仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

観無量寿経に込められた仏の御心

今から約1300年前、中国・唐の時代は
仏教研究がもっとも盛んに行われた時代の一つでした。

当時、『観無量寿経』の解説書は、すでに複数の高名な学僧によって著されていました。
けれども、そのいずれもが、頭でっかちな学問のための解釈にすぎないとして退け
まったく新しい解釈を打ち立てた僧侶がありました。
それが善導大師です。

『観無量寿経』というお経には、当時としては衝撃的な内容が説かれていました。
厳しい修行を積んだ男性だけが救われるとされていた時代に、
罪深い境遇にあった一人の女性、韋提希夫人が救われる、という筋書きが
描かれていたのです。

なぜ、そのような人物が救われることができたのか。
善導大師は、この問いに正面から向き合い、それまで誰も示したことのない解釈によって
『観無量寿経』の本当の意味を明らかにしました。

その解釈は、夜ごとにの導きを受けながら書き進められたと伝えられ、
善導大師ご自身が「この解釈は一字一句として付け加えたり削ったりしてはならない」と
記されたと伝えられるほど、確信に満ちたものでした。

このことから、親鸞聖人は『正信偈』に
「善導独明仏正意」と讃えられています。
これは、数多くの僧侶の中で、善導大師ただ一人が
仏の正しい御心に明らかだった、という意味です。

親鸞聖人は、七人の高僧について讃える和讃を残しておられますが、
その中でも善導大師について詠まれた和讃は数多く、
その最初の一首にはこうあります。

「大心海より化してこそ善導和尚とおわしけれ、
 末代濁世のためにとて十方諸仏に証をこう」

「大心海」とは、阿弥陀仏極楽浄土、あるいは阿弥陀仏そのものを指す言葉です。
善導大師は、その大心海から姿を現された方、
つまり阿弥陀仏の化身であるとまで讃えられているのです。

また、親鸞聖人が終生尊敬された法然上人もまた
「自分が救われたのは、ひとえに善導大師のおかげである」
と述べられたと伝えられています。
これを「偏依善導」といいます。

法然上人は、善導大師の著された『観無量寿経』の解説書、
『観無量寿経疏』の一節を読まれている時に、信心決定されたと伝えられています。
このように、法脈という観点からも、歴史的な位置づけからも
善導大師は浄土の教えにおいて、極めて重要な位置を占める方です。

その善導大師が『観経疏』の中で、このように教えられています。

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」

これは、外には賢く善良で、精進しているような姿を示しなさい、
そして内側には、偽りの心を抱いてはならない、という意味です。

ここでいう「外」とは、身体で行うことと、口で話すことを指します。
「内」とは、心の中で思うことです。
口や身体の行いは外から見て分かるものですが、
心の中は他人からは見えません。

善導大師は、外に現れる行いや言葉を立派なものにしなさい、
そして同時に、心の中も偽りのないものにしなさい、と教えられたのです。
外だけを立派に見せかけて、心の中では舌を出しているような態度、
これを「虚仮」といいます。
外見だけでなく、誰も見ていないところでの心のあり方も大切にしなさい
というのが、善導大師がここで教えられたことです。

ところが、親鸞聖人はこの言葉を、『教行信証』や『愚禿鈔』の中で
まったく異なる形に読み替えられました。

「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」

善導大師の元の言葉は、「外に立派な姿を現しなさい」という勧めでした。
ところが親鸞聖人は
「外に賢く立派な姿を現してはならない、なぜなら内は偽りだらけだからだ」
というように、まったく逆の意味に読み替えられたのです。

これは、表面的な意味からすれば、180度の転換です。
「外面を立派に整えることをやめなさい」と読めてしまうため、
注意して受け止めなければ、大きな聞き間違いを引き起こしかねない言葉です。

実際、この言葉を「外見を整えたり努力することは大切ではない」という意味だと
誤解してしまう人は少なくありません。

この読み替えの鍵を握るのが、次の和讃です。

「悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆえに
 虚仮の行とぞなづけたる」

これは「死ぬまでの止まない親鸞である」と
ご自身のことを深く悲しみ、嘆かれた和讃です。
どれほど口や身体で立派なことを行っていても、心の中は煩悩に染まりきっていて
ヘビやサソリのようにおぞましい思いしか抱いていない。
そのため、自分の行うもまた、毒の混じったものにすぎず、
それは「虚仮の行」と呼ぶべきものだ、と言われているのです。

『教行信証』信巻には、これとよく似たお言葉があります。

「一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。
 急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、衆て『雑毒・雑修の善』と名け、
 また『虚仮・諂偽の行』と名く。 『真実の業』と名けざるなり。
 この虚仮・雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり」

人間は、心と口と身体という3つによって行いを重ねています。
その中でも、心こそがすべての火元です。
親鸞聖人は、ご自身の心が煩悩によって深く汚染されていることを
このように厳しく見つめられました。
心がヘビやサソリのように、あさましい怒り愚痴の心に満ちている以上、
口や身体でどれほど立派に振る舞っても、その行いの根っこは汚れたままである
というのです。

それにもかかわらず、あの人は立派だ、頑張っていると人から思われたいがために
表面だけを取り繕う、これが「虚仮の善」「雑毒の善」と呼ばれるものです。

では、善導大師の教えと、親鸞聖人の読み替えとは
まったく異なるものだったのでしょうか?

そうではありません。
善導大師が『観経疏』に説かれたことは、口や身体だけでなく、
心の中も立派にしなさいという、善への大切な勧めでした。
その教えにしたがって、外面を整え、実践を重ねていく道を
教学的には「要門」といいます。

その道を歩み進んでいく中で、阿弥陀仏の光明によって照らし抜かれた時、
自分の心の奥底が、口や身体でどれほど取り繕っても隠しきれない
偽りだらけのものであったことが、ハッキリと知らされます。

親鸞聖人は、この「聞くと同時に信心が定まる」という一念において
ご自身の心の実相を知らされました。
そして、そのような雑毒の善しか行えない自分自身を
阿弥陀仏の本願によってそのまま救おうとしてくださっていたのだと分かられたのです。

善導大師が「外に賢善精進の相を現じなさい」と説かれたのは
まさにここへと導くための、大切な教えだったのだと
親鸞聖人は受け止められました。

だからこそ親鸞聖人は、善導大師のお言葉を
ご自身の心の実相を言い当てる言葉として、あえて読み替えずにはいられなかったのです。 「あなたは外を立派に整えなさいと教えてくださったが、
 私の内側は、どこまでいっても虚仮でしかありませんでした」という
深い懺悔の心をこめた読み替えだったといえます。

ここで注意しなければならないのは、この読み替えを
「外見や努力はどうでもよい」という意味に受け取ってしまうことです。
それは、大きな聞き間違いです。

善導大師が説かれた「外に賢善精進の相を現じなさい」という善への勧めそのものは
決して否定されているわけではありません。
むしろ、その勧めにしたがって外面を整え、実践を積み重ねていく歩みがあったからこそ
最終的に自分の心の内側の実相を知らされる、という道筋が開かれているのです。
外面を整える努力を怠ってよい、という話では決してありません。

大切なのは、外面をどれほど整えても、それだけで
心の内側まで清らかになるわけではない、という現実を見つめることです。
そしてそのような、外面と内面の間に大きな隔たりを抱えたままの私たちを
そのまま救うというのが、阿弥陀仏の本願だと教えられているのです。

『観無量寿経』に説かれた教え、そして善導大師が明らかにされたその教えは
外に立派な行いを現し、内にも偽りのない心を持ちなさい、という善への勧めでした。
親鸞聖人は、その教えにしたがって歩みを進める中で
自分の心の奥底に潜む偽りを知らされ、その気づきを通して
阿弥陀仏の本願の深さを知らされました。

外面を整えることを軽んじるのではなく、同時に
心の内側にある偽りからも目をそらさないこと。
そして、その両方を抱えたままの自分自身を、ありのままに見つめること。
それこそが、『観無量寿経』と、その教えを明らかにされた善導大師、
そしてその教えを深く受け止められた親鸞聖人が
私たちに示されている道ではないでしょうか。

死苦から目をそらさない生き方

「なぜ生きる」という問いには、大きく分けて2つの角度があります。
1つは、苦しくても自殺してはならないのはなぜか、という問い、
もう1つは、臓器移植をしてまで生きるのはなぜか、という問いです。

生きるのが楽しいと感じている人は、この問いをあまり考えないでしょう。
「なんのために生きるの?」と聞かれて
「楽しいから」と答えられるなら、それも1つの回答です。

けれども、この回答が本当に迫られるのは、苦しい時です。
何かがうまくいっている時に、人は「なんのために生きるのか」を
真剣には考えません。
苦しくなった時にはじめて、真剣に考える必要が出てくるのです。
これこそが、「苦しくても生きていかなければならないのはなぜか」という
問いの正体です。

「なぜ生きる」ということは、多くの人がこれまで一度も真剣に考えたことのない
問いかもしれません。
だからこそ、これは私たちにとって大きな盲点になっています。

生きるためには、まず衣食住が必要です。
衣食住を確保して、生活を安定させるには、お金が要ります。
お金は天から降ってくるものではないので、働かなければなりません。

きちんと働くためには、学業を修め、単位を取得する必要もあります。
単位を取るために、レポートに追われ、徹夜を重ねる日々を過ごす人もあると思います。
そのために必要なのは、周囲の助けであり、人間関係です。

ですが、この人間関係もまた簡単ではありません。
「どうして自分は人間関係がうまくいかないのか」
と悩んだ経験のある人も少なくないでしょう。

こうしたことを何とかこなそうと、私たちは日々必死になっています。
「どうしたら、うまくいくだろう」と考え続けている
その「どうしたら」というのが「どう生きるか」です。

私たちが1日中、ため息をついたり、「やった」と喜んだりしているのは
大抵こうした「どう生きるか」に関わることばかりです。

では、こうしたものを手に入れて生きていかなければならないのは
そもそも何のためでしょうか。
これが「なぜ生きる」ということです。

生きることを大前提として、その先のことばかり考えて
そもそも「なぜ生きるのか」を考えない。
これは、歩くことを大前提にして、どうすれば快適に歩けるかばかりを考え、
なんのために歩くのかを考えないことと同じです。
そう考えると、何だかおかしな話であることが分かります。

この「なぜ」という問いに対する答えを持たないまま
生きている人が多いのが現状です。

どんな行動にも、目的が必ずあります。
タクシーに乗った時、どんなに無口な人でも、行く先は伝えるはずです。
目的地が分からないと、運転手はどこに向かって走ればいいか分かりません。
むやみに車を走らせれば、時間もお金もムダになってしまいます。

「なぜ勉強しているの?」と聞かれれば
「明日、試験があるから」とか「資格を取るため」と答えるでしょう。
「どこへ行くの?」と聞かれれば、「買い物」とか「気分転換に散歩」
などと答えるでしょう。

このように、私たちのあらゆる行動には目的があります。

では、「なんのために生きるの?」と聞かれたら、何と答えればいいのでしょうか。
生きることを歩くことにたとえると、歩くために歩くのでは、意味が分かりません。
ただの右足と左足の交差運動になってしまいます。

「どう生きるか」の「どう」というのは、手段を問う言葉です。
それに対して「なぜ」というのは、目的を問う言葉です。
この2つは、まったく異なるものです。

物事には、まず目的があって、それから手段が出てきます。
どんな走り方をすれば勝てるのかという呼吸法やシューズを研究工夫する前に、
そもそもなぜ走るのかが分かっていなければ意味がありません。

短距離走の走り方とマラソンの走り方はまったく異なります。
マラソンなのに短距離走の走り方をしたら、残念な結果になってしまうでしょう。
どんな手段も目的によって決まるのです。

「なぜ生きる」というのは、この目的にあたります。
目的が決まってはじめて、それを達成する手段が決まってきます。

ところが生きることに関しては、この肝心の目的が分からないままになっているのです。

手段の軽重は、目的の軽重によって決まります。
遅刻しそうになった時、それでも行くかどうか迷うのは
これから行く場所がどれほど大切かによって変わってきます。
目的によって、手段の優劣が決まります。

このことから言えば、「人命は地球より重い」といわれる理由が
本当の意味で分かってくるのではないでしょうか。

では、生きるとは、どういうことなのでしょうか?
仏教では、生きることをしばしば旅にたとえられます。

一休さんのこのような歌があります。

「門松は 冥土の旅の 一里塚
   めでたくもあり めでたくもなし」

「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
   嬶としぼんで 婆と散りゆく」

仏教は、否定できない事実を、ありのままに示します。
人間にとって、死ぬほどつらいことはありません。
そして私たちは今この瞬間も、死に向かって一日一日進んでいます。
それは、破滅に向かっての道であるとも言われます。

仏教では、人生で避けられない苦しみを「四苦八苦」と教えられます。
生苦老苦病苦死苦という四つの苦しみに、
さらに愛別離苦怨憎会苦求不得苦五陰盛苦の四つの苦しみを加えたのが四苦八苦です。

この中でも、「死苦」という死ぬ苦しみは、最も重いものとされています。
私たちは、なるべく死を意識しないように
日々の生活の中でそこから目をそらして生きています。
けれども、老いや病気を経て、必ず死という現実に直面する時が訪れます。

この自分の死から目をそらし続けている限り、
「なぜ生きるのか」という問いに、本当の意味で向き合うことはできません。
どれほど「どう生きるか」という生き方に工夫を重ねても
目的地が分からないままタクシーに乗り続けるようなものです。

私たちは日々、衣食住のため、学業のため、人間関係のために
必死に「どう生きるか」を考えています。
けれども、その根底にある「なぜ生きるか」という目的を
多くの人が問わないままで過ごしています。

生きることは、死に向かう旅であるという事実から
私たちは目をそらすことはできません。
さらに、四苦八苦の中でも最も重い死苦こそ、正面から向き合うことが必要です。

苦しくても生きなければならない理由、そして死に向かう人生を生きる意味
それを明らかにすることが、よりよい人生への道ではないでしょうか。

「後悔先に立たず」にならないために人生で最も優先すべきこと

日本最大の仏教の宗派浄土真宗の開祖は親鸞聖人ですが、
その親鸞聖人の教えを多くの人に広めた中興の祖と言われるのが
本願寺の蓮如上人という方です。

蓮如上人は全国の御門徒の方に沢山のお手紙を書かれており、
それをまとめたものが『御文章』と言われるものです。

蓮如上人は、その『御文章』1帖目第6通、「睡眠」と題された一節の中で
次のように言われています。

この分にては、往生つかまつり候とも、今は子細なく候べきに、
 それにつけても面々の心中も、ことのほか油断どもにてこそは候え。
 命のあらん限りは、我らは今の如くにてあるべく候。
 よろずにつけて、皆々の心中こそ不足に存じ候え。
 明日も知らぬ命にてこそ候に、何事を申すも命終わり候わば、
 いたずらごとにてあるべく候。
 命のうちに不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。
 御心得あるべく候」(御文章)

これは、命のあるうちに、心の闇を早く晴らしておかなければ、
必ず臨終に後悔することになる、そのことをよく心得ておきなさい
という教えです。

明日をも知れない命でありながら、人は皆
命のある限り今のままでよいと思い込んでしまいます。
だからこそ蓮如上人は、その心のありようを、危ないものと見ておられたのです。

この教えを分かりやすく伝える歌に
「井戸のぞく 子を呼ぶ親は 命がけ」
というものがあります。

井戸の周りで、子どもが楽しそうに遊んでいます。
子どもは、井戸というものは一度落ちたら二度と戻れない
そんな恐ろしい場所だとは知りません。

けれども親は、その危険な点をよく知っているので
もし子どもが井戸の中をのぞいていたら、
「危ないよ、取り返しのつかないことになるよ」と
命がけで子どもを呼びます。

ところが子どもの方は、親に呼ばれても話半分にしか受け止めません。
たとえ危ないことがあったとしても、きっとお父さんやお母さんが助けてくれるだろうと
高をくくっているのです。

ですが、井戸に落ちる前なら助けることができても
落ちてしまってからでは、助けることができません。
だからこそ親は必死に「危ないぞ」と呼びかけ続けるのです。

この井戸にたとえられているのが、後生の一大事です。
そして落ちるということは、非常に長い間、苦しみ続けなければならない世界へと
突っ込んでいくことを意味しています。

この後生の一大事に比べれば、この世で起こるどんな出来事も
すべて小さなことに過ぎません。
約束を忘れたとか、財布を落としたとか、仕事でミスをしたとか。
こうした出来事は、確かにその時は一大事のように感じられますが、
時間をかければ、いずれ取り返しがつくものです。

けれども、後生の一大事だけは取り返しがつきません。
どれだけ泣き叫んでも、後悔しても、もう手遅れなのです。

それにもかかわらず私たちは
取り返しのつくことを取り返しがつかないと思い込んで大騒ぎをし、
逆に、本当に取り返しのつかないことを、何とかなると思って後回しにしてしまいます。
急がなければならないことを後回しにして、後からでも何とかなることばかりを
必死に追い求めてしまうのです。

このことについて『大無量寿経』というお経には、次のように説かれています。

「世人薄俗にして、共に不急の事を諍う」(大無量寿経)

これは、世の中の人々は、目先のことばかりに心を奪われ、
急がなくてもいいことを、まるで急ぐべきことのように争っているという意味です。

本当に急いで向き合わなければならない人生の一大事には目を向けず、
それほど重要でないことに時間や労力を注いでしまう。
これが、人間の偽らざる姿だと説かれているのです。

人生の終わりを迎える時、人は初めて、自分がいかにムダなことに
時間を費やしてきたかに気づかされると言われます。
それは、死んでいく時には、どれほど大切にしてきたものであっても
何一つ持っていくことができないからです。

それにもかかわらず、その終わりを迎える瞬間まで
多くの人はそのことに気づかずに過ごしてしまいます。

ロシアの作家チェーホフは、このような人間の姿を
「いまいましい罠」という言葉で表しました。
本当は人生の終幕に、取り返しのつかない苦しみへと
突き進んでいるにもかかわらず、そのことに気づかない人生そのものが
一つの罠にかかっているようなものだというのです。

厄介なことに、この罠は、かかっていることに本人が気づかない
という性質を持っています。
むしろ、自分はもう分かっている、気をつけていると思い込んでいること自体が
その罠にさらに深くはまり込んでいる証拠でもあるのです。

「笑うものも 続けて転ぶ 雪の道」
という歌にもあるように、他人が失敗するのを見て
自分は大丈夫だと思っている人ほど
同じ道を歩けば、いずれ同じように転んでしまいます。

今日は仏法を聞きに行くつもりだったのに、つい別のことを優先してしまった。
そのようなことがあれば、必ず後になって後悔するはずですが、
その時は「なるほどそうだ」と思っても、また同じ失敗を繰り返してしまう。
これもまた、人間の迷いの深さを物語っています。

急がなくてもいいこの世の出来事を、まるで一大事のように扱い
本当に急がなければならない後生の一大事を後回しにしてしまう。
順番を取り違えたまま、日々を過ごしてしまうことこそが
私たちが陥りやすい、最も大きな罠なのです。

井戸をのぞく子どもを、必死に呼ぶ親の声のように
後生の一大事を説かれるブッダや善知識の教えもまた
私たちに向けて、絶えず呼びかけられています。

その声を話半分に聞き流し、まだ大丈夫だと油断しているうちに
取り返しのつかない一大事は、静かに近づいてきます。

命のあるうちに、心の闇を晴らし、後生の一大事を解決すること。
これが、この世のどんな一大事より優先されるべき
人生における本当の一大事なのです。

阿弥陀仏の救いを苦労して求める心の大切さ

「仏法は足で聞け」と昔から言われてきました。
話を聞くのであれば、本来は耳で聞くものです。
それにもかかわらず、「足で聞け」と言われるのはなぜでしょうか?

これは、裸足で聞くという意味ではありません。
足を使って、苦労して聞くということを意味しています。

現代の価値観は、同じ成果が得られるのであれば、
できるだけ楽をしたほうがいいという方向に傾きがちです。
けれども仏教では、この価値観とは正反対のことを教えられているのです。

このことを理解するために、3人の記者のたとえがよく用いられます。
ある事件が起きた時、3人の記者がそれぞれの方法で記事を書いたとします。

1人目は、頭で書いた記事。
現場に行かず、想像だけでこうだろうと書いたものです。

2人目は、耳で書いた記事で、現場に行った人から話を又聞きして
それをもとに書いたものです。

3人目は、足で書いた記事です。
自分自身がお金と時間を使い、神経をすり減らし、
時には危険をおかしてまで現場に赴き、自分の目で確かめて書いたものです。

たとえ出来上がった文章そのものは同じように見えても
その記者がどこまで現場を知っているかによって
記事の重みはまったく異なります。
そして、この足で書いた記事こそが、最も優れているとされるのです。

仏法を聞くこともまた、これと同じです。
同じ話であっても、それをどれだけの苦労を払って聞きに行ったかによって
受け取るものの深さがまったく違ってくるのです。

仏教の歴史の中に、関東の同行であった
平太郎という人のエピソードが伝えられています。
平太郎は、主人からの言いつけで、熊野権現へ参詣してもよいかどうか
ということで悩んでいました。

阿弥陀仏一仏に向くという教えを、親鸞聖人からお聞きしていて
頭では理解していたはずでした。
けれども、自分には特別な事情があるから仕方がない
という思いも同時に抱いていました。

人は誰しも、自分がやりたいことと教えとが食い違う時、
自分の場合は仕方がないという理由を見つけ出すことに長けています。
平太郎もまた、そうした迷いを抱えながら、
盗賊に襲われる危険さえある道のりを越えて
京都の親鸞聖人のもとへ直接その答えを尋ねに行きました。

そして、親鸞聖人の面前で直接教えを受けた時、
平太郎はそれまで頭で分かっていたこと、耳で聞いていたということとは
まったく異なる実感を得たと言います。
「なんと愚かなことを考えていたのか、夢から覚めた心地がする」と。

もし平太郎が、遠く危険な道のりを越えることなく
簡単な方法で同じ答えだけを聞いていたなら、
これほどまでの気づきは得られなかったでしょう。
それだけの時間と労力、そして危険をおかして確かめに行ったからこそ
そこで得られたものの重みが違ったのです。

この平太郎の話に通じる教えが、蓮如上人の『御一代記聞書』にも記されています。

「遠きは近き道理、近きは遠き道理なり。
 灯台もと暗しとて、仏法を不断聴聞申す身は、御用を厚く蒙りて、
 『いつものこと』と思い、法義におろそかなり。
 遠く候人は、仏法を聞きたく、大切に求むる心あるなり。
 仏法は大切に求むるより聞くものなり」
(御一代記聞書)

これは、仏法を聞く場所まで遠い人と近い人とについての教えです。
仏法を聞くために大変な時間もお金も労力もかかる人を「遠き人」といい、
あまり苦労もなく、いつでも簡単に聞きに行ける人を「近き人」と言います。

一見すると、近くにいて、いつでも仏法を聞ける人のほうが
恵まれているように思えます。
けれども蓮如上人は、「灯台もと暗し」ということわざを引かれて
その近さゆえの落とし穴を教えられています。
いつでも聞ける、また今度でいいという心が生まれると
仏法をいつものことだと思い、教えをおろそかにする心が育ってしまう
というのです。

反対に、遠くにいて、仏法を聞くために大変な苦労を払わなければならない人は
その苦労の分だけ、仏法を大切に求める心が育ちます。
仏法は、大切に求める心があってこそ、初めて本当に聞くことができるものだと
蓮如上人は教えられているのです。

ここでいう遠さ近さというのは、単に物理的な距離だけを指すのではありません。
信心決定までの心の距離もまた、遠い人と近い人があります。
仏法を聞くために相当の苦労を重ねなければならない人ほど
実は早く救いに近づく人であるとも教えられています。

苦労して聞くことと並んで、正確に覚えようとして聞くこともまた
大切な心がけであると教えられています。
教えを聞く時に、いつかまた聞けるだろう、
覚えなくても大丈夫だろうと思って聞いていては
その教えは心に残りません。

人は、何か物をなくした時には、必死になってそれを探し求めます。
それなのに、教えを一言、聞き漏らした時に
もう一度聞かせてほしいと真剣に尋ねに来る人は、なかなかいないものです。
どちらがより大切なものであるかを考えれば、この姿勢は本来
逆でなければならないはずです。

仏法を聞く時には、聞き流すのではなく
覚えよう覚えようとする真剣な姿勢で臨むこと。
これもまた、足で聞くということと同様に、大切な心がけです。

「仏法は足で聞け」という教えは、決して精神論ではありません。
同じ言葉を、同じ人から聞いたとしても
それをどれだけの苦労を払って聞きに行ったか、
どれだけ大切に求める心を持って聞いたかによって
受け取るものの深さはまったく異なります。

楽をして得られるものは少なく、苦労した分だけ得られるものは大きい。
これが、蓮如上人が『御一代記聞書』を通して教えられていることです。

阿弥陀仏という様のお約束である阿弥陀仏の本願に救われるための歩みもまた
この道理から外れることはありません。
苦労を厭わず、大切に求める心を持って、一歩一歩教えに向き合っていくこと。
それこそが、仏教に教えられる、真実の信心へと近づく確かな道なのです。

経典に「難しい」と説かれていること

仏教の教えを正しく説かれる方を「善知識」と言い、
その善知識には、なかなか会うことができないと言われます。

お釈迦様経典に、このように説かれています。
「善知識に遇い、法を聞きて能く行ずる、これまた難しと為す」(大無量寿経

親鸞聖人はこう言われています。
「昿劫多生のあいだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし」

どれだけ長い時間、何度生まれ変わり死に変わりを繰り返しても
阿弥陀仏の本願を知ることはできなかった。
法然上人にお会いできなければ、今生もまた虚しく過ぎ去っていた
という意味です。

よく「命の恩人」とか「一生の恩人」という言葉を使いますが、
それとはまったく次元が違います。
何度生まれ変わっても会えない恩人、それが善知識だということです。

「ああ、幸せなるかな親鸞。
 なんの間違いか、毛頭あえぬことに、今あえたのだ。
 絶対聞けぬことが、今聞けたのだ」

弥陀の法水がそのまま自分のところに届くということは
毛頭あり得ないことだった。
絶対あり得ないことが起きた。
それくらい、善知識に会うということは難しいことなんですね。

「ひろく仏法は伝えられているが、弥陀の誓願を説く人は稀である」
ともあります。
仏法を説く人は多くいても、弥陀の誓願をそのまま伝える善知識は
ほんのわずかしかいない。
その希有な善知識の教導に、今あうことができた。
この幸せ、どんなに喜んでも過ぎることはない、と親鸞聖人は言われています。

聖人の『正信偈』に「本師曇鸞」という言葉があります。
本師とは私の先生である、という意味です。
親鸞聖人が中国の曇鸞大師から一字をとって、ご自分の名前にされるほど
深く尊敬されていたことが伝わってきます。

時の天子でさえ曇鸞大師に対して毎日合掌し、菩薩と礼拝していたといいます。
高い身分でありながら、善知識に向かって頭を下げていた。
それほど善知識を敬わなければならない、ということです。

一方で、日本では法然上人も親鸞聖人も流刑にされました。
中国では菩薩と敬われていた善知識が、日本ではそんな酷い目にあった。
『正信偈』のその一行には、そういう親鸞聖人の思いも込められていると
教えていただきます。
一行一行に、深い意味があるんですね。

江戸時代に、山口善太郎という方がいました。
阿弥陀仏の救いにあった方ですが、善知識に会えないまま長く苦しまれたそうです。
日本全国を歩いて善知識を求めたけれど、それでも会えなかった。

その胸のうちをこう言われています。
「自力他力の水際を、委しく教うる人はなし、真の知識にあいたやと、
 聞かば千里のその外の、海山越えても厭わじと、
 狂い廻れる甲斐もなく、何のしるしもあらばこそ」

自力と他力の水際を丁寧に教えてくれる人がいない。
真の知識に会いたくて、千里の彼方でも海山越えても行く覚悟でいるのに
どこにもいない。
そういう言葉です。

お軽という方はこう言われています。
「こうにも聞えにゃ、聞かぬがましか、聞かにゃ墮ちるし、聞きゃ苦労」
聞いても苦しい、聞かなくても苦しい、どうしたら他力になるのだろう、と泣かれた。
そして善知識に会い、救われた時、こう言われたといいます。

「自力さらばといとまをやって、ワシが心と手たたきで、
 たった一声聞いたのが、その一声が千人力、
 四の五の言うたは昔のことよ、何も言わぬがこっちの儲け、
 そのまま来いの勅命に、いかなるお軽も頭が下がる」

一声聞いただけで、千人分の力になった。
そのまま来いという弥陀の勅命に、頭が下がったと。
救われる間際まで来ていながら、善知識に会えずに苦しんだ。
善知識に会えさえすれば、一座の聴聞で救われる方が
それでも会えなかった。
そういう方がいたということです。

こんな話もあります。
九州のあるおばあさんの話です。
そのおばあさんは、北海道の地主の一人娘で、
若いころから死んだらどうなるのか、ずっと悩んでこられた方でした。
誰も分かってくれない。
心の闇について教えてくれるのは浄土真宗だけだと、
結婚もせず土地を切り売りしながら、日本全国を善知識を求めて歩き回られた。
それでも会えなかった。

そんな中で善知識に会えたことを本当に喜ばれていた。
その数日後に再び訪ねると、すでに亡くなられていました。
最後は、教えの解説書を抱えたままだったといいます。

それほど求めて求めて、結局、善知識に会えなかった方もある。
その一方で、私たちはこうして会えています。
これがどれほど不思議なことか、ということを
この話は教えてくれているように思います。

あれほど求めて、求めて、善知識に会えなかった方がいる。 その一方で、私たちはこうして会えている。 これがどれほど不思議なことか、ということを、この話は伝えてくれているように思います。

善知識に会うことの難しさは
たまたま拾った小石がダイヤモンドだったと言われても
実感が湧きにくいのと似ているかもしれません。

でも、こうした言葉や話を重ねて聞くと、少しずつ分かってくることがあります。
毛頭あり得ないことが起きた、絶対聞けないことが今聞けた。
その事実の重さを、これからも胸に刻んでいきたいと思います。

「死んだら極楽」って本当なの?

世間では「死んだら極楽」とか「死んだら」とよく言われます。
でも、お経親鸞聖人のお言葉の中に、
そんなことは、どこにも説かれていません。

では、極楽に往生できる人とできない人は、何が違うのでしょうか。
そしてその違いは、いつ、どこで決まるのでしょうか。

親鸞聖人は、こんな言葉を残されています。

「専修の人をほむるには
 千無一失とおしえたり
 雑修の人をきらうには
 万不一生とのべたまう」(高僧和讃)

専修の人というのは、信心決定した人のこと。
信心決定した人は、お釈迦様から褒められる。
「千無一失」とは、千人いても1人も極楽往きを失敗しない
ということです。

それに対して、雑修の人というのは、信心決定していない人。
雑修の人は、雑修の十三失とも言われ、13の欠点があるということです。
そして「万不一生」とは、1万人いても1人も極楽に生まれる人がない。

これは、凄い言葉だと思いませんか?
「品行方正に生きれば仏になれる」でも、
をすれば救われる」でもなく、
「信心決定しているかどうか、ただそれだけが分かれ目だ」
と言われているのです。

本願寺の蓮如上人の『御文章』にはこうあります。

「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、
 みな浄土に往生すべきこと更に疑なし」

信心決定した人は、例外なく、全員が極楽往生できる。
これを往生一定と言います。

逆に、その信心が定まっていない人は、往生できない。
白か黒か、ただそれだけです。
グレーゾーンがない世界。
これが、自力他力の水際、親鸞聖人の一枚看板と言われる
「平生業成」の教えです。

「平生」とは、今この瞬間、生きている時のことです。
「業」とは、後生の一大事を解決して、未来永遠の幸せになる
ということです。

つまり、極楽往生できるかどうかは、死ぬ瞬間ではなく
生きているうちに決まる。
これが親鸞聖人の教えの核心です。

親鸞聖人の曾孫の覚如上人のお言葉に、こうあります。

「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
 平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」(執持鈔)

死に際がどんなに穏やかでも、信心が定まっていなければ往生できない。
反対に、どんなに激しい最期を迎えても、信心が定まっていれば
必ず往生できる。
「平生のとき、不定の念に住せば、かなうべからず」と
ハッキリ言われています。

「不定」とは、死んだらどうなるか分からない後生暗い心、
心の闇のことです。
信心決定した人には、その「不定」ということがないんですね。

覚如上人のこんなお言葉もあります。

「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
 そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」(執持鈔)

この臨終は、魂の臨終のことです。
心の闇という迷いの心が南無阿弥陀仏によって切り殺される。
これが娑婆の終わり、臨終だと言われています。

さらに親鸞聖人は、こうも言われています。

「呼吸の頃すなわちこれ来生なり。
 一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
 この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
 願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ」(教行信証)

「吐いた息が吸えなければ、吸った息が吐き出せなければ、もう後生だ」と。
呼吸と呼吸の間に、後生は触れ合っている。

仕事中も、通勤電車の中も、眠りにつく瞬間も、
呼吸のたびに後生と隣り合っているのです。
だからこそ「平生」がどれほど貴重な時間か、分かります。

人間の命、人生が終わったら、万劫にも帰ってこられない。
地獄で八万劫という長い間、苦しみ続けると教えられます。
だから、今この命があるうちに、信心決定することが
どれほど大事なことか。
後生の一大事、わが身の無常を念じてくれ。
何のための人生だ、絶対に後悔を残してはならないという
親鸞聖人からの、切なるメッセージです。

仕事がうまくいっている時、家族と円満に過ごせている時は「順境」です。
ミスが続く時や人間関係でつまずく時、思うようにいかない時。
それが「逆境」です。

人生は、順境と逆境の繰り返しです。
順境だけという人もいないし、逆境だけという人もいません。
順境の時は気分が上がり、逆境の時は落ち込む、それは自然なことです。

でも仏教の目的は、この一時的な浮き沈みに一喜一憂することではありません。
順境も逆境も超えた先に、必ず「後生」があります。
その後生が、無量光明土という永遠の幸せの世界になるか、
無間地獄に向かうか。
これが、本当の人生の岐路です。

「沈んで屈するな、浮かんでおごるな」と言われますが、
目の前の波に飲み込まれず、その先にある大切なことを見据えて
仏法を聞いていく。
それが重要なことです。

お釈迦様は経典に、こう言われています。

「もし百歳の寿を生きながらうるも 最上の真実を見ることなくば
 最上の真実を見つつありて 一日を生くるが勝る」(法句経)

真実を知らずに100年生きるよりも、
真実を知って1日生きる方が、はるかに優れている、ということです。

どんなに長く生きても、人生の行き先が定まっていなければ
その命は「着陸地のない飛行機」のようなものです。
燃料がどれだけ残っていても、降りる場所がなければ、どうにもなりません。

反対に、残り時間が少なくても、降りる場所が決まっていれば
安心して飛び続けられます。
人生は長さではなく、何をするかで決まると
お釈迦様は教えられています。

仏教に教えられる「人生の目的」はただ一つ。
生きているうちに、信心決定すること、
平生のうちに、後生の行き先が定まること。
それが、何十年も働き続ける人生の中で
本当に後悔しない生き方につながると思います。

死後に対する不安な心はどうやっても誤魔化せない

「死んだ後のことなんて、考えたてもどうにもならない」
「その時は、その時」
「そんなこと考えてたら、生きていけないよ」

周りにそういう人は、いませんか?
あるいは、自分自身もそう思ってきたかもしれません。
でも、その言葉の奥にはある思いが隠れていることがあります。

死後の世界なんてない」と、知性では言えます。
でも、実際はどうでしょうか。

「死んだ」ではなく「亡くなった」とか「他界した」と表現する。
英語でも「die」ではなく「pass away」と言い換える。
お墓に関することには、なんとなく緊張感がある。

言葉一つとっても、私たちは「死」というものを、忌み嫌います。

これは知性の話ではなく、もっと深いところの「情」の話です。
頭では「ない」と言っていても、心の奥底では
死ぬのが怖い」と死をリアルに恐れている自分がいる。
死んだらどうなるのか」という不安があるんですね。

今まで積み重ねてきた経験や記憶が、整理されないまま
潜在意識に蓄積されていて、それが「なんとなく好き」とか「嫌い」
「なんとなく怖い」という形で浮かび上がってくるんですね。

一目惚れがいい例です。
「なぜ好きなのか」は言葉にできない。
でも「好き」という感情は確かにある。
そう感じさせる何かが、自分の深いところにある。
死への恐れも同じです。

後生の問題を、こんなふうにたとえてみます。
数ヶ月後に返さなければならない借金がある。
すると、今この瞬間から、もう心が暗い。
返せる目処が全く立たないからです。

本来の解決方法は、借金を返すことだけです。
それができれば、返済日を晴れやかな気持ちで迎えられます。

でも返せない。
だからどうするか。
お酒を飲んで、忘れようとする。
酔っている間だけ、借金のことを忘れられる。
仏教ではこれを「五欲の銘酒に酔う」と言います。

このお酒に当たるのは何でしょうか。
趣味、娯楽、仕事への没頭、旅行、グルメ、SNSなど
生きがいと言われるようなものです。

どれも悪いものではありません。
でも、後生という「返せない借金」を抱えたまま、
それを忘れるためだけにやっているとしたら
それは酔っている間だけの気晴らしです。
酔いが覚めたら、借金はそのままそこにある。

では、人間は後生の問題にどう向き合ってきたかというと、
人間が取れる態度は3つしかありません。

1つ目は「玉砕」
「その時は、その時さ」という態度です。
受験や老後には「その時は、その時」とは言いません。
でも後生のことだけは、なぜかそう言ってしまうんですね。

何も持たずに突っ込んでいく特攻隊と同じで
覚悟があるようで、実は何も解決していません。

2つ目は「無条件降伏」
「考えたってどうにもならない」という態度です。
老後のことは考えれば何かしら対策ができます。
就職のことも、健康のことも、考えれば動ける。

でも後生のことだけは「どうにもならない」と
白旗を上げてしまうということです。

3つ目は「大いなる諦め」
「そんなこと考えてたら、生きていけない」という態度です。
仕事では「諦めるな、粘り強く」と言われます。
人生でも「どんな壁も乗り越えなさい」と言う。

でも後生という、100%確実に来ることに対してだけは、諦めきっている。
しかも、諦めていることさえ、自覚していません。

どれだけ楽しいことで埋めようとしても、どこかに「暗さ」が残ります。
それは、後生の一大事という大問題が解決されていないからだと
仏教では教えられます。

「死とは次への旅立ち」と言葉では言えても
実際に死に直面すると全身が震えます。
知性では隠せても、情の深いところで、確かに恐れているんですね。

人間の思想、哲学、文化、その多くは
「いかに後生を忘れるか」に向けられたものだとも言えます。
でも、どれだけ忘れようとしても、暗い部分は情が感じ続けています。

借金を忘れるためのお酒では、借金は消えません。
後生の問題も、誤魔化しでは解決しない。

唯一の解決は、仏教に説かれる変わらない幸せになる道を教えの通り進み、
後生明るい身になること、ただそれ一つです。
行く先が明るくなった時、はじめて現在も明るくなります。

返せない借金が、チャラになるどころか、
宝くじに当たったようなものだと教えられます。
当選が決まった瞬間から、入金を待つ間もワクワクが続くような漢字です。

後生の一大事が解決した時から、今この瞬間が丸ごと輝き始める。
それが、親鸞聖人の言われた「無碍の一道」です。

仕事でも、人間関係でも、私たちは問題から目を背けずに向き合おうとします。
それなのに、100%確実にやってくる後生の問題だけは
なぜか「その時は、その時」で済ませてしまう。

でも、その「暗さ」はずっとそこにあります。
意識しないだけで、ずっと心の底に潜んでいます。

その大問題を、「わが身の一大事」として正面から受け取ること。
それが、本当の明るさへの入り口です。

「考えたってどうにもならない」ではなく、だからこそ仏法を聞く。
それが、幸せに向かって生きる道です。