仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

経典に「難しい」と説かれていること

仏教の教えを正しく説かれる方を「善知識」と言い、
その善知識には、なかなか会うことができないと言われます。

お釈迦様経典に、このように説かれています。
「善知識に遇い、法を聞きて能く行ずる、これまた難しと為す」(大無量寿経

親鸞聖人はこう言われています。
「昿劫多生のあいだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし」

どれだけ長い時間、何度生まれ変わり死に変わりを繰り返しても
阿弥陀仏の本願を知ることはできなかった。
法然上人にお会いできなければ、今生もまた虚しく過ぎ去っていた
という意味です。

よく「命の恩人」とか「一生の恩人」という言葉を使いますが、
それとはまったく次元が違います。
何度生まれ変わっても会えない恩人、それが善知識だということです。

「ああ、幸せなるかな親鸞。
 なんの間違いか、毛頭あえぬことに、今あえたのだ。
 絶対聞けぬことが、今聞けたのだ」

弥陀の法水がそのまま自分のところに届くということは
毛頭あり得ないことだった。
絶対あり得ないことが起きた。
それくらい、善知識に会うということは難しいことなんですね。

「ひろく仏法は伝えられているが、弥陀の誓願を説く人は稀である」
ともあります。
仏法を説く人は多くいても、弥陀の誓願をそのまま伝える善知識は
ほんのわずかしかいない。
その希有な善知識の教導に、今あうことができた。
この幸せ、どんなに喜んでも過ぎることはない、と親鸞聖人は言われています。

聖人の『正信偈』に「本師曇鸞」という言葉があります。
本師とは私の先生である、という意味です。
親鸞聖人が中国の曇鸞大師から一字をとって、ご自分の名前にされるほど
深く尊敬されていたことが伝わってきます。

時の天子でさえ曇鸞大師に対して毎日合掌し、菩薩と礼拝していたといいます。
高い身分でありながら、善知識に向かって頭を下げていた。
それほど善知識を敬わなければならない、ということです。

一方で、日本では法然上人も親鸞聖人も流刑にされました。
中国では菩薩と敬われていた善知識が、日本ではそんな酷い目にあった。
『正信偈』のその一行には、そういう親鸞聖人の思いも込められていると
教えていただきます。
一行一行に、深い意味があるんですね。

江戸時代に、山口善太郎という方がいました。
阿弥陀仏の救いにあった方ですが、善知識に会えないまま長く苦しまれたそうです。
日本全国を歩いて善知識を求めたけれど、それでも会えなかった。

その胸のうちをこう言われています。
「自力他力の水際を、委しく教うる人はなし、真の知識にあいたやと、
 聞かば千里のその外の、海山越えても厭わじと、
 狂い廻れる甲斐もなく、何のしるしもあらばこそ」

自力と他力の水際を丁寧に教えてくれる人がいない。
真の知識に会いたくて、千里の彼方でも海山越えても行く覚悟でいるのに
どこにもいない。
そういう言葉です。

お軽という方はこう言われています。
「こうにも聞えにゃ、聞かぬがましか、聞かにゃ墮ちるし、聞きゃ苦労」
聞いても苦しい、聞かなくても苦しい、どうしたら他力になるのだろう、と泣かれた。
そして善知識に会い、救われた時、こう言われたといいます。

「自力さらばといとまをやって、ワシが心と手たたきで、
 たった一声聞いたのが、その一声が千人力、
 四の五の言うたは昔のことよ、何も言わぬがこっちの儲け、
 そのまま来いの勅命に、いかなるお軽も頭が下がる」

一声聞いただけで、千人分の力になった。
そのまま来いという弥陀の勅命に、頭が下がったと。
救われる間際まで来ていながら、善知識に会えずに苦しんだ。
善知識に会えさえすれば、一座の聴聞で救われる方が
それでも会えなかった。
そういう方がいたということです。

こんな話もあります。
九州のあるおばあさんの話です。
そのおばあさんは、北海道の地主の一人娘で、
若いころから死んだらどうなるのか、ずっと悩んでこられた方でした。
誰も分かってくれない。
心の闇について教えてくれるのは浄土真宗だけだと、
結婚もせず土地を切り売りしながら、日本全国を善知識を求めて歩き回られた。
それでも会えなかった。

そんな中で善知識に会えたことを本当に喜ばれていた。
その数日後に再び訪ねると、すでに亡くなられていました。
最後は、教えの解説書を抱えたままだったといいます。

それほど求めて求めて、結局、善知識に会えなかった方もある。
その一方で、私たちはこうして会えています。
これがどれほど不思議なことか、ということを
この話は教えてくれているように思います。

あれほど求めて、求めて、善知識に会えなかった方がいる。 その一方で、私たちはこうして会えている。 これがどれほど不思議なことか、ということを、この話は伝えてくれているように思います。

善知識に会うことの難しさは
たまたま拾った小石がダイヤモンドだったと言われても
実感が湧きにくいのと似ているかもしれません。

でも、こうした言葉や話を重ねて聞くと、少しずつ分かってくることがあります。
毛頭あり得ないことが起きた、絶対聞けないことが今聞けた。
その事実の重さを、これからも胸に刻んでいきたいと思います。

「死んだら極楽」って本当なの?

世間では「死んだら極楽」とか「死んだら」とよく言われます。
でも、お経親鸞聖人のお言葉の中に、
そんなことは、どこにも説かれていません。

では、極楽に往生できる人とできない人は、何が違うのでしょうか。
そしてその違いは、いつ、どこで決まるのでしょうか。

親鸞聖人は、こんな言葉を残されています。

「専修の人をほむるには
 千無一失とおしえたり
 雑修の人をきらうには
 万不一生とのべたまう」(高僧和讃)

専修の人というのは、信心決定した人のこと。
信心決定した人は、お釈迦様から褒められる。
「千無一失」とは、千人いても1人も極楽往きを失敗しない
ということです。

それに対して、雑修の人というのは、信心決定していない人。
雑修の人は、雑修の十三失とも言われ、13の欠点があるということです。
そして「万不一生」とは、1万人いても1人も極楽に生まれる人がない。

これは、凄い言葉だと思いませんか?
「品行方正に生きれば仏になれる」でも、
をすれば救われる」でもなく、
「信心決定しているかどうか、ただそれだけが分かれ目だ」
と言われているのです。

本願寺の蓮如上人の『御文章』にはこうあります。

「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、
 みな浄土に往生すべきこと更に疑なし」

信心決定した人は、例外なく、全員が極楽往生できる。
これを往生一定と言います。

逆に、その信心が定まっていない人は、往生できない。
白か黒か、ただそれだけです。
グレーゾーンがない世界。
これが、自力他力の水際、親鸞聖人の一枚看板と言われる
「平生業成」の教えです。

「平生」とは、今この瞬間、生きている時のことです。
「業」とは、後生の一大事を解決して、未来永遠の幸せになる
ということです。

つまり、極楽往生できるかどうかは、死ぬ瞬間ではなく
生きているうちに決まる。
これが親鸞聖人の教えの核心です。

親鸞聖人の曾孫の覚如上人のお言葉に、こうあります。

「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
 平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」(執持鈔)

死に際がどんなに穏やかでも、信心が定まっていなければ往生できない。
反対に、どんなに激しい最期を迎えても、信心が定まっていれば
必ず往生できる。
「平生のとき、不定の念に住せば、かなうべからず」と
ハッキリ言われています。

「不定」とは、死んだらどうなるか分からない後生暗い心、
心の闇のことです。
信心決定した人には、その「不定」ということがないんですね。

覚如上人のこんなお言葉もあります。

「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
 そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」(執持鈔)

この臨終は、魂の臨終のことです。
心の闇という迷いの心が南無阿弥陀仏によって切り殺される。
これが娑婆の終わり、臨終だと言われています。

さらに親鸞聖人は、こうも言われています。

「呼吸の頃すなわちこれ来生なり。
 一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
 この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
 願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ」(教行信証)

「吐いた息が吸えなければ、吸った息が吐き出せなければ、もう後生だ」と。
呼吸と呼吸の間に、後生は触れ合っている。

仕事中も、通勤電車の中も、眠りにつく瞬間も、
呼吸のたびに後生と隣り合っているのです。
だからこそ「平生」がどれほど貴重な時間か、分かります。

人間の命、人生が終わったら、万劫にも帰ってこられない。
地獄で八万劫という長い間、苦しみ続けると教えられます。
だから、今この命があるうちに、信心決定することが
どれほど大事なことか。
後生の一大事、わが身の無常を念じてくれ。
何のための人生だ、絶対に後悔を残してはならないという
親鸞聖人からの、切なるメッセージです。

仕事がうまくいっている時、家族と円満に過ごせている時は「順境」です。
ミスが続く時や人間関係でつまずく時、思うようにいかない時。
それが「逆境」です。

人生は、順境と逆境の繰り返しです。
順境だけという人もいないし、逆境だけという人もいません。
順境の時は気分が上がり、逆境の時は落ち込む、それは自然なことです。

でも仏教の目的は、この一時的な浮き沈みに一喜一憂することではありません。
順境も逆境も超えた先に、必ず「後生」があります。
その後生が、無量光明土という永遠の幸せの世界になるか、
無間地獄に向かうか。
これが、本当の人生の岐路です。

「沈んで屈するな、浮かんでおごるな」と言われますが、
目の前の波に飲み込まれず、その先にある大切なことを見据えて
仏法を聞いていく。
それが重要なことです。

お釈迦様は経典に、こう言われています。

「もし百歳の寿を生きながらうるも 最上の真実を見ることなくば
 最上の真実を見つつありて 一日を生くるが勝る」(法句経)

真実を知らずに100年生きるよりも、
真実を知って1日生きる方が、はるかに優れている、ということです。

どんなに長く生きても、人生の行き先が定まっていなければ
その命は「着陸地のない飛行機」のようなものです。
燃料がどれだけ残っていても、降りる場所がなければ、どうにもなりません。

反対に、残り時間が少なくても、降りる場所が決まっていれば
安心して飛び続けられます。
人生は長さではなく、何をするかで決まると
お釈迦様は教えられています。

仏教に教えられる「人生の目的」はただ一つ。
生きているうちに、信心決定すること、
平生のうちに、後生の行き先が定まること。
それが、何十年も働き続ける人生の中で
本当に後悔しない生き方につながると思います。

死後に対する不安な心はどうやっても誤魔化せない

「死んだ後のことなんて、考えたてもどうにもならない」
「その時は、その時」
「そんなこと考えてたら、生きていけないよ」

周りにそういう人は、いませんか?
あるいは、自分自身もそう思ってきたかもしれません。
でも、その言葉の奥にはある思いが隠れていることがあります。

死後の世界なんてない」と、知性では言えます。
でも、実際はどうでしょうか。

「死んだ」ではなく「亡くなった」とか「他界した」と表現する。
英語でも「die」ではなく「pass away」と言い換える。
お墓に関することには、なんとなく緊張感がある。

言葉一つとっても、私たちは「死」というものを、忌み嫌います。

これは知性の話ではなく、もっと深いところの「情」の話です。
頭では「ない」と言っていても、心の奥底では
死ぬのが怖い」と死をリアルに恐れている自分がいる。
死んだらどうなるのか」という不安があるんですね。

今まで積み重ねてきた経験や記憶が、整理されないまま
潜在意識に蓄積されていて、それが「なんとなく好き」とか「嫌い」
「なんとなく怖い」という形で浮かび上がってくるんですね。

一目惚れがいい例です。
「なぜ好きなのか」は言葉にできない。
でも「好き」という感情は確かにある。
そう感じさせる何かが、自分の深いところにある。
死への恐れも同じです。

後生の問題を、こんなふうにたとえてみます。
数ヶ月後に返さなければならない借金がある。
すると、今この瞬間から、もう心が暗い。
返せる目処が全く立たないからです。

本来の解決方法は、借金を返すことだけです。
それができれば、返済日を晴れやかな気持ちで迎えられます。

でも返せない。
だからどうするか。
お酒を飲んで、忘れようとする。
酔っている間だけ、借金のことを忘れられる。
仏教ではこれを「五欲の銘酒に酔う」と言います。

このお酒に当たるのは何でしょうか。
趣味、娯楽、仕事への没頭、旅行、グルメ、SNSなど
生きがいと言われるようなものです。

どれも悪いものではありません。
でも、後生という「返せない借金」を抱えたまま、
それを忘れるためだけにやっているとしたら
それは酔っている間だけの気晴らしです。
酔いが覚めたら、借金はそのままそこにある。

では、人間は後生の問題にどう向き合ってきたかというと、
人間が取れる態度は3つしかありません。

1つ目は「玉砕」
「その時は、その時さ」という態度です。
受験や老後には「その時は、その時」とは言いません。
でも後生のことだけは、なぜかそう言ってしまうんですね。

何も持たずに突っ込んでいく特攻隊と同じで
覚悟があるようで、実は何も解決していません。

2つ目は「無条件降伏」
「考えたってどうにもならない」という態度です。
老後のことは考えれば何かしら対策ができます。
就職のことも、健康のことも、考えれば動ける。

でも後生のことだけは「どうにもならない」と
白旗を上げてしまうということです。

3つ目は「大いなる諦め」
「そんなこと考えてたら、生きていけない」という態度です。
仕事では「諦めるな、粘り強く」と言われます。
人生でも「どんな壁も乗り越えなさい」と言う。

でも後生という、100%確実に来ることに対してだけは、諦めきっている。
しかも、諦めていることさえ、自覚していません。

どれだけ楽しいことで埋めようとしても、どこかに「暗さ」が残ります。
それは、後生の一大事という大問題が解決されていないからだと
仏教では教えられます。

「死とは次への旅立ち」と言葉では言えても
実際に死に直面すると全身が震えます。
知性では隠せても、情の深いところで、確かに恐れているんですね。

人間の思想、哲学、文化、その多くは
「いかに後生を忘れるか」に向けられたものだとも言えます。
でも、どれだけ忘れようとしても、暗い部分は情が感じ続けています。

借金を忘れるためのお酒では、借金は消えません。
後生の問題も、誤魔化しでは解決しない。

唯一の解決は、仏教に説かれる変わらない幸せになる道を教えの通り進み、
後生明るい身になること、ただそれ一つです。
行く先が明るくなった時、はじめて現在も明るくなります。

返せない借金が、チャラになるどころか、
宝くじに当たったようなものだと教えられます。
当選が決まった瞬間から、入金を待つ間もワクワクが続くような漢字です。

後生の一大事が解決した時から、今この瞬間が丸ごと輝き始める。
それが、親鸞聖人の言われた「無碍の一道」です。

仕事でも、人間関係でも、私たちは問題から目を背けずに向き合おうとします。
それなのに、100%確実にやってくる後生の問題だけは
なぜか「その時は、その時」で済ませてしまう。

でも、その「暗さ」はずっとそこにあります。
意識しないだけで、ずっと心の底に潜んでいます。

その大問題を、「わが身の一大事」として正面から受け取ること。
それが、本当の明るさへの入り口です。

「考えたってどうにもならない」ではなく、だからこそ仏法を聞く。
それが、幸せに向かって生きる道です。

浄土真宗の「報恩講で信をとれ」は積み重ねが大事

こんな歌があります。
「匂いはと 聞かれて困る 造り花」

造り花は、見た目は本物そっくりでも、香りがありません。
これは聴聞の心構えに通じる言葉です。

仕事終わりに仏教の講座へ向かう。
「今日こそ真剣に聞こう」と気持ちを引き締める。
その心構えは、もちろん大切です。

でも、この一週間どんな日々を過ごしていたか。
そこが問われているのだと思います。

普段、仏法とはかけ離れた毎日を送って
その日だけ「命がけで真剣に聞こう」と気合いを入れても、
それは造り花と同じ。
見た目は整っていても、香りがないんですね。

一週間、どれだけ宿善を求めて過ごしたか。
その積み重ねが、聴聞の場での心の深さを決めていく。

普段の活動や日々の聴聞は、日曜日の準備ではありません。
その一座、一座で信心決定するという気持ちで臨む。
そしてその積み重ねが、次の一座をより深くしていきます。

浄土真宗には、2つの大きな行事があります。

親鸞聖人のお誕生をお祝いする「降誕会」と、
お亡くなりになったことをご縁として聞かせていただく「報恩講」です。

どちらが大事かといえば報恩講で、
蓮如上人も、報恩講に合わせて『御文章』をしたためておられました。
普段はとられない筆を、この時期だけはとられたと伝わっています。

その『御文章』には、こんな言葉があります。
「報恩講で信をとれ」と。

また、こういうお言葉もあります。

「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。
 まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし。
 (中略)相構えて相構えて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、
 信心決定ありて」

「どうか、私が生きているうちに、皆さん信心決定してほしい」という
心からの願いです。

報恩講は、ただの年中行事ではありません。
そこに向かって、全力で光へ向かうための、大きな節目です。

やる気があっても、なかなか続かないのが私たちの正直なところ。
仕事でも、「今月末までに仕上げる」と締め切りを決めるから本気になれる。
「いつかやろう」では、永遠に動けません。

仏法を求める時も同じです。
ある先生も、最初は「3日間」、次に「3ヶ月」と期間を定めて
全力で求められたそうです。

報恩講という節目を目標に定めて、そこへ向かって全力で光に向かう。
余力を残さず、心から信心決定に向かっていく。
そうすれば、本当の自分の姿が知らされて、信心決定できると教えていただきます。

歎異抄』第2章に、関東から京都の親鸞聖人を訪ねていた人達が登場します。
当時、関東から京都まで片道30日もかかる道のりを
苦労して歩いて親鸞聖人のもとへ向かいました。

これは「関東から京都まで歩け」という話ではありません。
それだけの苦労を乗り越えて向かったからこそ
聞く心が変わったということです。

報恩講に臨む時、どれだけの苦労を求めて準備してきたか。
その積み重ねが、その一座の深さを決めるということです。

より宿善を求め、より真剣に光へ向かう自分になる。
造り花ではなく、本物の花として。

香りのある聴聞ができるのは、日々の積み重ねを生きている人だけです。
忙しい毎日の中でも、「今日もご縁をいただいた」と受け取って
一歩一歩、光に向かって進んでいきましょう。

後生にやってくる大問題を解決する意味

飛行機の旅は、早いし、比較的静かで、快適ですよね。
でも、こんな飛行機があったらどうでしょうか。

着陸できる場所がどこにあるかも分からず、
燃料がどれだけ残っているかも分からない。
だから必ず墜落することになるのですが、それがいつなのかも分からない
そんな飛行機です。

そういう飛行機には、誰だって「乗りたくない」と答えると思います。
でも実は、私たちは生まれた瞬間から、そんな飛行機に乗っているようなものです。

100%死ぬことは分かっている。
でも、それが「いつ」かは分からない。
そして「死んだらどうなるか」も分からないまま。

それが分かっていながら、私たちはずっと
「どうしたら長く飛べるか」
「どうしたら楽しく飛べるか」
そういうことばかりを考えて生きています。

仏教では、それよりもはるかに大事なことがあると教えられています。

飛行機の中では、楽しいことが色々あります。
映画や食事のほか、ゲーム、動画視聴、読書といった
好きなことをして過ごすことができます。
外では雨が降っていたり、風が強くても、機内では楽しく過ごせます。

人生も同じです。
仕事、恋愛、旅行、趣味、友人との時間。
辛いこと、苦しいことがあっても、楽しいことがあるから飛び続けられます。

でも、飛行機の中の楽しさに夢中になっているうちに、
一番大事なことをずっと後回しにしてしまっているのが実際のところです。

その一番大事なこととは、降りる場所を探すこと。
これを一番先にやらなければならなかったのに、
気づいた時には燃料が尽きかけている。

昔から「死神」は恐れられていますが、死神は準備ができた人のところへではなく、
準備ができていない人のところへ、突然やってくるそうです。

「死は突然やってくる」というのと
「死は突然にしかやってこない」
この2つは同じように聞こえますが、意味が違います。

前者は、「思い通りの死に方ができる人もいる」という余地を残しています。
それに対して後者は、すべての人にとって、例外なく、突然やってくる
という意味です。

今この瞬間にも、世界では何人もの人が亡くなっています。
その誰もが「今日、自分は死ぬ」と思って
朝を迎えた人はいなかったはずです。

宗教学者の岸本英夫氏は、「死の恐怖」の原因を研究していました。
なぜ人は死を恐れるのか、その原因を冷静に分析し続けた知識人が
ガンの宣告を受けました。
最も意外な形で、死が目の前に現れたのです。

「死は、その人にとって一番意外な形でやってくる」と
岸本氏自身が語っています。

死ぬのが怖い」という思いは、誰にでもあると思いますが、
死を前にした時、人は何を恐れるのでしょうか?

岸本氏はこう整理しています。

1つは、肉体的苦痛で、病気や事故による痛み、苦しみ。
2つ目は、大切な人やものとの別れ。
お金や財産、仕事、愛する人など、今まで築いてきたすべてのものを
手放さなければならないからです。
そして3つ目は、死んだらどこへ行くのか分からないという恐怖。

岸本氏が研究の末に気づいたのは
この3つ目が最も根本的な恐怖だということでした。

たとえば、暗闇の中に飛び込まなければならない時、
痛みも怖い、大切な人と離れるのも辛い。
でも一番は、その先が真っ暗でどこへ行くか分からないことです。

どれだけ充実した人生を送っていても、
どれだけ後悔のない生き方をしてきたとしても、
「死んだらどうなるか」という問いに答えが出ていなければ
その恐怖から逃れることはできません。

「私は後悔しない生き方をしてきた」
という方もいるでしょう。
宮本武蔵のように、死を恐れずに生き切った人もいます。

でもブッダが教えられた「臨終の後悔」は、それとはまったく別のものです。

どんな仕事をしたかとか、誰と出会ったかとか、
何を手に入れたか、何を成し遂げたかに対する後悔ではありません。
「人生の目的を達成できなかった」という後悔です。

大無量寿経』というお経にはこう記されています。

「大命まさに終らんとして悔懼交至る」
 (大無量寿経)

命がいよいよ終わる時に、後悔と恐れの心が交互に押し寄せてくる
という言葉です。
どんな人生を歩んできた人でも、その瞬間にはみな同じ。
地位も財産も肩書きも、何一つ持っていくことはできません。

ロシアの文豪チェーホフは「人生はいまいましい罠だ」と言いました。
楽しいものや、苦しいものに心を奪われているうちに
本当に大事なことをしないまま終わってしまうと。

「茫然自失」という言葉がありますが、
そういう経験をしたことがありますか?

試験で一生懸命勉強したところと違う問題が出た。
徹夜で書いた資料が、保存されていなくて消えてしまった。
ずっと大切にしていたものが、突然なくなっていた。

努力した方向が根本的に間違っていたと分かった時、
怒りの心はあまり起きません。
ただ、呆然とするしかない。

死の直前に茫然自失するのは、まさにこれです。
「今まで頑張ってきたことが、一切かすりもしなかった」
生きる目的を果たすことが、一番大事だったのに」
「なぜ人生の時間を、この重要な問題の解決に使わなかったのか」

すべての人が最後に直面するのは
「何のための人生だったのか」という問いです。

どれだけ健康に気をつけても、どれだけ将来に備えても
自分の命がいつ終わりを迎えるかは誰にも分かりません。
死は、準備ができた人を選んで来るのではなく、
準備ができていないところに、突然現れます。

だとすれば、今やるべきことは何でしょうか。
長く飛ぶための工夫でも、楽しく飛ぶための演出でもありません。
安全に降りられる場所を探すことです。

後生にやってくる大問題、後生の一大事を解決すること。
それが、仏教で教えられる人生唯一の目的です。

仏教では、この後生の一大事を解決するために、
教えを真剣に聞きなさいと教えられます。
これを「聴聞に極まる」と言います。
真実の仏法を聞いて、聞いて、聞き抜くこと。
それ以外に、本当の安心を手に入れる道はないということです。

「まだ先の話」と思っているうちに、燃料は静かに減り続けています。
「今度やろう」と思っている間に、死神がやって来るかもしれません。

でも今、気づいているなら、まだ間に合います。
飛んでいる最中に降りる場所を確保できるなら、
それに越したことはありません。
降り始めてから気づいても、遅いのです。

後生の一大事を解決した時に初めて、
毎日を明るく楽しく過ごすことができるようになります。



幸せになるのは「いつか」ではなく「今」

「結婚したら、きっと幸せになれる」
「昇進したら、幸せになれる」
「もっとお金があれば、幸せになれる」

ヒットソングの歌詞には、必ずといっていいほど
「きっと幸せ」とか「いつか幸せ」というフレーズが登場します。
私たちがそんな言葉に引き寄せられてしまうのは
誰もが心の奥に「ずっと変わらない幸せ」を求めているから
ではないでしょうか。

ところが実際は、幸せを手に入れたと思った瞬間から
今度は「失いたくない」という不安が出てきます。
これは特定の人だけではありません。
人間として生まれたすべての人が抱える、根っこの悩みです。

この「もっと認めてほしい」とか「大事にしてほしい」
「裏切られたくない」「愛してほしい」という気持ちはの心です。

仕事でも恋愛でも、誰かに認めてもらえると
それだけでパッと世界が明るくなります。
でも同じくらい、「もし冷たくされたら」とか「裏切られたら」という怖さも
じわじわと大きくなっていきます。

親しければ親しいほど、「もっと分かってほしい」と期待が膨らみます。
そしてその期待に応えてもらえなかった時、
愛情はいつの間にか憎しみや怒りに変わってしまう。
これを仏教では「愛憎一如」と言います。

強い愛情の裏には、必ずと言っていいほど強い執着があります。
そう聞くと、「じゃあ、人を好きになるのは悪いこと?」と思うかもしれません。
そんなことはないんですね。
ただ、その愛情に「永遠を求めようとする」ことで
私たちは苦しくなってしまうということです。

人生は旅に例えられることが多いです。
学校を卒業すれば、クラスメートとはほとんど離れ離れになります。
仲の良かった友人も、気がつけば連絡が途絶えていたり、
転勤や結婚で遠くに引っ越したり。
どんなに深い縁の人とも、この世での付き合いには必ず終わりが来ます。

最も近くにいてくれる「家族」でさえ、いつかは別れる日が訪れます。
本願寺の蓮如上人は、こう教えられています。

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
 わが身には一つも相添うことあるべからず。
 されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」

どれだけ大切にしてきた人も、どれだけ積み上げてきた財産も
死を迎えたなら、一つも持っていけない。
だから死出の山路は、一人で歩くしかないのだと。

これは脅しでも、悲観でもありません。
「今あなたが求めているものは、本当に求めるべきものですか?」
という問いかけです。

大無量寿経』というお経には、このように説かれています。

「人世間愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、
 独り去り、独り来たる」

すべての人が寂しい気持ちを抱えているのは、
魂がひとりぼっちだからだと教えられています。

サザンオールスターズの「TSUNAMI」の歌詞に
「風に戸惑う弱気な僕」というフレーズがあります。
あの歌を聴くと、「これって私のことかも」と思う方も
多いのではないでしょうか?

でも同時に、「こんなこと、人には知られたくない」と
心の扉をそっと閉めてしまいます。

実はみんな、内心は不安で孤独、誰かに分かってほしいと思っている。
でも、それを悟られないように強がって生きていると言えるかもしれません。

そして、いざ本当に「助けてほしい」という場面で、
たとえば、病気になったり、大切なものを失ったり、死に向き合う時に
そばにいてくれる人はいても、その苦しみをまるごと引き受けてくれる人は
この世にはいません。

旅をする人には、宿が必要です。
大学も、職場も、家族も、みんな「しばらく共に過ごす宿」のようなものです。
卒業すれば、退職すれば、別れてしまう。
どんなに楽しかった時間も、やがてはのように遠くなっていく。

でも、この世の中には、一つだけ特別な宿があります。
それが「仏法の宿」です。
仏法を聞き求め、「信心決定」を体験すると、
「摂取不捨の利益 」つまり、永遠に変わらない幸せになることができます。

「摂取不捨の利益 」というのは、『歎異抄』に出ている言葉ですが、
「摂取不捨」とは、おさめとって決して捨てられないということです。
人間関係のように、条件が変われば関係も変わる、
そういった儚いものとは全く違います。
どんな状況になっても、何年経っても、変わらず続いていく幸せです。

仏教の教えを正しく説かれる善知識は、こう言われます。
「私とあなたのご縁はしばらくのものかもしれない。
 でも、このしばらくのご縁を通して、永遠に変わらない幸せの身になってほしい」と。

仏教を学ぶセミナーなどに参加すると、
「あの先生が好き」とか「この先生の話が分かりやすい」
そんな気持ちが出てきます。
これは自然なことです。

でも、ブッダはこう教えられます。
「人によらず、法によれ」と。

どんなに素晴らしい先生でも、人間である以上、いつか別れる日が来ます。
大切なのは、その先生への思いではなく
その方の口から伝えられる「教えの内容」です。
仏教の教えは真理なので、三世十方を貫き、
未来永遠に変わらない幸せへと導く力を持っています。
その教えを真剣に聞くことが大切です。

こんな歌があります。
「現在も 未来もともに 苦楽をば
   分けあうご縁 不思議なるかな」

普通「苦楽を分け合う」といえば、夫婦や家族と過ごす時間のことを指します。
でも、信心決定して永遠の幸せになった人は
この世だけでなく、未来永遠にわたる「法の友」になれます。
様が、「あなたこそが私の親友だ」と言ってくださる
それが目指すべき最高の境地です。

「いつか幸せになりたい」
そう思いながら、毎日を過ごしているかもしれません。
でも本当の幸せは、その「いつか」を待つものではなく
「今この瞬間」に達成できるものです。
真実の仏法を聞き求め、聞いた瞬間に真実の信心が頂ける「聞即信の一念」、
その一念が、人生を根っこから変える出発点になります。

仏法を聞くための苦労や努力はムダになるのか

仏法を求めていた人が、ある日こう言い始めることがあります。
「どうせ信心決定できないなら、費やしてきた時間もお金もムダだった」と。

この気持ち、分かる気がしませんか?
でもこれは、「最も大切なことを誤解している」ということになります。

仏法を長く求めてきた先輩が、ある日やめてしまった。
あんなに頑張っていた人でも信心決定できなかったなら、自分にはとても無理
そう思って、自分も離れていく。

でもこれは、仏法を
「学力や経験を積み重ねて到達するもの」と勘違いしているから起きる誤解です。

信心決定は、自分の努力で勝ち取るものではありません。
阿弥陀仏の本願によって、一念でいただくものです。
先輩の学識や経験の量は、あなたの信心決定とは関係ないのです。

仕事も家事も忙しい中で、時間を作って仏法を聞いてきた。
それでも信心決定できていないとしたら、
「この時間は何だったの?」と思う気持ちは
正直なところ出てくるかもしれません。

でも親鸞聖人は『教行信証』に、こう言われています。

「真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、
 偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し」

仏法の形はしているけれど、本当に因果の道理が分かっている人は少ない。
仏法を聞いたつもりで、実は核心が分かっていない人が多い。
そういう嘆きの言葉です。

そして「時間やお金がムダになる」と言い出す人は
まさにこの状態だと教えられています。

仏法の根幹は「因果の道理」です。
よい種をまけば、必ずよい結果があらわれる。
悪い種をまけば、必ず悪い結果があらわれる。

「まけば生え まかねば生えぬ 善し悪しの
   人は知らねど タネは正直」

これは信心決定した後だけに成り立つ話ではありません。
信心決定する前も、ずっと成り立っているのです。
仏法のためにまいた種は、信心決定できたかどうかに関係なく
消えることがありません。
「業力不滅」と言われ、まいた種は、必ず残ります。

本願寺の蓮如上人はこう教えてくださっています。

「世間へつかう事は、仏物を徒にする事よと、恐ろしく思うべし。
 さりながら、仏法の方へは、いかほど物を入れても飽かぬ道理なり」

世間のことにお金を使うのは、本当はもったいないこと。
仏法のためにどれだけ使っても、使いすぎということはない
という意味です。

また、時間についてもこう言われています。

「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし。
 仏法には明日ということはあるまじき」

仕事の空き時間に仏法を聞くのではなく、
仏法を中心に置いて、そこから世間のことを考えなさい
ということです。

毎日色んなことで悩んでいます。
人間関係、仕事の将来、お金のこと
どれだけ悩んでも、なかなか解決しないことばかりです。

でも、仏法で悩むことは違います。
仏法のために時間やお金を使い、神経をすり減らして求めてきた
その苦労は、必ず報われます。

仏法を1知った人、10知った人、100知った人。
仏法のために1悩んだ人、10悩んだ人、100悩んだ人。
それぞれまいた種の量が違います。

そしてそこに、阿弥陀仏のお力という「増幅回路」が加わります。
自分でまいた種が、とてつもない宿善となって、
あなたを真実へと押し出す力になっていくのです。

「信心決定できなければムダになる」という考え方は
仏法の根幹である因果の道理を否定しています。
仏法のためにまいた善いタネが消えると言っているのと同じだからです。

これは単なる考え違いではなく、
自分が積み上げてきたものを自分で壊してしまう言葉です。

忙しい日々の中で、それでも仏法を聞こうとしている。
その一つひとつが、消えることのない種まきです。

今すぐ信心決定できなくても、焦る必要はありません。
まいた種は正直に、必ず育っていきます。

仏法を主人とし、世間を客人とする。
その軸をしっかり持ちながら、今日も一歩、聞法を続けていきましょう。