親鸞聖人の教えを、二益法門といいます。
親鸞聖人の教えを二益法門という、ということは、
阿弥陀仏の本願が二益法門である、ということです。
「益」とは幸せということです。
ですから阿弥陀仏は、2つの幸せにすると約束されている
ということになります。
その2つの幸せとは、どういうことでしょうか。
「現益」と「当益」です。
現世の利益、省略して「現益」。
当来の利益、これが「当益」です。
現在助ける、そして未来もう1回助けると誓われているのが
阿弥陀仏の本願です。
現当二益あると教えられた親鸞聖人のお言葉があります。
「成等覚証大涅槃」(正信偈)
これで現益にあたるのは「成等覚」の部分です。
「等覚」とは51段目のさとりのこと。
正確にいうと「等正覚」です。
仏のさとりを「正覚」といいますので、「正覚」に「等」しい
ということです。
阿弥陀仏のお力によって、一念でズボーッと、この位にしてくださいます。
51段のさとりを開いている弥勒菩薩と肩を並べる。
次に「証大涅槃」ですが、『教行信証』には「大般涅槃を超証す」とも言われています。
仏のさとりを開く、ということです。
このように、2回助けるとお約束されています。
阿弥陀仏の本願のことを、苦しみ悩みの難度海を、明るく楽しく渡す大きな船だと言われます。
「成等覚」は、この大船に乗せていただいたことです。
「証大涅槃」とは、この船がそのまま阿弥陀仏の極楽浄土に向かっていますので、
この船が陸地に着いた時です。
問うて曰く「正定と滅度とは一益と心得べきか、また二益と心得べきや」
答えて曰く「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり」
このタイトルは「自問自答」です。
これは珍しいです。
『御一代記聞書』も問答形式ですが、あれは本当にお弟子が質問しているものです。
ここはそうではなくて、蓮如上人がご自分で質問されて、ご自分が答えられています。
よく教科書でも、太郎さんと花子さんがいて
「どうして日本は韓国を併合したんだろう」
「それはね・・・」
と分かりやすく解説されたりしています。
それと同じです。
「一念発起のかたは」というのは、この大船に乗ったことをいいます。
「穢土」とは、この娑婆世界のことです。
この世で獲られる利益は「正定聚なり」とあります。
次に、「滅度」とは「大涅槃」のことです。
仏のさとりは、浄土でしか開けません。
この世で仏にはなれないんですね。
「されば二益なりと思うべきものなり」
親鸞聖人と言葉は違いますが、同じことを蓮如上人は
ここで教えてくださっています。
このように私たちは現当二益を聞かせていただいているのですが、
何年か前に『岩波仏教辞典』を作るということで、ある事件がありました。
天下の岩波文庫が、仏教に関する辞典を作ることになった。
それに西本願寺の学者がクレームをつけたんですね。
作ったメンバーは東大のインド哲学の教授の中村元氏など、そうそうたる顔ぶれです。
西本願寺は、それに訂正を求めた。
内容は「往生」という言葉についてでした。
「この世での往生成仏」が辞典に掲載されていたのです。
そこにクレームつけたわけです。
この世での「成仏」は間違いです。
これを堂々と本屋で売ったので、西本願寺はクレームつけたと。
「往生」はあくまで死んで極楽に往生することを「往生」というのだ、と主張しました。
ちなみに、この辞典を編纂したのは東本願寺の学者でした。
東本願寺は、現世で救われると教え、両者が激突したわけです。
くれぐれも「往生」は、「死ぬ」とか「困った」という意味ではないので。
さすがに西も東も学者ですので、「困った」ということで主張していません。
東には、「親鸞聖人はこの世での心の大転換を説かれた」と言っている学者が多いそう。
そして「親鸞聖人は後生、浄土というものを説かれた方ではない」とも言います。
これには歴史的背景があります。
明治の初めに清沢満之という人がいました。
明治の頃というのは、エピキュロス派の学問を西洋で学んできた。
それが当時としては先進思想です。
後生や浄土のことでなく、現世の救いを説かれた、という清沢満之の主張が、
当時ウケたんですね。
哲学的に聞こえると。
「私、仏教と言ったら後生や浄土というから、変なものだと思っていたのです。
心の転換のことでしたか。
それなら分かる」
という人が増えたんです。
自分たちの都合のいいように親鸞聖人の教えを曲げてしまった。
だから彼らは蓮如上人を否定します。
蓮如上人は後生ということをハッキリ教えられましたから。
一方の西はどうかというと、
旧態依然として「死んだら極楽」を一貫して教えています。
困ったのは岩波文庫です。
東も西も大勢力で、何万という門徒がいる。
西を立てたら東の門徒が怒って、不買運動を始めるかもしれない。
それは大変。
そこで岩波は考えた。
それが「両論併記」だったのです。
本当はどうなのか。
「両論併記」2つの説があるなんて、こんないい加減なことを言っていてはいけません。
それがまた「往生」という、とても大切な言葉。
それに2つの解釈があったのでは大変です。
物にもそれぞれ名前がついています。
ところが、その名前を聞いても何のことか分からないと理解できません。
仏教の言葉は、仏教で決まっています。
売上げがどうかで決めることではないし、エピキュロス派がどう言ってるかで決めることでもない。
往生に2つの意味があるくらい常識。
「生かされて往く」と「往って生まれる」です。
いかに仏教学者といえども仏教に暗いか、こういうエピソードからも分かります。
この論争は、その後『朝日新聞』に掲載され、紙上討論の様相を呈してきました。
村田という弁護士が投書してきて「成仏」に関しては西の主張は正しい。
しかし「往生」については、この世の救いも説かれた、と
『末灯鈔』を根拠として主張しました。
それに西の学者が反論した。
中山智見という人。
『末灯鈔』の御文は「往生一定」が今ハッキリしたことであり、
現世での往生という意味にはならない、とした。
村田氏の反論はこれ以降なく、西本願寺はますます気勢をあげた。
西も東も大事なところを忘れています。
曽我量深は関係ない。
あくまで親鸞聖人のお言葉によって考えなければならないんですね。
勝手な憶測ではいけません。
まず東の主張が間違っていることを親鸞聖人のお言葉でいえば、
「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」
これ、どう読んでも死後の往生を説かれたご文です。
親鸞聖人のお言葉を出したのに、エピキュロス派がどうのこうの、
曽我量深がどうのこうの、と言ってきたら
「浄土真宗の話をしているんです」と言えます。
「この世にて真実信心の人を護らせたまえばこそ『阿弥陀経』には
「十方恒沙の諸仏護念す」とは申すことにては候え。
「安楽浄土へ往生して後に護りたまう」と申すことにては候わず。
「娑婆世界にいたるほど護念す」とは申すことなり。
というお言葉もあります。
東の学者がこのような考えになってしまったのは、
自性唯心という考え方があるんですね。
浄土といっても阿弥陀仏といっても、それは私たちの心の中にあるという考え方です。
もともと潜在意識の中にあるものを昔の人は「極楽」だと言ったのだ、とするものです。
自性唯心というのは、迷った人間には受け入れやすい。
これは親鸞聖人が徹底して破られた考え方です。
『教行信証』信巻別序にあります。
「それおもんみれば信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す。
真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
然るに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し」
この親鸞聖人のお言葉は
阿弥陀仏もお浄土も、我らの心を離れては存在しない(自性唯心に沈み)。
心の外に弥陀や浄土があると説くのは、幼稚な神話的教えにすぎない(浄土の真証を貶す)
と貶す者がいる。
全くこれらの者は、真実の仏教を知らないのだ。
叡山や南都の、華厳、天台、真言は言うまでもなく、
本師法然上人を攻撃した栂尾の明恵、笠置の解脱を始め、
禅宗の栄西、道元など、仏教界の指導者を総括して
「真実の仏教を知らざる輩」を斬り落された親鸞聖人のお言葉です。
いくら激しく斬られても、自性唯心に沈む人は、今日も跡を絶たないんですね。
浄土の真証が、それだけ得難いということ。
もしハッキリとした救いにあっていたならば、故郷に父母がいるように、
阿弥陀仏は現にまします、ということもハッキリします。
それなのに、「私たちの心にこそ」などと言っている、
またそれを「それなら分かる」などと言って喜んでいる。
親鸞聖人は「信楽を獲得する」と書かれています。
自分の心の中のことではなく、「頂く」ということです。
阿弥陀如来から頂く。
「如来選択の願心より発起す」とありますから。
信楽を獲得できるのは、ひとえに全く阿弥陀仏の本願によってなのだと
ここで冒頭におっしゃっているんです。
「真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり」とは、
何とか阿弥陀仏の選択の願心を伝えたい、というお釈迦様の善巧方便によって
真実の信心は明らかになったということです。
全く阿弥陀仏のお力であった、と知らされる。
そして、そこまで導いてくだされた善知識方へのご恩、それが『恩徳讃』になったのです。
全く弥陀釈迦のお力によって、この身になったからこそ
「まことに仏恩の深重なるを念じて」とその後に続いているのです。
この親鸞聖人の教えを伝えるべき本願寺が自性唯心に沈んでいるというのは、
悲しいことです。
では、西の主張が正しかったのかというと、
そうではありません。間違いです。
親鸞聖人はハッキリと「この世で往生する」と教えられています。
本願成就文の中に、「即得往生」とあります。
本願成就文は、親鸞聖人の教えの真髄のお言葉です。
自分の名前を忘れても、この40字は忘れてはならない、とても重要なお言葉です。
この一番大事な、それも40字しかない、その本願成就文に
「往生」と出てきます。
この「往生」は死んでからではありません。
「往生」について親鸞聖人が解説されています。
即得往生というは「即」はすなわちという、時を経ず日を隔てぬなり、
また「即」はつくという、その位に定まりつくという語なり、
「得」はうべきことを得たりという、真実信心をうれば、
即ち無碍光仏の御心のうちに摂取して捨てたまわざるなり。
「摂」はおさめたまう、「取」はむかえると申すなり、
おさめとりたまう時、即ち時日も隔てず正定聚の位につき定まるを、
「往生を得」とはのたまえるなり。(一念多念証文)
『唯信鈔文意』にも書かれています。
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、
「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。
「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、
「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。
「即」はすなわちという、「すなわち」というは時をへだてず
日をへだてぬをいうなり。(唯信鈔文意)
一番大事な親鸞聖人が、一番大事にされた本願成就文を読んでいない。
親鸞聖人の教えの「肝要」さえも知らない、ということが分かります。
東も間違い、西も間違い。
両論とも間違いですから、両論併記の岩波も間違い、ということです。
では、親鸞聖人の教えはどうなのかというと、
現当二益ということで、この世も未来も救われる。
善知識にあえないというのは、いかに悲しいことか、
こういうことから分かると思います。
東は後生を説きません。
それだと、全く仏教のいろはから分かってない人達ということになってしまいます。
仏教は後生の一大事と、その解決を説かれたものです。
彼らは後生を説かず、今生生きているそのことを喜ぶ
「自体満足者」を説きます。
けれども、今生と後生は密接不離な関係です。
今日と明日みたいなものです。
土曜日は明日が日曜と思っただけで、気持ちが明るくなります。
でも、日曜の夜は暗くなってしまう。
今、借金をかかえて返せなくなったら「マグロ漁船に乗れ!」といわれます。
2年くらいずっと船の上で、さんざん働かされる。
そして陸に着いたら、稼いだものを全部持っていかれる。
明日からマグロ漁船だとなったら、今が楽しくない。
お酒を飲んでも酔えない。
楽しもうとしても、気の重い明日のマグロ漁船によって楽しめないんですね。
今さえ楽しければいい、という人がありますが、
未来が明るくないと、「今さえ」と言っている「今」すら
明るくならないんです。
今日と明日、という話をしているけれど、もっと引き伸ばせば今年と来年。
大学も4年生くらいになると、来年は就職。
楽しくない。
1年生は未来のことが問題になってないから楽しそう。
本当に今を安心しようとするなら、未来を明るくしないといけません。
未来が明るくなって飲む「祝い酒」じゃないと、今は明るくならないんですね。
未来が暗いのをごまかすお酒では、悪酔いするだけ。
同じように、後生を考えずにいるのでは、今は明るくなりません。
ほとんどの人は老後の心配はしています。
あるかないか分からない老後のことは心配する。
なのに、100%の人が100%ブチ当たる後生については、全く問題にしようともしません。
「死んだらどうなるか」これは、必ず眼前に突き付けられることがある問題です。
朝起きたら老後、ということはありません。
けれども、後生はいきなりやってきます。
過労死というのは、極度に疲れた状態でバタッと寝る。
そしたら、もうそのまま死んでいるそう。
私も泥のように眠ることがあるけれど、
もし起きた時に、そこが後生ということがあると思ったら、怖いですね。
老後については、そういうことはありません。
後生は、朝起きて、昼になったら後生、ということもあります。
テロにあった人の話ですが、
朝、飛行機に乗って、昼にはロスで仕事をしようとしていた。
その人の乗った飛行機が、昼にはもう突っ込んでいた。
老後は近い未来、後生は遠い未来。
こういう発想がありますが、これは正しいでしょうか。
親鸞聖人は、こう言われています。
「明日ありと 思う心の 仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
明日より早くやってくるのが後生だ。
そこまで無常を突き詰められて出家なされた親鸞聖人ということは
本願寺の学者であれば知っているはずです。
今死ぬとなると、お金も名誉も地位も、みんな吹っ飛んで、
一人、後生に入っていく。
そこを何とか解決したくて親鸞聖人は出家されたんですね。
後生が全然問題になっていなければ、仏教が始まっていない。
では、西はどうか。
「この世はどうにもなれないが、死んだら極楽」
彼らはこう言いますが、もし未来が明るくなれば、今生我慢する必要は
どこにもない。
未来が明るいのに、「この世は我慢しましょう」とはならない。
来年楽しいことがあれば、今年は苦しくとも、楽しい。
明日は久しぶりに大好きなディズニーへ行く。
やっとのことで休みが取れて、ディズニーリゾート内のホテルの予約もとれた。
でも、今は職場関係者のお葬式。
神妙にしていないといけない。
それは分かっている。
でも心の中は、ディズニーのことばかりで、やがて顔がニヤけてくる。
外見はたとえ墨染めの衣であっても「心は浄土にあそぶなり」です。
未来が明るいから現在が明るい。
歌にもこうあります。
「踏み迷う 知らぬ旅路の 夕暮れに
宿の無き身の 心地こそすれ」
今まで一度も行ったことのない旅先で道に迷ってしまった。
その夕暮れに、山道で真っ暗になろうとしている。
このまま里に出ることができなければ、オオカミの餌食になるかもしれない。
このまま夜になったら、どうなるんだろう。
心細くて、居ても立ってもいられない。
後生は確実にやってきます。
1年生きたら、大きく1年近づく。
間違いなく後生に近づいている。
そんな私たちの心です。
その私たちが、宿にチェックインすると、こうなる。
「踏み迷う 知らぬ旅路の 夕暮れに
宿をとりたる 心地こそすれ」
明日が楽しければ、今日からウキウキ。
来年が明るければ、今年から明るい。
もういくつ寝るとお正月、となると「凧あげできる!」「コマ回せる!」と
まだお正月になっていないのに喜べるんですね。
生きてよし、死んでよし。
生きている時は、ともに「みくにの旅をともにせん」と言わずにいられない。
死んだら明るい世界にいける。
この世はどうにもなれません、なんてものではない。
そんなことを言うのは、今明るくなっていない証拠です。
ですから、現世のみの東も間違いなら、死んだら極楽の西も間違い。
これをニ益法門、「成等覚証大涅槃」といいます。
では、この世の救いと死後の救い、この関係はどうなのかというと、
体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人の主張は不体失往生。
善慧房証空は体失往生。
これだけ聞くと、どちらもある意味正しいじゃないか、と思います。
ですが、善慧房は「この世はどうにもなれない」と、
この世の救いを説かない体失往生です。
けれども親鸞聖人は、「生まれるというのは肉体のことだけではありません」と、
心の往生を強調されました。
そこに注目です。
法然上人の判決文は
「この世助からずして、どうして未来助かるだろうか。
この世から未来永劫助けたまうお約束」
ということでした。
ただ今の往生があって、それを果たした人は、
死んで助かること間違いないということです。
この世助かるかどうかが、未来助かるかどうかの鍵です。
「一念の信心定まらん輩は十人は十人ながら百人は百人ながら
みな浄土に往生すべきこと更に疑いなし」
と蓮如上人がハッキリ言われています。
「この信心獲得せずば極楽には往生せずして
無間地獄に堕在すべきものなり」
不体失往生と体失往生の関係を、ハッキリ教えられています。
親鸞聖人は、この2つの往生の関係、そして、阿弥陀仏の本願の眼目は
不体失往生にあるということを明らかにされました。
「人生の目的がある」だけじゃない。
「あるから早く達成せよ」
それが親鸞聖人の教えです。
往生にも2つある。
しかも、生きている時の救いを鮮明にされたのが親鸞聖人なんですね。