仏様といえば、私たち人間にはない、沢山の御徳を備えていられるお方。
お釈迦様は、この大宇宙には数え切れないほどの仏様が在しますと教えられています。
中でも、仏方の先生と言われる阿弥陀如来の御徳は、群を抜いていて
その無限とも言える御徳の中で、特別なものが2つがあります。
それは「光明無量」と「寿命無量」です。
これは、阿弥陀如来というお名前の由来にもなっているものです。
お釈迦様は『阿弥陀経』というお経に、
光明無量だから阿弥陀と名づける、また、寿命無量だから阿弥陀と名づける
と教えられています。
光明無量が「アミターバ」、寿命無量が「アミターユス」です。
光明というのは、仏様のお力のこと。
その光明に限りがない、寿命にも限りがないということなんですね。
限りないお力を持っていられるのが阿弥陀如来です。
阿弥陀如来の沢山の御徳は、この2つにまとめることができます。
この2つを一言で言うと、光寿二無量。
そして、光明というのは、智慧のことです。
「光明は名づけて智慧と為す」と『涅槃経』に説かれているということが
『教行信証』真仏土巻に教えられています。
智慧とは、先を見通す力のことです。
この智慧の働きで、私たちの暗い心、心の闇がぶち破られるんですね。
また、親鸞聖人の書かれた『唯信鈔文意』にも、光明について
このように教えられています。
「然れば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧の形なりと知るべし」
光明というのは智慧の形である、智慧のことなのだと知りなさい
ということです。
次に、もう1つの寿命無量についてですが、
限りない命を持っていられるのが阿弥陀仏です。
永遠の生命。
寿命というのは、慈悲のことです。
どうしてこのように言えるかというと、
永遠の生命を与えることが一番の慈悲です。
限りない命を与えるぞ、と阿弥陀仏がおっしゃっているんですね。
人間の5つの究極の願い、「五願」というのがあります。
1つ目が、「時は三月花のころ」
季節は花の咲く三月がいい、ということです。
2つ目が、「お前18、ワシ20歳」
女性だったら18歳、男性だったら20歳くらいが一番いい頃だと。
3つ目が、「死なぬ子3人みな孝行」
子供は2人だとちょっと寂しいから、3人くらいがいい。
しかも、親孝行な子供がいい。
そして、昔は子供が小さいうちに亡くなってしまうことがよくありましたので、
死なぬ子3人と言われています。
4つ目が、「使ってもなくならぬ金100万円」
そして最後、5つ目が、「死んでも命があるように」
このように、最終的な一番の願いは、永遠の命です。
ですので、永遠の生命を与えることが一番の慈悲になるということです。
この智慧と慈悲によって完成したのが「南無阿弥陀仏」です。
この南無阿弥陀仏には、抜苦与楽の働きがあります。
阿弥陀仏の光明無量と寿命無量の働きによって、
苦しみの根元を抜き取って、永遠の幸せを与えてやりたいと作ってくだされたのが
南無阿弥陀仏なんですね。
このことを中国の高僧、曇鸞大師は、「破闇満願」と教えられました。
闇がぶち破られ、阿弥陀仏の究極の願いを私たちの上に満たしてくだされるということです。
また、今日の言葉で言えば、
光明無量が明るい心、大安心ということで、
寿命無量が楽しい心、大満足ということだと言われます。
阿弥陀仏のなされたお約束、阿弥陀仏の本願ではどうなっているかというと、
「信楽」とあります。
破闇のお力、光明無量の智慧によって、暗い心が晴れて、明るい大安心の心になります。
真実なき身が真実になります。
光明無量のお力によって信となり、寿命無量のお力によって楽となるということです。
これを、お釈迦様の『本願成就文』では、「信心歓喜」と教えられています。
光明無量の智慧によって「信心」、大安心
寿命無量の慈悲によって、「歓喜」、大満足となるということです。
信心歓喜というのは、永遠に変わることのない絶対の幸福ということですね。
光明無量と寿命無量の働きで、信心歓喜となれることを教えられています。
大安心の明るい心になれるのは、光明無量の智慧によって、
寿命無量の慈悲によって大満足の楽しい心になれます。
仏教のすべては、智慧と慈悲におさまります。
南無阿弥陀仏の智慧と慈悲を丸もらいすることを信心決定と言います。
そうすると、智慧と慈悲の両面が出てくるようになります。
浄土真宗の親鸞聖人も、浄土宗の法然上人も、信心決定するとそのようになります。
親鸞聖人の智慧の面と言えば、三大諍論と言われる仏法上の争いがありますが、
これは血も涙もないような厳しさが感じられます。
そしてまた、優しい慈悲の面もお持ちです。
御臨末には『改邪鈔』にあるように、魚にまで慈悲の心をかけられています。
法然上人の慈悲ということで言うと、勢観房、念仏房、聖信房の3人に、
「私と同じ信心でなければ極楽には往けませんよ」
と言われています。
お弟子の西阿という人を破門される時もそうです。
このように、信心決定した人には、必ず智慧と慈悲の面があるということです。
信心決定するには、罪悪観と無常観が大事になってきます。
罪悪観は、光明無量の働きで知らされます。
そして寿命無量の働きで、儚い命と知らされるんですね。
信心決定する時にとても大事なのが、この罪悪観と無常観です。
己の罪悪や無常が知らされるのは、観ずることができるのは、
阿弥陀仏のお力によるものです。
光明無量によって、今まで気づかなかった、罪悪を知らされ、
寿命無量によって、藤蔓のような細い細い命であるということを知らされる
ということです。
また、信心決定すると、2つのことが同時にハッキリするのですが、
これを二種深信と言います。
1つは、機の深信ということで、本当の自分のすがたがハッキリ知らされます。
もう1つは、法の深信で、阿弥陀仏の本願、本当だったとハッキリ知らされるんですね。
どうしてこの二種深信が立つのかというと、
本当の自分のすがたが知らされるのは、光明無量の働き。
そして、絶対の幸福の身にして頂いて、弥陀の本願間違いなしと知らされるのは、
寿命無量の働きです。
同時といっても、なかなか分かりませんから、このように分けて教えられています。
阿弥陀仏の本願で言うと、「唯除」と知らされるのは、光明無量のお力。
そして、寿命無量のお力によって「若不生者」と生上がるんですね。
「唯除五逆」というのは、機の深信です。
「若不生者」は法の深信。
助かる縁手がかりのない者と照らし抜かれるんですね。
己が五逆と謗法の者であったと知らされます。
照らし抜かれた体験が「唯除五逆」
切り落とされる、と同時に、若不生者と生上がるということです。
「照らされて唯除逆謗わが身なり」
「生かされて若不生者と踊り舞い」
動物で表すなら、獅子と象。
光明無量を獅子、寿命無量を象にたとえられます。
獅子は百獣の王で、怖れるもの一つもない。
獅子吼とか獅子奮迅と言いますね。
獅子の如く説法するということです。
南無阿弥陀仏の智慧を体得すれば、怖れもなく真実開顕に突き進むことができる。
また、南無阿弥陀仏の慈悲を体得すれば、慈悲を持って、すべての人を救おうと
煩悩の林に入って救済する。
煩悩の林というのは、煩悩いっぱいの人間の集まりということです。
このことは『大無量寿経』にも出ています。
「象王の如し、善く調伏するが故に。獅子王の如し、畏るる所無きが故に」
南無阿弥陀仏の偉大さは、たとえて言えば、
象王のようなもので、心身を制御して、煩悩や悪に打ち勝つのだと。
そして、獅子王のように、畏れるものは何もないと説かれています。
阿弥陀仏の智慧と慈悲を頂くので、死をも恐れない絶対の生き方ができるからです。
また、これを阿弥陀仏の脇士で言うと、
智慧を表したのが勢至菩薩で、
慈悲を表したのが観音菩薩です。
観音とは、苦しみ悩んでいる人の声を聞くということ。
仏教では見聞一致と言われます。
これが観音菩薩です。
ところで、お釈迦様の両脇の方々は、文殊菩薩と普賢菩薩です。
お釈迦様の智慧を表したのが文殊菩薩で、
慈悲を表したのが普賢菩薩です。
「三人寄れば文殊の智慧」と言いますね。
お寺へ行くと、動物を描いたものが作られています。
この動物というのは、仏教の場合、獅子か象です。
乗っているのはこういう方々で、智慧だったり慈悲を象徴した方なんです。
仏様は必ず智慧と慈悲を持っていらっしゃいますから。
仏教というのは、往還二廻向と言われます。
如来二種の廻向とも言われますが、これが浄土真宗だと親鸞聖人は教えられています。
光明無量の智慧によって、極楽へ往く往相廻向。
極楽から娑婆に帰って来て、苦しみ悩む人を救う活動をするのは、還相廻向です。
これは寿命無量の働きと言われます。
往相廻向は極楽へ往く相。
これは、光明無量の働きです。
還相廻向は弥陀の浄土から還ってくる相。
娑婆に戻って、苦しみ悩む人を救う相何ですね。
すべて阿弥陀仏のお力によって、
浄土から娑婆世界に戻ってきて、衆生を救う活動をせずにはいられなくなる
ということです。
また、仏教というのは、捨自帰他と言われます。
捨自帰他とは、自力を捨てて他力に帰するということです。
捨自の体験は、光明無量の智慧による、
帰他の体験は、寿命無量の慈悲によると言われます。
自力が廃らないと、絶対に他力に帰することはできません。
親鸞聖人の教えは、「自力を捨てて他力に帰せよ」という教えです。
自力は、自分の力では絶対に捨てることはできません。
自分が座っている座布団を、自分で取ることはできないようなものです。
阿弥陀仏の光明無量の智慧で、「唯除」と切り落とされる。
捨自の体験をさせていただけるんですね。
同時に、寿命無量の働きで、他力に帰する。
後生の一大事を阿弥陀仏に打ちまかせるということです。
「そのままぞー」という阿弥陀仏の御声が聞こえた時に、
「そのままでしたかー」という体験。
また、自利利他ということで言えば、
自利は、自らが幸せになるということで、これは光明無量の働き、
そして利他は、人を幸せにするということで、寿命無量の働きです。
この2つは、裏表の関係にあります。
光明無量の働きで、自利。
そして、私たちには、利他の活動をするという心は全くありません。
なのに、苦しみ悩んでいる人を見ると、じっとしてはいられない。
これが寿命無量の働きです。
また、光明無量の働きは十方で、寿命無量は三世です。
光明無量の働きというのは、十方大宇宙を遍く、
寿命無量の働きは三世を貫く、
十方を貫くものは三世を遍くんですね。
これらは一つであって、二つではないということです。
そういうものが阿弥陀如来だけの特別な御徳です。