あなたが1日も早く本当の幸せになるには、
仏教の教えを学んだ方がより早く進むことができます。
仏教は教学と行学だと言われます。
車の両輪とも言われ、この2つをしっかり学ぶことで
正しくまっすぐ進むことができます。
まず正しい教学を学ぶことで、すばらしい教えであることが分かるので、
教えの通りに実行せずにいられなくなり、信仰が進んで本当の幸せになることができる
ということです。
また、教学は聴聞とイコールなので、
教学をやらない人よりも教学を学んでいる人の方が
より早く本当の幸せになれます。
膨大な七千余巻のお経のエキスがおさまっていますから、
これを覚えて、自分の血となり肉となれば、結果が大きく変わるのは当然のこと。
そんな教学を学ぶ時に、まず知っておいた方がいいのは
浄土真宗の祖師、親鸞聖人についてです。
親鸞聖人は、お釈迦様の御心を正確に、私たちに分かりやすく教えられた方という点からすれば
親鸞聖人以上の方はありません。
今まで、お釈迦様の教えを伝えられた優れた高僧は何人かありますが、
親鸞聖人ほど、私たちの人生の目的である信心決定の最短距離を
間違いなく明らかにされた方はないということです。
なので、親鸞聖人の教えを学ぶのは、とても大事なことです。
また、信心決定するためにも、親鸞聖人のご一生は
ぜひ知っておいたほうがいいです。
最初、出家された年が9歳です。
出家された目的は、ご両親の死をきっかけに、わが身の無常を感じられ、
今度は自分の番だと、わが身の後生の一大事に驚かれたんですね。
それで後生の一大事の解決を成し遂げるために比叡山に入られました。
そして20年間修行されましたが、比叡山の仏教は方便の仏教です。
比叡山では、苦悩の根元は煩悩と教えますので、
20年間命懸けの修行をされても、魂の解決はできなかったんですね。
それでその後、山を下りられ、法然上人とめぐり会うことに。
そして、法然上人から苦悩の根元は心の闇とハッキリ教えられたので、
100日ほどで信心決定されています。
もし親鸞聖人が、もっと早く法然上人に会われていたら、
こんなに時間はかからなかったと言われています。
だから教学と体験を兼ね備えた方から聞けば、早く信心決定できます。
親鸞聖人は
「この救い摂られた喜びを何としても大勢の人に伝えたい」
という思いが沸き上がってきた。
そして当時、破天荒といわれた肉食妻帯をされます。
当時の肉というのは魚のことですが、
ただ肉を食べたい、結婚したいから、でされたのではありません。
その心は、すべての人間は肉を食べなければ、罪を造らなければ生きていけない。
そして、出家の人も在家の人も、
ありのままで救われる教えだということ、
煩悩を持ったままで本当の幸せになれるということを教えるために
肉食妻帯をされたんですね。
当時の仏教は、肉食妻帯をしている人は助からないとされていたので、
真実の仏教は、肉食妻帯している人でも救われることを示すために、
そして普通の生活をしている人でも、聞く一つで魂の解決ができる、
真実の仏教を明らかにされるために、肉食妻帯をされています。
東本願寺のお仏壇を見てみると、鶴と亀がお仏壇の中にあります。
その中にお灯明があるのですが、これは何を表しているかというと、
鶴は足が長くて、
亀は足が短い。
足が長いと、「切ったらどうか」と思う人もあるかもしれないし、
短すぎると、「もうちょっと長くなれ」と思うかもしれません。
けれども、鶴の足は切らなくてもいい。
亀の足は足さなくてもいい。
これはあるがままという意味なんです。
親鸞聖人が明らかにされた真実の仏法はあるがまま。
方便の仏教は煩悩をなくさなければ助からないけれど、
欲や怒りや愚痴はなくそうとしてもなくなりません。
煩悩あるがままで菩提となる教え。
それを表すために鶴と亀を入れているんですね、
親鸞聖人は31歳で結婚されています。
そして34歳で三大諍論をされました。
おそらく吉水解散といって、法然上人の築かれた真実の仏法の集まりが
権力者の弾圧で解散されると考えておられたのではないかと推測できます。
法然上人のおられる時にやっておかないと、明らかにできなくなるということで
法然上人から教えを受けながら、誤っているお弟子達を正そうと、
お釈迦様の本当の御心はこうであると明らかにするために
敢えてされたのではないかといわれます。
そして、この三大諍論は仏教の極意です。
これを間違っているから信心決定できない。
これは永遠なので、十方衆生が救われきるまで続きます。
諍論とは仏教上の争いのことです。
お釈迦様の御心を明らかにする、これが法論です。
親鸞聖人は三つの大きな争いをされています。
それで三大諍論といわれるのですが、
『教行信証』の内容は、三大諍論におさまります。
まずはじめの諍論は、「体失不体失往生の諍論」といって、
救いは死後であるか、それとも平生なのかというもの。
体を失ってから、往生できるのか。
それとも、体を失わずして往生できるのか。
救いは、死後か平生か。
言葉をかえれば、人生に目的はあるのかないのかという争いでした。
法然上人の高弟、善慧房証空は
「人生に目的はない」と主張しました。
こういう考え方の人は多いですね。
また信心決定していない人は、こういう考えになります。
人生に目的はない。
救いはこの世ではできない、死んでからという捉え方です。
だから仏教が初めての人でも、頭では聞いているけれど、
本当に、そんなこの世で心がガラッと生まれ変わることなんてあるのだろうか。
それは善慧房に味方する心。
それは信心決定していない人の心です。
まず救いは死後ではない、平生達者なただ今のこと。
次に二つ目は、平生と聞いたら、救いはどんな世界なのか。
それに対して、信心決定していない勢観房、念仏房、聖信房たちは
人によって違う、救いには差別があると主張。
言葉をかえれば、人生の目的は人によって違うということ。
これを「信心同異の諍論」といいますが、
その誤った考えを破られて、救いは万人平等だと明らかにされています。
救いは差別か平等か。
万人共通であるという親鸞聖人の主張と、人生の目的は人それぞれという捉え方。
これも信心決定していない人の心で、人によって違うのではないかという考え方です。
人生の目的を果たした心の世界は万人平等です。
人によって違うというのは間違いだ、信心はみんな同じなのだと
その誤りを打ち破られたんですね。
最後、三つ目は「信行両座の諍論」です。
ここまで聞いたら、どうしたら人生の目的を果たせるのかが聞きたくなります。
言葉をかえれば、信心一つでできるのか、
それとも念仏を称えたら助かるのかという争いです。
専門用語では、念仏は行、信心は信です。
信心決定していない人は、行で助かると思っています。
念仏だったり、自分が一生懸命やった善で助かると思っているということです。
ところが、信心決定したら分かるのは、
自分の行は間に合わなかったということなんですね。
親鸞聖人は
「いずれの行も及び難き親鸞、地獄は一定すみかぞかし」
と言われています。
私たちのやった行では助からないことが知らされ、信心一つだとハッキリします。
仏教では、聞くも信じるも同じことです。
「聞即信」といわれます。
だから「信行両座の諍論」というのは
聞く一つで助かるということを明らかにされたものです。
「仏法は聴聞に極まる」
聞く一つだといわれますが、それを知らないんですね。
自分のやった善が間に合って助かるという思いを、みんな持っています。
それを破られ、私たちが後生の一大事の解決を成し遂げるには
聞く一つであることを明らかにされたのが親鸞聖人です。
これに仏教がすべておさまります。
法然上人のお弟子達は間違っていましたので、
法然上人のご裁断を仰いで、誤りを正されました。
ここで浄土真宗と浄土宗が分かれたといえます。
浄土宗の人たちは、救いは死んだらお助けだと思っています。
あるいは、信心決定しても救いは人によって違うとか、
念仏称えたら助かると思っているんですね。
それに対して、平生達者なただ今、万人平等の世界に生かされ、
聞く一つで、この世も未来も本当の幸せになることを明らかにされたのが、
親鸞聖人の浄土真宗です。
それを頭だけでも知っていてもらいたい、
これを明らかにしないと本当の幸福になれないということで、
34歳でまとめてされたのではないかと思います。
そして、35歳で権力者の弾圧にあって、越後流刑となりました。
その後、ご長男の善鸞を義絶されたのは84歳。
善鸞は親鸞聖人の元にいたときはよかったのですが、
親鸞聖人が京都にお戻りになられて、離れてから間違ったことを言うようになりました。
善鸞は信心決定していなかったのですが、
常に聴聞していないと、いつどうなるか分かりません。
大抵はしばらく聴聞しなくなると、もう聴聞しなくなってしまいます。
善鸞も親鸞聖人の長男でありながら、目的がずれて、
名誉欲や利益欲の虜になってしまって、おかしなことを言い出したんですね。
お父さんからいくら誡められても改めようとしなかったので、
親子の縁を切られてしまった。
わが子一人のために、多くの人を地獄に落とすわけにはいかないという思いから、
親子の間柄でも絶対に許せないということで断行なされたんですね。
善鸞が臨終に、許してくださいと来たけれど、許されなかったそうです。
これは、本心から悪かったという気持ちがなかったからです。
謝りに来たけれど、親鸞聖人は見抜かれていたんですね。
ここで許したら、善鸞は
「自分はお父さんから許されたから、私の話を聞いてくれ」
と言ってデタラメなことを言い続けると見抜かれて、
顔も見せることはされませんでした。
親鸞聖人からすれば、全人類を救いたいというお気持ちがあって、
そのためには親子の縁を切ってでも、
後生の一大事の解決、何としてもしていただきたいということで、
84歳で義絶され、そして90歳でお亡くなりになりました。
このご一生を正しく知るままが、後生の一大事の重さ、
また、その解決はどうしたらいいのかについても正しく知ることになります。
ということで、人生の目的達成を早くするためにも、
親鸞聖人のご一生をよく知ることが大事なんですね。