仏教では、人が亡くなる時に3つの段階があると教えられています。
まず「心明了位の臨終」で、これは前五識、
つまり視覚や聴覚などの感覚が終わりを迎える段階です。
次に「身体愛法位の臨終」、意識がなくなる段階。
そして最後が「心不明了位の臨終」で、
阿頼耶識が次の世界に転生する段階です。
「転生」と聞くと、何か難しそうな感じかもしれませんが、
実は、私たちの日常にも似たような経験があります。
小学校の頃は小学校特有の風景があって、友達がいて、
思い出があったと思います。
中学校に進学すると、また違う世界が始まります。
高校、大学、社会人と進んでいくと、
それぞれの時代で見える景色も、出会う人も、経験することも全く違ってきます。
転校した経験がある人なら、よく分かると思いますが、
環境が変わると、友達も風景も何もかも変わってしまうんですね。
そのことを分かりやすく表現した、
存覚上人という方の辞世の句を紹介します。
「今ははや 一夜の夢と なりにけり
往き来あまたの 仮の宿々」
旅の宿というと、何だか寂しい響きですが、
これは人生そのもの。
現代のホテルとかでは、あまりないと思いますが、
昔の旅の宿では、色々な人との出会いがあったとか。
「どこから来たんですか?」なんて話をしながら、
一緒に食事をしたり、思い出話をしたり。
でも朝が来れば、みんなそれぞれの目的地に向かって別れていきます。
前日の夜に、どれだけ楽しく過ごしたといっても、もう会えないかもしれません。
人生も同じです。
常に変化し続けて、同じ場所にずっといることはできない。
「私は生まれてからずっと同じ場所にいる」という方もあるかもしれません。
でも、物理的に動いていなくても、時間は確実に流れています。
周りの人も変わっていきます。
おじいさんが亡くなったり、赤ちゃんが生まれたり。
顔ぶれは次々と変わっていくんですね。
私たちは、空間の旅というより、時間の旅を続けています。
昨日から今日へ、今日から明日へと。
楽しかったこと、悲しかったこと、すべてが過去になっていく。
写真を見返すと、「あの時は楽しかったな」と思うけれど、
その頃にはもう二度と戻れません。
それぞれの時代には、その時代の風景があって、出会いがあって、思い出がある。
でも時が過ぎれば、全部が過去になってしまいます。
面白いことに、体も環境も時代も変わっていくのに、
「私」という存在は変わらない。
小学生だった私も、今の私も、これから年を重ねていく私も、
同じ私です。
世界が変わっても、統一的な私がいる。
仏教では、この考え方をもっと広く教えています。
人間として生きている間だけでなく、そのずっと前から、
死んだ後も続く永遠の生命があると。
それが「阿頼耶識」です。
仏教では、迷いの世界が六つあると教えられています。
それは、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六つで、
これを六道とか、六界と言います。
体は変わっても、阿頼耶識という統一的な主体は変わらない。
そしてそれが次の世界を生み出す。
これが「転生」なんです。
ちょうど小学校から中学校へ、中学校から高校へと進学するように、
人間界の寿命が尽きたら次の世界へと。
経験する世界や時代は変わるけれど、統一的な私がいるんですね。
「セミは春秋を知らず」という言葉があります。
セミは生まれてから死ぬまで、わずか7日間ほどしか生きられません。
しかも、鳴いていられるのは3日間くらいだとか。
6月から8月を夏とすると、その中のたった1週間しか生きていられない。
生まれる前には春があって、死んだ後には秋がある。
でもセミには分からない。
経験したことがないからです。
私たち人間も同じです。
生まれてから死ぬまでのことしか分からない。
仏教では、生まれる前、死んだ後にも世界があると教えられています。
でも、経験がないから分からないんですね。
永遠の生命があって、その世界での命が終わると、次の世界を生み出す。
例えるなら、滝壺に向かって流れていく川のようなもので、
その川に船を浮かべて、その中で暮らしているようなものです。
船の中では色んなことがあります。
誰が良い席に座るか、誰と隣になるか、誰とどういうふうに過ごすか、
そんなことにこだわったりしているうちに、船はどんどん流されていきます。
あっという間に時間が過ぎて、気づいたら滝壺に近づいている。
滝壺に落ちる時、つまり死ぬ時に、世界が一変します。
それまで大事だと思っていたことが、何の役にも立たず、光を失ってしまう。
この大問題を「後生の一大事」と言います。
仏教で自業自得という言葉がありますが、
これは自分の蒔いた種は、自分が刈り取らなければならないということです。
苦しいことがあると、つい「あの人のせいだ」と思ってしまいますが、
実際は、自分の行いの結果なんですね。
こんな歌があります。
「火の車 造る大工は なけれども
己が造りて 己が乗りゆく」
火の車、つまり苦しい状況をつくったのは、誰か他の人ではなく、自分自身だと。
嘘をついたこと、ありませんか?
一つの嘘を隠すために、また嘘をつく。
その嘘を隠すために、さらに嘘をつく。
こうなると、どんどん苦しくなっていきますよね。
これは「自縄自縛」と言われて、自分で自分を縛ってしまうということです。
仏教では、特に重い罪として、謗法罪と五逆罪があります。
謗法罪は仏教を謗る罪、五逆罪は親を害する罪です。
親がどれだけ苦労してくれたか、どれだけ私たちの幸せを願ってくれたか、
それを理解せずに、言葉とか態度で傷つけてしまうことがあります。
人間というのは感情的になると、大切なものでも平気で壊してしまいます。
それがいかに恐ろしいことか、冷静な時には分からない。
大切なものを大切にする。 これは善い種まきです。
お世話になった人に「ありがとう」と感謝を伝える。
真剣に学ぶ、これも善い種まきですね。
反対に、粗末にするのは悪い種まきです。
自分の蒔いた種によって、苦しい世界にも、楽しい世界にもなる。
人生は旅のようなもので、次々と景色が変わり、出会う人も変わっていきます。
でも、変わらない私というものがあって、その私自身が蒔いた種を
刈り取っていくんですね。
だからこそ、今この瞬間を大切に、善い種を蒔いていきたいですね。
周りの人に感謝して、大切なものを大切にする。
そんな毎日を積み重ねていけたらと思います。