今から約1300年前、中国・唐の時代は
仏教研究がもっとも盛んに行われた時代の一つでした。
当時、『観無量寿経』の解説書は、すでに複数の高名な学僧によって著されていました。
けれども、そのいずれもが、頭でっかちな学問のための解釈にすぎないとして退け
まったく新しい解釈を打ち立てた僧侶がありました。
それが善導大師です。
『観無量寿経』というお経には、当時としては衝撃的な内容が説かれていました。
厳しい修行を積んだ男性だけが救われるとされていた時代に、
罪深い境遇にあった一人の女性、韋提希夫人が救われる、という筋書きが
描かれていたのです。
なぜ、そのような人物が救われることができたのか。
善導大師は、この問いに正面から向き合い、それまで誰も示したことのない解釈によって
『観無量寿経』の本当の意味を明らかにしました。
その解釈は、夜ごとに仏の導きを受けながら書き進められたと伝えられ、
善導大師ご自身が「この解釈は一字一句として付け加えたり削ったりしてはならない」と
記されたと伝えられるほど、確信に満ちたものでした。
このことから、親鸞聖人は『正信偈』に
「善導独明仏正意」と讃えられています。
これは、数多くの僧侶の中で、善導大師ただ一人が
仏の正しい御心に明らかだった、という意味です。
親鸞聖人は、七人の高僧について讃える和讃を残しておられますが、
その中でも善導大師について詠まれた和讃は数多く、
その最初の一首にはこうあります。
「大心海より化してこそ善導和尚とおわしけれ、
末代濁世のためにとて十方諸仏に証をこう」
「大心海」とは、阿弥陀仏の極楽浄土、あるいは阿弥陀仏そのものを指す言葉です。
善導大師は、その大心海から姿を現された方、
つまり阿弥陀仏の化身であるとまで讃えられているのです。
また、親鸞聖人が終生尊敬された法然上人もまた
「自分が救われたのは、ひとえに善導大師のおかげである」
と述べられたと伝えられています。
これを「偏依善導」といいます。
法然上人は、善導大師の著された『観無量寿経』の解説書、
『観無量寿経疏』の一節を読まれている時に、信心決定されたと伝えられています。
このように、法脈という観点からも、歴史的な位置づけからも
善導大師は浄土の教えにおいて、極めて重要な位置を占める方です。
その善導大師が『観経疏』の中で、このように教えられています。
「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
これは、外には賢く善良で、精進しているような姿を示しなさい、
そして内側には、偽りの心を抱いてはならない、という意味です。
ここでいう「外」とは、身体で行うことと、口で話すことを指します。
「内」とは、心の中で思うことです。
口や身体の行いは外から見て分かるものですが、
心の中は他人からは見えません。
善導大師は、外に現れる行いや言葉を立派なものにしなさい、
そして同時に、心の中も偽りのないものにしなさい、と教えられたのです。
外だけを立派に見せかけて、心の中では舌を出しているような態度、
これを「虚仮」といいます。
外見だけでなく、誰も見ていないところでの心のあり方も大切にしなさい
というのが、善導大師がここで教えられたことです。
ところが、親鸞聖人はこの言葉を、『教行信証』や『愚禿鈔』の中で
まったく異なる形に読み替えられました。
「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」
善導大師の元の言葉は、「外に立派な姿を現しなさい」という勧めでした。
ところが親鸞聖人は
「外に賢く立派な姿を現してはならない、なぜなら内は偽りだらけだからだ」
というように、まったく逆の意味に読み替えられたのです。
これは、表面的な意味からすれば、180度の転換です。
「外面を立派に整えることをやめなさい」と読めてしまうため、
注意して受け止めなければ、大きな聞き間違いを引き起こしかねない言葉です。
実際、この言葉を「外見を整えたり努力することは大切ではない」という意味だと
誤解してしまう人は少なくありません。
この読み替えの鍵を握るのが、次の和讃です。
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
これは「死ぬまで悪の止まない親鸞である」と
ご自身のことを深く悲しみ、嘆かれた和讃です。
どれほど口や身体で立派なことを行っていても、心の中は煩悩に染まりきっていて
ヘビやサソリのようにおぞましい思いしか抱いていない。
そのため、自分の行う善もまた、毒の混じったものにすぎず、
それは「虚仮の行」と呼ぶべきものだ、と言われているのです。
『教行信証』信巻には、これとよく似たお言葉があります。
「一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。
急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、衆て『雑毒・雑修の善』と名け、
また『虚仮・諂偽の行』と名く。 『真実の業』と名けざるなり。
この虚仮・雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり」
人間は、心と口と身体という3つによって行いを重ねています。
その中でも、心こそがすべての火元です。
親鸞聖人は、ご自身の心が煩悩によって深く汚染されていることを
このように厳しく見つめられました。
心がヘビやサソリのように、あさましい欲や怒り、愚痴の心に満ちている以上、
口や身体でどれほど立派に振る舞っても、その行いの根っこは汚れたままである
というのです。
それにもかかわらず、あの人は立派だ、頑張っていると人から思われたいがために
表面だけを取り繕う、これが「虚仮の善」「雑毒の善」と呼ばれるものです。
では、善導大師の教えと、親鸞聖人の読み替えとは
まったく異なるものだったのでしょうか?
そうではありません。
善導大師が『観経疏』に説かれたことは、口や身体だけでなく、
心の中も立派にしなさいという、善への大切な勧めでした。
その教えにしたがって、外面を整え、実践を重ねていく道を
教学的には「要門」といいます。
その道を歩み進んでいく中で、阿弥陀仏の光明によって照らし抜かれた時、
自分の心の奥底が、口や身体でどれほど取り繕っても隠しきれない
偽りだらけのものであったことが、ハッキリと知らされます。
親鸞聖人は、この「聞くと同時に信心が定まる」という一念において
ご自身の心の実相を知らされました。
そして、そのような雑毒の善しか行えない自分自身を
阿弥陀仏の本願によってそのまま救おうとしてくださっていたのだと分かられたのです。
善導大師が「外に賢善精進の相を現じなさい」と説かれたのは
まさにここへと導くための、大切な教えだったのだと
親鸞聖人は受け止められました。
だからこそ親鸞聖人は、善導大師のお言葉を
ご自身の心の実相を言い当てる言葉として、あえて読み替えずにはいられなかったのです。 「あなたは外を立派に整えなさいと教えてくださったが、
私の内側は、どこまでいっても虚仮でしかありませんでした」という
深い懺悔の心をこめた読み替えだったといえます。
ここで注意しなければならないのは、この読み替えを
「外見や努力はどうでもよい」という意味に受け取ってしまうことです。
それは、大きな聞き間違いです。
善導大師が説かれた「外に賢善精進の相を現じなさい」という善への勧めそのものは
決して否定されているわけではありません。
むしろ、その勧めにしたがって外面を整え、実践を積み重ねていく歩みがあったからこそ
最終的に自分の心の内側の実相を知らされる、という道筋が開かれているのです。
外面を整える努力を怠ってよい、という話では決してありません。
大切なのは、外面をどれほど整えても、それだけで
心の内側まで清らかになるわけではない、という現実を見つめることです。
そしてそのような、外面と内面の間に大きな隔たりを抱えたままの私たちを
そのまま救うというのが、阿弥陀仏の本願だと教えられているのです。
『観無量寿経』に説かれた教え、そして善導大師が明らかにされたその教えは
外に立派な行いを現し、内にも偽りのない心を持ちなさい、という善への勧めでした。
親鸞聖人は、その教えにしたがって歩みを進める中で
自分の心の奥底に潜む偽りを知らされ、その気づきを通して
阿弥陀仏の本願の深さを知らされました。
外面を整えることを軽んじるのではなく、同時に
心の内側にある偽りからも目をそらさないこと。
そして、その両方を抱えたままの自分自身を、ありのままに見つめること。
それこそが、『観無量寿経』と、その教えを明らかにされた善導大師、
そしてその教えを深く受け止められた親鸞聖人が
私たちに示されている道ではないでしょうか。