世間では「死んだら極楽」とか「死んだら仏」とよく言われます。
でも、お経や親鸞聖人のお言葉の中に、
そんなことは、どこにも説かれていません。
では、極楽に往生できる人とできない人は、何が違うのでしょうか。
そしてその違いは、いつ、どこで決まるのでしょうか。
親鸞聖人は、こんな言葉を残されています。
「専修の人をほむるには
千無一失とおしえたり
雑修の人をきらうには
万不一生とのべたまう」(高僧和讃)
専修の人というのは、信心決定した人のこと。
信心決定した人は、お釈迦様から褒められる。
「千無一失」とは、千人いても1人も極楽往きを失敗しない
ということです。
それに対して、雑修の人というのは、信心決定していない人。
雑修の人は、雑修の十三失とも言われ、13の欠点があるということです。
そして「万不一生」とは、1万人いても1人も極楽に生まれる人がない。
これは、凄い言葉だと思いませんか?
「品行方正に生きれば仏になれる」でも、
「善をすれば救われる」でもなく、
「信心決定しているかどうか、ただそれだけが分かれ目だ」
と言われているのです。
「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべきこと更に疑なし」
信心決定した人は、例外なく、全員が極楽往生できる。
これを往生一定と言います。
逆に、その信心が定まっていない人は、往生できない。
白か黒か、ただそれだけです。
グレーゾーンがない世界。
これが、自力と他力の水際、親鸞聖人の一枚看板と言われる
「平生業成」の教えです。
「平生」とは、今この瞬間、生きている時のことです。
「業」とは、後生の一大事を解決して、未来永遠の幸せになる
ということです。
つまり、極楽往生できるかどうかは、死ぬ瞬間ではなく
生きているうちに決まる。
これが親鸞聖人の教えの核心です。
親鸞聖人の曾孫の覚如上人のお言葉に、こうあります。
「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」(執持鈔)
死に際がどんなに穏やかでも、信心が定まっていなければ往生できない。
反対に、どんなに激しい最期を迎えても、信心が定まっていれば
必ず往生できる。
「平生のとき、不定の念に住せば、かなうべからず」と
ハッキリ言われています。
「不定」とは、死んだらどうなるか分からない後生暗い心、
心の闇のことです。
信心決定した人には、その「不定」ということがないんですね。
覚如上人のこんなお言葉もあります。
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」(執持鈔)
この臨終は、魂の臨終のことです。
心の闇という迷いの心が南無阿弥陀仏によって切り殺される。
これが娑婆の終わり、臨終だと言われています。
さらに親鸞聖人は、こうも言われています。
「呼吸の頃すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
「吐いた息が吸えなければ、吸った息が吐き出せなければ、もう後生だ」と。
呼吸と呼吸の間に、後生は触れ合っている。
仕事中も、通勤電車の中も、眠りにつく瞬間も、
呼吸のたびに後生と隣り合っているのです。
だからこそ「平生」がどれほど貴重な時間か、分かります。
人間の命、人生が終わったら、万劫にも帰ってこられない。
地獄で八万劫という長い間、苦しみ続けると教えられます。
だから、今この命があるうちに、信心決定することが
どれほど大事なことか。
後生の一大事、わが身の無常を念じてくれ。
何のための人生だ、絶対に後悔を残してはならないという
親鸞聖人からの、切なるメッセージです。
仕事がうまくいっている時、家族と円満に過ごせている時は「順境」です。
ミスが続く時や人間関係でつまずく時、思うようにいかない時。
それが「逆境」です。
人生は、順境と逆境の繰り返しです。
順境だけという人もいないし、逆境だけという人もいません。
順境の時は気分が上がり、逆境の時は落ち込む、それは自然なことです。
でも仏教の目的は、この一時的な浮き沈みに一喜一憂することではありません。
順境も逆境も超えた先に、必ず「後生」があります。
その後生が、無量光明土という永遠の幸せの世界になるか、
無間地獄に向かうか。
これが、本当の人生の岐路です。
「沈んで屈するな、浮かんでおごるな」と言われますが、
目の前の波に飲み込まれず、その先にある大切なことを見据えて
仏法を聞いていく。
それが重要なことです。
お釈迦様は経典に、こう言われています。
「もし百歳の寿を生きながらうるも 最上の真実を見ることなくば
最上の真実を見つつありて 一日を生くるが勝る」(法句経)
真実を知らずに100年生きるよりも、
真実を知って1日生きる方が、はるかに優れている、ということです。
どんなに長く生きても、人生の行き先が定まっていなければ
その命は「着陸地のない飛行機」のようなものです。
燃料がどれだけ残っていても、降りる場所がなければ、どうにもなりません。
反対に、残り時間が少なくても、降りる場所が決まっていれば
安心して飛び続けられます。
人生は長さではなく、何をするかで決まると
お釈迦様は教えられています。
仏教に教えられる「人生の目的」はただ一つ。
生きているうちに、信心決定すること、
平生のうちに、後生の行き先が定まること。
それが、何十年も働き続ける人生の中で
本当に後悔しない生き方につながると思います。