「生きる意味って、一体何だろう?」
そう考えた時、キリスト教や仏教といった、色々な宗教の教えが目に入ってくると思います。
では、多くの人に知られているキリスト教と仏教はどこが違うのでしょうか。
先に結論をお伝えします。
仏教は、苦悩の根元を破って本当の幸せにする阿弥陀仏の救いを説く教えです。
キリスト教や鬼神信仰は、仏教とは根本から異なるものとされています。
そして、本当の教えかどうかは、多数決や誰かの断言ではなく、
お経という「ものさし」で判断します。
「顕正一口メモ」という本があります。
これは、ある人がこう言っている、そういうことに対してこう答える、という
一問一答式でまとめられたものです。
どう答えたらよいかと悩まれて生み出された、破邪の利剣の数々が収められています。
例として、こんな質問があります。
「なぜ、国のために戦死した人を祀る靖国神社に反対されているのか。
お国のために戦死した人のおかげで、今の私たちがいる。
戦死した人に手を合わせてもいいのではないか」。
これに対する答えは、「親鸞聖人がだめだと仰ったから」です。
ここで「靖国神社は、親鸞聖人の時代になかったのではないか」と思うかもしれません。
実は、そこがミソなのです。
まず意表をつくことで、心に残るグサッとくる言葉になり、
そこから破邪が始まります。
同じように、ある真宗門徒から
「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や諸神を捨てよというのは間違いだ」と言われたら
こう答えます。
「あなたは親鸞聖人を非難して、浄土真宗の人といえますか」と。
これもインパクトのある答えです。
親鸞聖人は、まさにそれ一つを教えていかれた方だからです。
当時の首相が靖国神社に公式参拝し、日本の内外で大きな問題になっていた時期、
次のような趣旨のことが書かれた本があります。
名誉の軍人、殉国の英霊と言えば、あまりにもきれいです。
しかし、戦争の真の姿は決してそんな美しいものではありません。
軍隊は理想的人間の集まりではなく、惨めな人間丸出しの修羅場なのです。
敗戦後に明らかにされた日本兵の残虐物語は、枚挙にいとまがありません。
南京の大虐殺事件や比島の死の行進などはあまりにも有名ですが、
これらは神兵の美名のもとになされ、亡くなった人々は今、靖国神社の神として
祀られています。
筆者自身も、かつて従軍した経験があり、軍隊の表も裏も知りつくしています。
殺人、泥棒、強姦、暴行、略奪と、ありとあらゆる罪悪非道を平然として犯した者たちが、今、靖国の神として祀られている例がいかに多いかも知っている、と語られます。
靖国神社を褒め称える人は、颯爽と死をも恐れず、
国のために死んでいく格好いい人を想像します。
けれども、実際に修羅場をくぐった人にとっては、格好いい軍人物語よりも、
みじめな人間丸出しの姿のほうがピタリと来ます。
武勇伝を語って気持ちよくなっている人もいますが、
実際の戦争はそんなに綺麗なものではありません。
たとえば、特攻隊の訓練に耐えられず、トイレで首を吊る人がいました。
教官にお尻を殴られて血が出ることもあり、間違って腰を殴られると
死んでしまうこともありました。
それでも遺族には「戦争で殉死」と伝えられました。
命は糟のように扱われ、生きるか死ぬかの世界だったのです。
こうした話はあまり語られません。
以前、70過ぎの元海軍航空隊の方が、同じことを話されたそうです。
地上で機具を扱うとき、少しでも間違えると桜の木で作った棒で叩かれて、
鮮血が飛んだこと。
トイレでの首吊りが日常茶飯事だったこと。
そうした兵隊のありのままの姿を見ると、
とても敬える存在とは思えなくなるといいます。
軍歌とともにカッコいい武勇伝ばかりを聞けば、
日本の兵隊は素晴らしいと思い、志願する人もいるでしょう。
でも実態は、そんなものではありません。
自衛隊のポスターの格好よさも、実態とは違います。
こうしたことが分かると、靖国神社がどんなものか分かります。
乃木神社や東郷神社の祭神も英霊と言われますが
日本の戦争の片棒をかついだ人であり、他国から見れば侵略者です。
明治天皇は日清・日露の戦争をした人でもあります。
そういう人が神社で祀られ、拝まれているのです。
他国の神経を逆なですることも、これで分かります。
仮にナチスドイツで、ヒットラー神社やゲッベルス神社に毎年参拝するとしたら、
どう思うでしょうか。
ナチスの大虐殺の首謀者が英霊として祀られているようなものです。
明らかに許せない行為です。
けれども日本で多くの人を集めている神社は、軍人を祀ったものが多いのです。
ここまで分かると、守ろうとすることがいかにおかしいか、
倫理道徳から見ても鎮座していることがおかしいことが見えてきます。
ただ「日本の軍隊だけが悪いことをしたのではない」とも語られます。
問題にしているのは、特定の国の責任ではなく、
人間丸出しの姿をした者を神として祀り、敬うことの是非です。
日本人の宗教観は、実はそれ以下だと言われます。
何が祀られているのかも分からないまま、参拝していることが多いからです。
ある人は、祀られているものが狐だったと知った時、ショックだったと語られます。
よく分からないものが祀られている神社もあります。
これを知れば「だまされた」という思いになるかもしれません。
こうしたものが鬼神信仰ですが、実際には、そこに神などいません。
日本人の迷信の深さを表す例が、しめ縄です。
一度しめ縄を張ると、そこにはもう座ってはならない、となります。
今まで平気で座っていたのに、です。
たわいのないことのようで、これが迷信の巣窟です。
このような鬼神信仰を徹底的に排斥されたのが、親鸞聖人でした。
次に、「天」について触れておきます。
天の教えの中で最も有名なのは、仏教と並んで二大宗教といわれるキリスト教です。
「なぜキリスト教はあんなに多いのか」という質問がよくあります。
真実だから広まる、というわけではありません。
「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉があるように
悪いことがはびこることもあります。
真実は多数決では決まりません。
民主主義は多数決ですが、仏教は多数決ではないのです。
親鸞聖人が法然上人のお弟子だった時に起きた
「信行両座の諍論」という争いがあります。
その争いでは、少数だった方が正しかったのです。
人間は真実を見る目を持たないというのが仏教の人間観であり、
真実だからこそ見えない、ということもあります。
では、なぜキリスト教は広まったのでしょうか。
『旧約聖書』はユダヤの神話であり、『日本書紀』のようなものだそうです。
その一つの土着の神話が、なぜ仏教と並ぶ大宗教になったのかというと
ローマで広まったからです。
ローマの奴隷たちは、キリスト教が始まるまで反乱ばかり起こしていました。
生まれた時から牛や羊のように扱われ、
奴隷階級から出なければ幸せになれないと考えたのです。
そこへキリスト教が広まりました。
「今の苦しみは神の与えた試練だ。
じっと耐えれば、死んだら天国に行ける」という教えです。
逆に、今いい気になっているあの人たちは、
キリスト教を信じないから地獄に堕ちると聞き、彼らの心に灯火がつきました。
神に愛されていると喜んだのです。
キリスト教が広まるにつれ、ローマの奴隷は反乱をやめ、
神への信仰に生きる人になりました。
「宗教はアヘンだ」という言葉のとおり、
今の運命を積極的に変えようとはならなくなりました。
マルクスやレーニンが嘆いたような結果です。
ところが、支配者階級から見ると、反乱ばかり起こしていた奴隷が
扱いやすくなりました。
そこで迫害をやめ、テオドシウスという人によって、
やがてローマ帝国の国教になりました。
当時のローマは世界帝国で、すべての国はローマに通じていたため、
キリスト教は世界中に広まったというわけです。
ヨーロッパでは、ニーチェの出現までキリスト教が学ばれ続けました。
キリスト教には、二重にも三重にも理論武装があります。
神学二千年の歴史は、いかにキリスト教の矛盾を矛盾でなくするかの歴史でした。
その弱点とは、「医者が病院を作った」ということです。
病人がいて医者が出てこなければならないのに、
人間の前に神がいて、そのあとに人間をつくったことになっています。
どの宗派も、神は万物の創造者、愛の神、全知全能であるという点は共通で
聖書にもはっきり書かれています。
その神が最初の人間としてアダムとイブを作り、エデンの園に置いて、
禁断の実だけは食べてはならないと言いました。
しかし蛇の誘惑で二人は食べてしまい、神は大激怒して2人を追放しました。
これが私たちの苦悩の根元だとされます。
でも、りんごを食べたことが、あらゆる苦しみの根元だと言われても
とても納得できません。
全知全能なら、食べるなと言えば食べるだろうと分かったはずです。
愛の神なら、なぜそんな木を作り、蛇まで作ったのか、となります。
これは、留守番の赤ちゃんに「マンホールに近づいてはだめよ」と言って
出かけるようなもので、明らかな監督不行き届きです。
「自由意志を与えた」という説明も、理由にはなりません。
そこまで言う時間がなければ、
「信じる者を神が救うなら、なぜ信じられない私を作ったのですか」
と言えばいいのです。
その後の聖書にも、おかしな記述があります。
カインとアベルの話では、神が羊の捧げ物だけを喜んだため、
妬んだカインが兄弟殺しの罪を犯しました。
こうした神の態度が原因なのに、神に反省はありません。
聖書には「言うことを聞かなければ滅ぼすぞ」という記述が多く、
これは自然が神になったからだといわれます。
恵みを与えれば、大変な暴力も持つ強烈な力、それが神とされているのです。
こうしたものと仏を、一緒にしてはなりません。
阿弥陀仏の力が、私を災害に遭わせるようなものなら、
それは他力とは言いません。
阿弥陀仏の他力は、私たちの苦悩の根元を破って、本当の幸せにする力です。
キリスト教の神とは、まったく違います。
聖書と経典を並べて、通常の文章読解力で読めば、全然違うと分かります。
『古事記』とこれらを並べるならまだしも、
私たちの人生の目的、本当の心の拠り所は何かと考えると、憤慨するほどです。
それが肩を並べて二大宗教といわれるのは、大変なことです。
他にも、天を神としている宗教はたくさんありますが、
いずれも似たり寄ったりです。
もう一つ言うと、妄想的な思い込みを持った人が、
生き神様として祀られるということがあります。
そうした人は、何でも断言します。
ある新興団体の指導者は「ミイラは生きている」と言いました。
「エビしか食べない」と、カメラの前で無表情で自信満々に言われると
「本当にエビしか食べないのか」と、ちらっと思ってしまいます。
こうした人が生き神様になります。
価値相対主義で右往左往している時、人間はあの断言に弱いのです。
昔からそうでした。
時には、タンスを持ち上げたり、スプーンやコインを曲げたりといった
念力のような力を発揮することもあります。
そして「生き神様だ」とあがめ立てられ、宗教を開きます。
「太陽と話ができるのは自分だけだ」と断言し、
その人に人生相談をする主婦もいました。
ばかばかしいと思っても、断言されると信じようという気持ちになるのが人間です。
イエスもそうした人の一人だったのではないか、という意見もあります。
あることないことが、そのまま宗教になるのです。
だからこそ、警戒しなければなりません。
そういう意味でも、教学を学ぶことは必要です。
教学というものさしを持たなければ、人の断言に振り回されてしまいます。
仏教のものさしは、一切経です。
その他の人の断言であってはなりません。
そうした断言が、よく分からない宗教を作ります。
それが、今日の外道です。
天や鬼神、人が作った宗教は外道であり、仏教の因果の道理に合いません。
親鸞聖人は、これらを一切排斥されました。
これを「内外廃立」といいます。
私たちの人生の目的は、何かを信じて我慢することでも
死んだら天国に行くことでもありません。
苦悩の根元を断ち切って、本当の幸せになることです。
それを可能にするのが、阿弥陀仏の救いです。
そしてこの教えは、多数決でも、誰かの断言でもなく、
お経というものさしで確かめられます。
生きる意味を知りたい人こそ、人の言葉に流されず、
教えそのものを聞き、学ぶことが大切なのです。