一念帰命の信心をおこせばまことに宿善の開発に催されて、
仏智より他力の信心をあたえたまうが故に、
仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり。
( 御文章)
一念帰命の信心。
一念というのはアッという間もない時間の極まり。
帰命とはたのむ、ということ。
帰命というのは信順無疑。
弥陀の呼び声に「はい」としたがったとき、そして疑いが無くなったとき。
親鸞 聖人、帰命とは弥陀の招喚の呼び声である、といわれている。
「帰命」は本願招喚の勅命なり。
(教行信証)
本願とは阿弥陀如来の本願。招喚とは招き呼ぶ。
「そのまま来なさい」、という勅命、命令である。
「われにまかせよ、そのまま来い」、そういう勅命。
親鸞聖人、帰命という言葉をそのようにあじあわれた。
そして一念で其の呼び声をきく、一念帰命。
本願招喚の勅命に「はい」としたがって疑いなくなったとき、一念帰命。
そのとき南无阿弥陀仏が私のものになりますから、一念帰命の信心という。
人間同士は一体になれない。
とことん分かり合うと謂うことは人間にはできない。
マラソンの高橋選手と監督。
コーチを全面的に信頼している。
どれだけ深い信頼があっても、夫婦の愛情があっても一体とはいえない。
お互いの心が変わってしまう場合もある。
仏凡一体というのは全く仏の心と私の心が一つになる。
もうはなれない。
これを仏凡一体という。それはまことに宿善の開発にもよおされること。
宿善があって初めでできること。
宿善、阿弥陀如来 との御縁。
深い深い因縁がなければできないこと。
仏心と凡心がひとつになる。そういう人を信心獲得の行者という。