摂取不捨の
利益を説くことだ
二者択一を迫られたとき大事なことは自分の生きる目的は何か。
人生が、
2回も3回もあり、『あ、失敗したまたやり直そう。
』
人生が何回でもやり直せるなら良いけれど、一回きりしかない人生でどっ
ちかひとつを選ぶというときは、オレが生まれてきた目的は一体何か。
それにより近づく道を選ぶ。
これが大事です。
これは一体なんだと。
それが選ぶ大きな規準です。
この時釈尊はまさにそうされたんですね。
『法華経』は大事なお経ですが、オレが生まれてきたのは弥陀の誓願を説くためだ。
弥陀の誓願を明らかにするためだ。
そして人々はみんなそれを求めているのだ。
韋提希夫人一人のためにお釈迦さまは、王宮に降臨された。
それともう一つは、仏の慈悲は平等であっても苦しむものに偏に重し。
仏様の慈悲は平等ですが苦しんでいる人をまず救わなくちゃいけない。
たとえば川縁で子供が遊んでいる。
ここ土手。
橋が架かっている。
この辺で遊んでいる。
土手に寝転がっている子供。
橋の欄干で綱渡りをしている子供、危ないな今に上流から水が流れてきたら大変だと見ていたら、流されて濁流に溺れている子供が流れてきた。
苦しんでいる。
その時にまず真っ先に助けなくてはならないのはどの子?
溺れている子です。
橋の欄干で遊んでいる子供も危ない、土手で寝そべっている子供も危ない、しかし真っ先に助けなくてはならないのはこの子だ。
平等にみんなに幸せになってもらいたい、それが慈悲の心ですが苦しんでいる人に重くかかるんです。
だから多くの人を後回しにされても苦しんでいる韋提希のために王宮にいかれた。
これが平等な慈悲なんです。
ある事件で2、3人の子供が傷つけられ、大人も2、3人怪我をした。
誰から助けるか。
急がなければならないのは傷が深い子供
みんなの命が平等ですが、危険な傷の子供を助けないといけない。
そういうとき簡単な傷の子供をまず治療するか。
出血の酷い、致命傷を受けた、そういう子供を助けないといけない。
難しいなんていっておれない。
そういう色々なことを教えて下さっているところですね。
岸上にたわむれる子供よりも、濁流におぼれる者の救済が急務。
仏の慈悲のあらわれであろう。
同時に、イダイケ夫人に説かれた弥陀の誓願こそ、釈尊出世の本懐の中の本懐であることを、姿にかけて示されたといえるであろう。
これは私たちの人生でも非常に多くのことを教えてくれることです。
この話というのは色々なことを私たちに教えてくれます。
この場面で大切なのは、二者択一ということと、平等の慈悲とはどう言うことか。
それと重要なことは、わざわざ法華経を中断されてまで、自分一人のために牢屋に来て下された。
韋提希という女性一人のためにわざわざ来られたのですから、普通はね、ようこそお越し下さいました有り難うございますと感謝の言葉の一つくらいあってもよさそうなものだ。
ところが、この韋提希というどすめろというと失礼ですけど。
感謝どころかありったけに愚痴をぶつけている。
『お釈迦さま私は何て不幸な女でしょう。
なんで阿闍世みたいな子供を持た
なければならなかったのでしょう』
初めは阿闍世に向いた。
しばらく阿闍世を非難した次に、『だけども本当は阿闍世は悪い子ではないんです』自分の子だから。
『阿闍世はいい子ですが、阿闍世をそそのかした者がいるんです』
『提婆達多。こいつが私の息子をそそのかしたんです。
だから酷い目にあっているんです。
だけど提婆がなぜそもそも阿闍世をそそのかしたのか、お釈迦さま、あなたがあまりにもえらいから提婆がねたんでしでかしたのでしょう』
『お釈迦さまが悪い』
これ超論理。
聞くにたえない話ですが、お釈迦さまそれを黙って聞いておられた。
それはただ聞いておられたのではなくて、無言の説法をしておられたんですね。
その時の釈尊は半眼の眼をしておられた。
半分目をつむったような。
全部閉じてしまったら寝ているということですから。
半分、薄く眼を開けておられた。
形あるものを見るときはシッカリと見開いて見なければならない。
しかしお釈迦さまはこの時心を見ておられた。
相手の心を見るときは半眼の眼なんですね。
今みたいな時は半眼の眼ではなく、ちゃんと目を見開いて聞く。
この時釈尊は心を探っておられた。
そして韋提希が精も根も尽き果て、ありったけぶつけた後お釈迦さまの話を聞きたいとようやくなった。
それを待っておられたんですね。
自分から手を突いて聞かせていただきたいという気持ちが大事なんです。
がーっと心がかきみだれて聞く気がないときは何を聞いても入らない。
全部跳ね返してしまう。
だから韋提希夫人が愚痴をこぼしているときは一言もいわれなかった。
ようやく愚痴をいいつくして、何とか一言でも話を聞かせてもらいたいといった。
これは言い尽くしたというよりも投げたボールが全部返ってきてよりいっそう自分にあつくくわえられてきた。
これはどう言うことかというと、人の愚痴話をうんうんと聞くことも大事ですが、その人の苦しみが一体どこから来るのか。
例えば私たちいろいろの苦しみが人生にある。
借金、病気、恋人に振られたとか、色々苦しむ。
そういう目に見えるものをひとつひとつ解決するには、そうだねそうだね、辛いねと聞いてあげるのが大事。
しかし釈尊はそうはされなかった。
一言も声をかけられなかったということは韋提希の苦しみがより本質的なところへ向いた。
この苦しみの花が咲くのはどうしてなのか。
枝を通って花が咲く。
枝は幹から来る。
根っこから来る。
苦しみの養分は根っこから吸い上げられている。
これを苦悩の根元というんです。
根っこである元、お釈迦さまはこの時韋提希の苦悩の根元から断ち切ろうとされている。
だからひとつひとつの苦しみにあえて頷かれなかったんです。
それは一時期苦しみの解決にはなるが、ここから助ける。
それには頷いてはいかんと判断されてじっと無言でおられた。
だから韋提希は圧がかかって苦しみがどんどん深くなった。
その苦しみの根っこを断つのが弥陀の誓願ですから。
ここを断たないとここにならないのですから。
韋提希のいうことにそうだねそうだねと頷いたら、このたった一つの苦しみを抜くことしかできない。
韋提希の苦しみがますます深くなって精も根も尽き果てて本当の幸せになりたいという思いがおきたんですね。
弥陀の浄土に生まれたい、というのはそういうことです。
それが釈尊の出世の本懐、目的だったのだから、そこで釈尊は韋提希お前はよくぞいってくれたと会心の笑みを洩らされるんです。
これを説きたいのがお釈迦さまの出世本懐。
だからこういう幸せになりたいという気持ちを韋提希に起こさせなければならない。
そのとおりドンピシャの言葉を言ったから、会心の笑みを洩らされた。
その為の無言の説法だから。
一時期の幸せを与えるためではない。
そしてようやく精も根も尽き果てた韋提希夫人に対して始めて釈尊が口を開かれる。
そして説かれたのが『観無量寿経』の説法
観無量寿経の内容については、こちらに出ています。
この苦悩の根元は、観念の遊戯では断ち切れない。
実は私たちは骨の髄からうぬぼれている。
とことんうぬぼれている。
うぬぼれていると言うことは自分に惚れているということ。
うぬに惚れている。
惚れて眺めりゃあばたもえくぼ。
お前なんであんなこがいいんだ、あばたばかりだ、いやあれはえくぼだ。
惚れて眺めりゃそうみえる。
まして況や私たちは自分に惚れている。
だからよく仏法の勉強、自分で勉強するという人があるが、とんでもない。
間違った方向へ進む。
うぬぼれたまま進んで正しく進めるわけがない。
釈尊、善知識はそういう私たちに何を勧められるか。
善を勧められる。
なぜなら苦悩の根元は観念では断ち切れないからです。
実践して学ぶ。
行学といいます。
じゃあやってみると何が知らされるか、
一生懸命まじめにしようとすると何が知らされるか。
善のできない自分が知らされる。
当然苦しみます。
その苦しみは産みの苦しみといって無駄な苦しみではない。
本当の幸せに生まれるためにどうしても避けて通れない苦しみなんで
す。
お釈迦さまが私たちに善いことを薦められるのは善いことができるからやりなさいではなくて、やってみなさい何が知らされますか。
まことの善ができますか。
できないでしょう。
やろうとすればするほどできずに苦しむんです。
それを見て喜ばれた。
弥陀の誓願はそんな苦悩の人が正客だからです。
一生懸命真面目に善をやろうとして苦しんでいる人がお目当て。
正客というのは一番のお客さん。
今日の一番の正客はこの人となれば、その人の好物を食卓に並べる。
苦悩の人が正客。
だから弥陀の誓願を除苦悩法という。
その苦悩を除く法なんですね。
ガンを治す特効薬ができましたよといって喜ぶのはガンで苦しんでいる人。
「ほんとですか、是非とも飲ませて下さい」という気持ちになる。
ところが、そんなのいらないよという人はオレはガンじゃないと思っている人。
オレは健康だ、飲まなくてもいいと思っている間は特効薬の有り難さが分からない。
ところが自分がガンだ、これを治さなければならないと悶えている人にはそれ程の朗報はないんですね。
弥陀の誓願が自分にピタッと来るのは自分が苦しんでいない。
別に信じたものに裏切られてショックを受ける事なんてないんじゃないの、というひとは本当に信じたことも裏切られたこともない。
フラフラ生きているだけ。
人を愛する怖さも知らない。
本当に心の底から人を愛した人は裏切られたくないと思うし、裏切られると大変なショックを受ける。
そういう経験が一度もないということは、惚れた経験も失った経験もない。
人生が全然分かっていないんだ。
惚れた経験も大事に思った経験も失った経験もない。
全然人生を真面目にいきていない。
幸せになりたいから裏切られて悲しむんだ。
今度は裏切られない幸福になりたい。
でなければ生まれてきた意味がないじゃないか。
それでイダイケは苦しんだんです。
そこで釈尊の除苦悩法が届くんです。
それ次読んでみましょう。
この除苦悩法のこの苦悩というのは苦悩の根元のこと。
苦しみの根っこを除く。
その除苦悩法にあったときが、摂取不捨の利益になったとき裏切られない幸せにここでなれる。
一瞬でなれる。
これを、ある人がね、
こんな歌でよんでいますが。
●かんしゃくのくの字を捨ててただ感謝
ウラミと呪いの人生とは腹を立ててかんしゃくばかり起こしている。
アイツが悪いこいつが悪い。
私がこんなに苦しいのは阿闍世が悪い、提婆が悪い、お釈迦さまが悪い、政治が悪い、社会が悪い、色んな事おもうわけ。
しかし色んな事呪っても人生明るくなりません。
かんしゃくのくの字を捨ててただ感謝
人生の苦しみが除かれる、苦悩の根元、心の闇がのぞかれて懺悔と感謝の日々になる。
くの字が抜けるのがここです。
ただ懺悔と感謝の身になったと。
世の中というのはね、生きていると色んな事ありますよね。
先ほどちょっと強い口調でいったけれどみんな余り裏切られた経験がないのかも知れない。
人生楽しいんじゃないのと思う人があるのも無理はない。
だけど残念ながらそうじゃない。
辛いとき、苦しいときに始めて人生に目が覚めるんです。
その人生に於てもう2度と裏切られたくないとそうなってはじめて仏法って素晴らしいな、聞かなくちゃいけないなとなるんです。
裏切られて苦しんでいる人がちまたに溢れている。
イダイケのように。
しかしイダイケが幸せであったのは、釈尊に御縁があったから。
これを仏縁といいます。
もちろんお釈迦さまに救われたのではないですが、釈尊にあって教えを受けた。
じゃあお釈迦さまもうおられないではないか。
今日は善知識がおられます。
この善知識の教えにあって、弥陀の誓願に救われるのですから。
これがなくなることはありえない。
三世十方を貫くんです。
いつでもどこでも変わらない。
心の闇を破る光明なんです。
そこをとおるためにどうしても必要なのが産みの苦しみ。
そういうことを知ってもらいたいと思います。