仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

未来の運命は現在の心によって変わる

今と未来は切っても切れない関係にあります。
だから、今が苦しみいっぱいだとしたら、
死後の未来も苦しみいっぱいとなってしまう。

そんな、この世の自業苦(ジゴク)から死後の地獄へ堕ちてゆくとお釈迦様は教えられ、
大無量寿経』というお経には、こう教えられています。

「従苦入苦 従冥入冥」

苦から苦に入り、闇から闇に入ると。
この世の「ジゴク」を「業苦」と言われるのは、
私たちの運命自業自得だから。

自分の行いによって運命が生み出され、
不幸な運命を受けたなら、苦しむことになるので、
自分の行いによって苦しんでいるということ。

苦しみより苦しみの世界へ、闇から闇へ。
この世が自業苦の人は、死んだ後も地獄になります。
死後の世界が闇の世界になる。

だから、こうならないようにしなければならないんですね。

こういう歌があります

「哀れなり 心の光 知らないで
   苦から苦に入り 冥から冥へ」

哀れだなぁ、心の光を知らないで、
この世の苦しみから死後の苦しみへ、
暗黒の後生へと
旅立っていかなければならない
ということです。

さっきのお経には、
悪人はを行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る
とあります。

死後の地獄を解決するには、現在の自業苦を解決するしか
道はありません。

ほとんどの人は、このことを知りません。
様しか知らない。
あるいは、現在の自業苦を解決した人ですね。

この現在の闇の心が解決したらどうなるか。

「善人はを行じて、楽より楽に入り、明より明に入る」

苦しみの根元である心の闇が破られて、絶対に変わらない幸せになったことを
信心決定と言いますが、
現在信心決定した人は、未来も楽しみの世界にゆけるということです

「従楽入楽 従明入明
この世の本当の楽しみ、無碍の一道に出させていただいたなら、
死んだ後も、本当の幸せ、極楽浄土往生できるのだと。
明るい世界から明るい世界へと入っていく。

また、この世で明るい心となれば、未来も明るいところへゆける。
業苦が楽になった人。
今までは自分の、つまり行いによって苦しんでいた業苦だった人が、
転悪成善で楽に転じる世界が業苦楽(ゴクラク)で
す。

この世で明るい楽しい心に生かされて、変わらない幸せの身に生まれたのが、
この世界
です。
この世が業苦楽にならなければ、死んでから極楽にはゆけません。

後生暗い心が、後生明るい心に生まれたかどうかが鍵です。

中国の高僧、善導大師という方は、このように言われています。

「一たび地獄に入りて長苦を受くる時、始めて人中の善知識を憶う」

善知識というのは、仏教を正しく伝える先生のことです。
地獄へ堕ちてから、善知識の教えに従わなかったことを後悔する、
ということです。

長苦というのは、長い苦しみとあるように、激しい苦しみです。
人中とは、娑婆世界にいた時ということで、
その時の善知識のことを思い出して、
「何であの時、真剣に求めなかったの
か。バカだった」
後悔するということです。

善知識の教えに従えば、死んで苦しみの世界へと堕ちて苦しむ
後生の一大事の解決ができます。

教えのとおり進まなければ、信心決定はできません。

ひとたび地獄に堕ちて、長い苦しみ、激しい苦しみを受けなければならない。
「八万劫中大苦悩」とも言われますね。
万劫という長い間、大苦悩を受けると。

そのように、長い間というも大変ですが、程度も大変です。
この世の苦しみを一掬いの水とすれば、
後生の苦しみは
大海の水ほどだと教えられます。

1日に300本の槍でつかれる苦しみを小石としたら、
無間地獄の苦しみは、ヒマラヤ山の
如しと言われています。

また、この世の苦しみを1センチとしたら、
八万劫というのは、地球10周半だとも

終になって「しまった!」と思っても手遅れです。

すべての人は、やがて一切の装飾を振り捨てて、死のふちへ堕ちていく。
必ず「しまった!」と後悔する時が来るんですね。
信心決定せずに死んでいくと、必ずそうなります。
これに例外はありません。

仏法を聞いていると、こういう後悔があります。
せっかく善知識にお会いしながら、従わなかったから助からなかった。
それで「バカだった、バカだった」と後悔するんですね。

善導大師のお言葉は「地獄に入りて」とありますが、
実際は臨終です。

地獄に堕ちたら、そんなこと考えていられませんから。

こういう話を聞くと、
「じゃあ、仏法を聞かなければ、こんな後悔はないんじゃないか」
という人があるのですが、

そういう人は何が何だか分からずに死んでいくことに。
もちろんそれは、自分の悪業によって、そうなるわけです。

このお言葉は、善導大師の「般舟讃」というところに出ています。
これを全部読んだら、恐ろしくなる。
信心決定した人は分かります。

臨終になって分かっても手遅れなので、
こういうことにならないように、このお言葉を覚えて
常に思い出
して自分を戒めることが大事です。

仏教では私たちの臨終を三段階に分けて
三位の臨終を教えられています。

これも仏教でしか教えられないことで、
他の宗教とか哲学では教えられないことです。

まず1つ目は、「心明了位の臨終」
これは前五識の臨終です。

まず「心明」とあるのは、意識のことです。
意識が明るい間に終わりを迎えてしまう臨終。

意識はあるけれども、感覚を失うんですね。
目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる、鼻もきかなくなり、
舌の感覚
もなくなり、体も機能を果たさなくなる。
だから臨終を迎えるということです。

母親が危篤だと聞いて、枕元にいって、
「お母さん、僕だよ。分かる?」と大声で言う

この前五識の臨終を迎えると、耳が聞こえなくなっています。
耳元に口を当てて言っても、本人からすると
遠くで何かを言っている感じでしか聞こえません

また、母親の目の前に顔を近づける。
本人からすれば目が見えないので、
どこかで見た
顔だとしか見えないんですね。
でも、何とか見ようとすると、ギョロっとする場合があるそうです。

まず前五識が死んでしまって、そして第2段階の臨終が
「身体愛法位の臨
終」です。
これは、意識の臨終です。

この時、三愛といって、死の大変な苦しみが起きるんですね。
境界愛、自体愛、当生愛という3つの大きな苦しみです。

けれども、すでに前五識の機能を失っているので、
苦しみを外に表す
ことができません。
だから、周りからすれば安らかに死んでいったように見えます。

そして第3段階が「心不明了位の臨終」です。
識が死んでいる段階のことで、阿頼耶識が転生すると教えられています。
末那識はこの時、阿頼耶識とともに後生へ向かいます。
次の生へ転じて生まれるということです。

これが本当の死の瞬間です。
本当の死の瞬間を医学上で判断できないかというと、
今の医学でも分かっていません。
恐らく医学がこれからどれだけ進歩しても、外見上は分からないでしょう。

外見で心不明了位を判断することは難しいこと。
心不明了位の臨終、これが本当の死の瞬間です。

普通はこの順番で死んでいくのですが、
時間がかかってこうなる場合もあれ
ば、一瞬のこともあります。
大事故とかで即死という場合はそうですね。
一瞬で三段階を向かえる場合もあります。
これは業によって違うので、人によって違う場合がある。

逆転した時に臨終が悲惨なんですね。
安らかに死んでいるというのは表面上がそうなっているだけで、
苦しみを外に表せないだけなんです。
ほとんどの場合、こういう臨終を迎えます。

けれども、相当苦しんで死ぬ場合がある。
それは、この段階が逆転するからです。

まだ前五識が死んでいないのに三愛が起きている場合は、
苦しみを外に表す感
覚があるから、悲惨な臨終になると言われます。

意識不明という場合は、前五識、意識はありませんが、
末那識や阿頼耶識があるので生
きています。
また、末那識があるから、生きようとする、食事を取ろうとします。
実際は取れませんが。

意識は死んでも、末那識、阿頼耶識が生きているから
意識不明の状態でも生きることが
できるという人があります。

どういう状態でも、信心決定してこの世から明るい心にならない限り、
最期は悲惨だということなんですね。