人生の目的というか、この人生がある意味は、
思い出作りのため。
こんなふうに思っていました。
でも、思い出は美化されて綺麗なままですが、
今、目の前にはありません。
「一度楽しい思いをしたら、辛いことが起きた時に余計に惨めだ」
という人もあります。
本当の人生の目的というのは、そんな淡いものじゃないんですね。
仏教では、私たちの人生の目的は、
苦悩の根元を破って無碍の一道に出ること。
こう言われます。
思い出作りが人生の目的だと思っていた私は
ちょっと浅はかだったなと思った記憶があります。
人生の目的を知る上で、大事なことがあります。
それは、目的とは何か、ということ。
その目的を示されても、目的だけでは到達できるかどうかは分かりません。
東京駅が目的地だとします。
そこまで辿り着こうとした時に、知らなければならないことが2つあります。
一つは、目的地。
当たり前です。
もう一つは、今自分がいる場所。
現在地。
これが分からないと、どうやって目的地に行けばいいか分かりません。
今自分がいる場所、と言ったのは、自分の姿ということです。
自分の姿が分からないと、目的も曖昧になってしまいます。
自分はどういう姿をしているのか、自己の姿を知る必要があります。
わが身知らずで全然知らない。
現在地不明の状況。
それだと、どこへ向かって歩けばいいのか、とても分かりません。
お釈迦様は、自分の姿を見る鏡は3種類あるが、
その中で真実を映すのは法鏡だけだと教えられています。
法鏡というのは、自分の姿をありのままに映すものです。
本当の自分を知る時の重要なキーワード。
無常観と罪悪観。
無常観とは、いつまでも元気で生きていられる私ではない、ということです。
今はまだ若いといっても、やがてはその若さを失い、
病気になれば健康も失う。
そして最後は、自分が死ぬという時がやって来る。
一番避けたいと思っている死に直面しなければならない。
一番の無常とは、死ということです。
そういう暗い話題になると、目をそらしてまともに見ようとしません。
ですが、病院へ行って医師に指摘されると、ドキッとすることがあります。
無常ということは、必ずやって来る未来なのです。
『死を見つめる心』という本があります。
東京大学の岸本教授が、癌になった時に書いたものです。
癌と聞くと、自分とはあまり関係ないと思ってしまいがちですが、
日本人の3人に1人くらいは、癌で亡くなっています。
日頃、無常という現実に対して、あまりに目隠しをしているので、
そこに突然、現実がやって来ると、ガラッと生活が変わってしまうんですね。
癌の手記を書いている人は、よくこういうことを書いています。
「平凡な日常が平凡でなくなってしまう」と。
無関係な人は誰一人なく、遅かれ早かれ必ず死んでいかなければなりません。
今日にも明日にも、自分がそういう立場に立たされることになるかもしれない。
「老少不定」という言葉がありますが、これは
年老いた人が先に亡くなって、若い人が後から亡くなるわけではないということです。
順番が決まっていれば、まだまだ大丈夫とも思えるかもしれない。
でも、実際はそうではないということです。
単純に日割りで考えてみても、大変な数の人が亡くなっています。
刻一刻と、自分にも迫ってくる。
とても自分の命が明日この世にないなんて、これっぽっちも思っていません。
そういう人にも突然死はやって来るんですね。
中国の高僧、善導大師は「風中の灯」と言われています。
これは私たちの命のことです。
ろうそくの火は、短いものから順に燃え尽きて消えていきます。
自分より短いろうそくが残っている場合、まだまだ自分は大丈夫と安心できる。
でも、風が吹いているようなところに出してみると、
長いろうそくでも、そこに風が吹いてしまったら、簡単に消えてしまいます。
まだまだ私は若いから、なんて安心できないんですね。
また、同じく善導大師のお言葉に
「無常念々に至りて、常に死王とともに居す」
というのがあります。
これは、無常は常に迫っている。
死王という凶暴な王様と一緒にいるということです。
権力を持った人は、少し機嫌が悪くなると、剣を抜いて斬りつけてくる。
上司がカンシャクもちだったら、いつもイライラして、
ちょっとしたことで腹を立てる。
そしたら、仕事をしていても落ち着きません。
でも、死王はそんなものではなくて、もっと恐い。
無常というものを、ずっと先のもののように眺めているけれども、
本当はどうなのか。
今晩死んでいかなければならないのが私たちなんだということです。
お経にはこういうお言葉もあります。
「出息入息 不待命終」
出る息は入る息を待たずして命終わる、と読みます。
吐いた息が吸えなければ、吸った息が吐けなければ、
それで命が終わるということです。
命が終わるとなったら、待ったなしということです。
20年生きたとすると、時間に直せば17万時間です。
これからの17万時間を考えると、とんでもなく遠くに感じます。
でも、今までの17万時間は、あっという間だったように思うかもしれません。
その間、どんな思い出が残っているか。
1時間もしないうちに、思い出が尽きてしまうかもしれません。
こう分かると、そんな儚い人生、一体何のために生きればいいのか、
こういうことが問題になってきます。
先程の岸本教授は、本の中にこのように書いているところもあります。
「死というものの苦しみは予告されたその刹那から始まる。
〜しかし癌との戦いでは、警報解除というものがない。
〜絶え間ない血みどろの戦いの連続であった」
家族にも本人にも知らせなければ、5年くらいは生きていられたような患者でも、
家族に知らせてしまうことで、家族の様子から本人も気付くそうで
5年は生きられたはずなのに、3年くらいになってしまうそう。
自分がもう治る見込みのない癌だと宣告を受けたその時から、
本人が受ける苦しみというのは、本人にしか分からないものです。
それを戦時中の空襲警報にたとえています。
警報が鳴ると、避難しなければならない。
爆弾が落ちてきたら死んでしまうので、ただならぬ緊張感があります。
それでも、やがてこの空襲警報も解除ということがある。
日常生活が、また送れるようになる。
ところが、癌との戦いには警報解除がない。
何をしている時でも緊張感があると。
ある人は、このことを「かからにゃ分からぬ地獄」と言いました。
いつまでも他人事ではなく、やがては自分がそこへ突っ込まなければならない。
そういう無常を無常とみるのが無常観です。
キルケゴールやハイデッガーといった有名な哲学者も
「人間は死に関わる存在だ」
「死に至る病だ」
とこれを言っています。
虚しいとか寂しいという感情がどこからくるのか、
それは、この死への不安から出てくるのだ、とまで言及しています。
「死に至る存在」
そこに不安の元凶があると。
ただ、無常観については、このように西洋哲学でも言及しているのですが、
もう一方の罪悪観というものは、スッポリ抜けてしまっているんですね。
歴史に名を残す哲学者でも、立派なことを言ってはいるけれど、
実は私生活はボロボロといった人もあったそうです。
ドイツの哲学者でヘーゲルという人があります。
弁証法の人です。
人間の理性というところから哲学を構築した人で、理性を重んじた人でしたが、
現実の生活では理性的というより野生的だったそうです。
そうした西洋哲学に比べると、無常観もさることながら、
お経の中の罪悪観というのは、人間の姿を非常に赤裸々に表している部分が数多くあります。
『大無量寿経』というお経がありますが、ズバリこういうお言葉があります。
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
私たちの行いを3つに分けられて、教えられています。
心は常に悪を念い、
口は常に悪を言い、
身体は常に悪を行う。
そこまで言わなくても、と思ってしまいます。
仏教では、心の行いを重く見ます。
口が何かを言うのも、身体が何かを行うのも、
それは心が命じたことなので、心に重い責任があると教えられます。
心が親分で、口や身体は子分です。
動いた子分もそうですが、動かした親分の方が厳しく罰せられるべきなんですね。
私たちが口や身体で、色んなことを言ったりやったりする。
それが時には法律に触れてしまうこともあります。
ですが、遡るとその原因というのは、心にあるんですよね。
火事でいうなら、口や身体の行いというのは火の粉で、心が火の元です。
まず火の元を探して、そこに水をかけるのが、素早く火を消す方法です。
おかしな犯罪をする人も、取り締まる立場の人も、
長い歴史を通して、どちらもなくなったことはありません。
それは、火の粉ばかりを消すことに躍起になって、
全く火の元を問題にしていないからではないでしょうか。
法律や倫理で取り締まれるのは、口や身体のことくらいです。
法律で心だけを罰するのは、無理な話です。
計画的だったか、ちょっとした過失だったか、
くらいの多少問題にされる程度。
ですが、心そのものを問題にして逮捕されるとなったら、
心穏やかに過ごせる人は、ほとんどないと思います。
他人の心のたねまきというのは分かりません。
だから罰することもできない。
でも、世の中を騒がせるような事件を起した人というのは、
自分とは全く別世界の人間でしょうか?
カッとなった気持ちを抑えられずに、思わず刃物を握ってしまった。
そういうことって、自分には絶対に起きないと言い切れるでしょうか。
心で思ったことだけでも逮捕されてしまうなったら、尚更です。
初めて会った人に。
「私、他人の心が読めるんです」
と言われたら、恐くなって、すぐに帰りますよね。
心で思っていることは、誰にも知られたくはありません。
だから、心のままを口で言うことができない場合も結構あります。
それで、心で思っていることと口で言っていることが違う、ということになるんですね。
このことについて、お釈迦様は
「心口各異 言念無実」
と言われています。
思ってることをそのまま言ったら、みんなから避けられてしまう。
別に心で思っているだけだから、とか言い訳してみても、
その心というのは、実にかなりの悪ではないでしょうか。
大泥棒といわれた石川五右衛門が、こんな歌を歌っています。
「石川や 浜の真砂は 絶ゆるとも
世に盗人の タネは尽きまじ」
私は今ここで死んでしまうが、盗人はまだまだ出てくるぞ。
そのタネというのは、一人一人の心に住みついている心です。
それは尽きることがないと。
鎌倉時代の親鸞聖人という人は、こう言われています。
「悪性さらにやめがたし
心は蛇蠍のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
悪性とは、我ながらゾ〜っとする心。
例えば、欲の心です。
仏教では貪欲(とんよく)といいます。
私たちは、底なしの欲を持っています。
一つのものが手に入ったら、また別のものが欲しくなる。
なければないで欲しい欲しい、あればあったでもっと欲しい。
こういう心があると、何を仕出かすか分かりません。
欲の本性というのは、我利我利亡者です。
自分さえよければいいという心のこと。
こういうことを表したのが、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』です。
ある時、お釈迦様が極楽の蓮池の周りを歩いておられた。
中をご覧になると、地獄で苦しむ男が見えた。
その男はカンダッタという悪人。
何とか助ける縁手がかりはないものかと過去帳を開いてみると、
生前、色んな悪いことをやっている。
最後のページに、クモを助けたという記録があった。
普段なら、クモを見つけたら踏みつけるのがカンダッタでした。
しかし、その時に限っては踏まずに逃がしたんですね。
「これだ!これで助けよう」
目の前にあるクモの糸を垂らして助けようとされた。
溺れるものは藁をも掴む。
クモの糸であっても、カンダッタは手を伸ばしてみた。
そしてスルスルと登っていく。
上にいくにつれて、苦しみが癒されていく。
しばらく登って、ふと下を見ると、
みんな続いて登ってきている。
それを見た途端、カンダッタは、今でも切れそうなこの糸が
こんなに登って来たら切れてしまうと思って、糸を揺さぶり蹴落としていった。
「誰の許しを得てこの糸を登って来ているんだ!早く下りろ!」
落ちていく人たちを見て「ざまぁ見ろ!」と言った瞬間、
カンダッタの握っていたところで、糸が切れてしまった。
カンダッタの我利我利の心が切ってしまったんですね。
自分の心を見てみたら、他人のことなどどうでもいいと思ってしまう。
自分に余裕がある時には、誰かに譲ろうかとも思える。
でも、これを乗り過ごしたら、もう会社に遅刻してしまう!
こうなったら、お年寄りがいても子供がいても、かき分けて乗ってしまう。
余裕があれば、どうぞどうぞと年配の人に譲ります。
そして、あの青年は立派だという名誉欲を優先します。
でも余裕がなくなると、本性が出てきます。
「本性はどうですか?」
と芥川は問うているのです。
親鸞聖人は、その本性を
「蛇蠍のようだ」
と言われています。
蛇やサソリを見た時のように、ゾッと気持ち悪くなると。
自分の心を見せつけられると、我ながら
ゾ〜ッとするような心しか持っていないのに驚く。
妬みや嫉みの愚痴の心を言われたものです。
他人の不幸は、これ以上のごちそうはないくらいに喜ぶ。
そういう心が愚痴の心です。
ピアスという人が『悪魔の辞典』というのを書きました。
そこに「幸福というのは他人の不幸を見て喜ぶ快感」と皮肉っています。
昔から、「旅先の火事は、大きければ大きいほど楽しい」ともいわれます。
見に行く時、鎮火したと聞いたらガッカリする。
不幸を踏み台にして喜んでいるのが私たちかもしれません。
大学に受かったということは、落ちた人があったということです。
昔から、こうも言われます。
「隣に蔵が建つと腹が立つ」
昭和初期の平屋に住む河内くんの家の隣に、3階建ての家に住む宮戸くんが引っ越してきた。
宮戸くんが持ってきたボタ餅を、受け取る時にはニコニコしていますが、
本人が帰ったら「犬にでも食べさせて!」となる。
すぐに日照権で訴える準備をしています。
「隣の貧乏ガンの味」
隣が苦労していると、おいしい味がしてくる。
ガンというのは美味しい食べ物です。
それに似せて作ったのが、がんもどきです。
そういう心でやる善ですから、せっかく善をしてみても、
顕微鏡でそれを見てみると、恐ろしい毒がそこには混じっているので
毒混じりの善だと言われます。
どういうところから、それが検証できるかというと、
例えば、ある人が友達に千円あげた。
平屋に住んでいるなんて気の毒だ、と思って持って行った。
でも、友達が何も言わずに受け取って帰っていく。
すると、腹が立ってくる。
本当に友達にお金を渡すことだけをしたかったのなら、
渡せればそれで満足できるはずなのですが、
腹が立ってくるというのは、それはお礼を求めているから。
「ありがとう」の一言がなかったから、納得がいかない。
『大智度論』という本を書いた龍樹菩薩という人が、
こうした毒混じりの善のことを、
氷の上に一升か二升のお湯をかけても、それは結局また氷になっている
と言っています。
では、善はやらなくていいのかというと、そうではないんですね。
真剣に善に励めば、努めて善をしていけば、
そうした人にだけ、まことの善のできない姿が見せつけられるわけです。
それが仏教に教えられている私たち人間の本性なのです。
そういう本当の自分の姿を知らされ、変わらない幸せになることが
私たちの生きる目的であり、本当の生きる意味なんですね。
生きる意味について詳しく書かれてある記事があったので、載せておきます。