仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

苦悩の根元を教えられた親鸞聖人のお言葉

苦悩の根元を教えられた親鸞 聖人のお言葉

真の知識にあうことは

 難きが中になお難し

 流転輪廻の際なきは

 疑情のさわりにしくぞなき

苦悩の根元は無明の闇と教えて下さる方が真の知識、
しかし、苦悩の根元は無明の闇だと教えて下さる方がないから、
真の知識にあうことは
難きが中になお難しといわれています。

真の知識とは阿弥陀如来の本願を正しく教えてくだされる方。
阿弥陀如来 の本願は苦悩の根元である無明の闇を破って信楽の身にしてみせると
いうお約束だから。


阿弥陀如来 がすべての人の苦悩の根元を無明の闇と見抜いて、
それをなくしてみせると約束して下されたのが阿弥陀仏の本願。
阿弥陀仏の本願を正しく教えて下さる方が真の知識。

真の知識にあうことが難しいのは、
真の知識がないから。

苦悩の根元を教えてくだされる方がない。

親鸞聖人も20年間比叡山で修行なされて、
真の知識はいまさぬかと狂いまわったが
あえずに泣いたといわれています。

 

true-buddhism.com

どうして浄土真宗では救われたことが分からないと言いだしたのか

浄土真宗でいつとはなしに救われるという人があります。

いつとはなしに救われるということは、
死ぬまではっきりしないということですから、
晴れたも曇ったもわからない、
浮世の空にかかる雲なしという日本晴れの大安心大満足の身にはなれない
ということになってしまいます。
死ぬまで助からないということになります。

どうして、このようなあきらかなことを捻じ曲げていったのか。

蓮如上人は 御文章の中に三世の業障が
あっという間になくなるとおっしゃっているのです。
一時に罪消えての一時というのは、
一念のことをおっしゃっておるのです。

三世の業障とは後生の一大事のことをおっしゃっている。
それがあっという間に抜けるとおっしゃっているのです。
これがはっきりしないと浄土真宗の僧侶の連中はいう。

奥さん羽織に何かついてますよ。
今糸とってあげましたよ。
糸屑くらいなら取られる前も取られてからもわかりません。

しかし、今40キロも60キロもする重たい荷物を背負って
辛い辛い、いつおろせるんだと苦しんでいる人が
後ろからその荷物をとって頂いて、
取られたのやらとられんのやらわからんという馬鹿なことはない。

後生の一大事の荷物を背負ったことがないのです。
その荷物を阿弥陀如来 に抜き取られ、
受け取っていただいた味がわかるはずがないのです。

後生の一大事というお荷物を背負って泣き泣き仏法を求めた人は
三世の業障一時に罪消えたということがあるはずだし、
ああ、なんと幸せ者であったのかと躍り上がるんだぞ、はっきりするんだぞ
と教えていかれたのであります。

ああ、多生にもあい難き本願力に今あえたり
億劫にもえがたき真実の信心を今えたりと
親鸞 聖人はおっしゃっています。

山吹の花は実を結ばない

遇い難きこの法の会を山吹の
花とばかりになすな皆人

仏法というのは人生の目的を教えている。
ちょっとやそっとであえる教えではない。
仏教にであうことは非常に難しい。
何百万何千万だしても聞けない教えです。
法とは仏法。
仏法イコール真実ですから。
大宇宙の真実を説いたのが仏法ですから。
遇うことの難しいこの仏法との出会いを、山吹の花としてはなりませんよ。
御縁があって宿善があって折角生きる目的をハッキリ知らされたのだから、
この御縁を絶対無にしてはならない。

山吹の花にしてはなりませんといわれている。
どうしてここで山吹の花と言われているのか。

実ができない花だそうです。
花はできるが実を結ぶことがない。
山吹の花は咲いても。


ここでは仏法と出会い、折角万劫にもない絶好のチャンスを手に入れながら
途中で挫折したり脱落して決勝点まで進まないまま
死んでしまったら本当に勿体ないとここで言われている。


実を結ぶところまで、信心決定人生の目的を果たすところまで
何が何でも求めなさいと言われている。


山吹の花とばかりにしてはなりませんよと言われている。
命の火が燃え尽きるまでに、決勝点まで頑張って貰いたい。
そう言う思いが込められている。

人生で最も大事なことを忘れている

人生で最も大事なことを忘れて、
急がなくていいことにこだわっていることを
蓮如上人はどう仰っているか。

「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし。
世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり。
仏法には明日ということはあるまじき」由の仰せに候。
「たとい大千世界に・満てらん火をもすぎゆきて・
仏の御名を聞く人は・ながく不退にかなうなり」
と、『和讃』に遊ばされ候。(御一代記聞書155)

闕きてとはやめてということ、
仏法という教えは世間のヒマを止めて聞くべし。
世間のヒマとは仕事。

なぜ仕事を世間のヒマと言うのか。
普通仕事をしてヒマができるという。
しかしここでは仕事=ヒマ。

仏法を聞く合間にするのが仕事だから世間のヒマ、ヒマがあったらするのが仕事。
仏法を聞くために生まれてきたのだから、その空いた時間でするのが仕事。
仕事とは学生で言えば勉強。
勉強を止めて聞け。

仕事の合間を縫って仏法聞こうと思うのは浅ましい事ですよ。
仕事の合間に仏法を聞けばいいとみんな思う。
仏法を聞いているよと親に言えばおそらくそう思われる。

蓮如上人は後生の一大事の解決が目的で、
世間のヒマは手段であるという事を明らかにされている。
区別しておられるところです。

なぜ苦しくても自殺してはいけないのか

教育現場でも生きる意味が分からないので、
自殺をとめられない。


ある学校で自殺する小学生がたくさん出た。
そこの校長先生。
その対策のインタビュー。
うちの学校の屋上のフェンスが低い。
高くしましたのでもう安心です。
こういうこといってひんしゅくを買った。

自殺する人には色んな原因が考えられる。
借金、失恋、いじめ、家、多いのが病。


しかし、哲学的には、これらは理由ではなくて、きっかけにすぎない。
これらは苦しい事ですけれども、それらの苦しみがやってきても生きなければ
ならない理由がわからないところにあるんです。


生きているといっても、それほど毎日を大切にしている人は意外と少ないです。
人命は尊い、と言われるけれども、パレスチナなどでは平気で人を殺している。
もしいじめられたことが原因ならいじめられた人は全員自殺しているはず。

あなたが自殺を考えた事があるかどうかわかりませんが、もし、
自殺をしようとしている人をとめる事ができなかったら、
その人もなぜ自殺がいけないのかわからないんです。
ある自殺をしようとした女子高生を止めようとした警察官。
止めに入ったはいいけれど、何時間か後には、
その女子高生と一緒にとびおり自殺した。
自分が今生きなければならない理由って、
これといってなかったと逆に少女に説得された。
本当の話。


今は苦しいことがやってきていないと思っている人がいるかも知れませんが、
苦しい事がやってこないなんてことはない。
昨日まで羽振りのよかった人が今日株で大損しているということもある。
貴乃花も苦しんでいる。
思い通りにいかないもの。

そんな中生きてゆくのは何のためか、いろんな資料を通して話をしている。
これはあるからいっている。
なかったらこんなことはしない。
パスカルは残り
一週間の命となっても、やらねばならないことが人生の目的といっている。
皆さん、自分の今夢中になっていること、趣味、生き甲斐の中で、そういうもの
があるのか、考えてみて欲しいです。
どんなに苦しくても自殺をしてはいけないのはなぜなのか。
苦しい人生なぜ生きねばならないのか。

本当の生きる意味は何か。

きっかけにしてください。

心の闇が破れた

苦悩の根元が一念で破れる。


そして、この世でどう生きるか、生きる手段、
家をたてても、オリンピックで優勝しても、
どんなものを得ても、心が本当に奥底から喜びが満ち溢れる、
そんな体験はなかった。

そういう私たちに、本心へと光が差し込むのです。
明るい、大安心、大満足の心に必ずなれるのです。

これまで部会を聞いてきて、私たちが、日常生活で、
あれをやりたいこれをやりたいと手を出して満足しようとしているものでは、
上の心を見たそうとしているに過ぎなくって、
私たちの心の構造上、本当の満足なんてやってきようがないわけです。

どうしようもない心の闇をみんな抱えているから、生きていて、
道端を歩いていて、見た花がきれいだったらうれしい、
今日の天気がからっとしていたら元気、というように、
そういう小さな変化とかそういったものに、幸せを見いだそうとして、
自分で自分の心をだましげんきづけているだけなんです。

どれだけ花火をうちあげても心は明るくなれないのです。
その暗い心を必ず明るくして見せるという力を
無碍の光明と言われているのです。

それはどういうはたらきがあるのか、
また続けて話を聞いてもらいたいと思います。

 

true-buddhism.com

 

本当の仏教は何回救われる?

本当の仏教は「二益法門」と言われます。

 

二度の臨終・二度の葬式を教えられています。
根拠として、蓮如上人の 御文章のお言葉があります。

問うていわく、正定と滅度とは一益と心得べきか、またニ益と心得べきや
答えていわく、一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。
次に滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり。

 

これは「二益法門」といわれる教えです。

「法門」とは「教え」ということで、
「ニ益」とは「現益」と「当益」の二つをいい、
これを「現当ニ益」といいます。

 

「現益」
まず、「現益」とは現世の利益ということで、
生きている現在、受ける幸せをいいます。

 

これについて、『和讃』に

南無阿弥陀仏を称うれば、
この世の利益きわもなし

流転輪廻の罪消えて、
定業中ようのぞこりぬ

とおっしゃっています。

阿弥陀仏の本願に救われた人は、生きている現在、
この世で数限りない幸せが受けられるということですが、
これについて、教行信証の中で親鸞 聖人は
「現生十種の益」として教えておられます。

真宗聖典P351)
金剛の信心を獲得するものは、横に五趣・八難の道を超え、
現生に十種の益を獲る。

この中で最後の「入正定聚の益」は「総益」ともいわれ、
他の九つはここにおさまるといわれます。

そして、蓮如上人が 御文章で「正定と滅度」とおっしゃっている
「正定」とはこの入正定聚の益ことです。

 

では、この「正定聚」とはどういうことかといいますと
「正しく定まった人々」ということで、
仏に成ることが定まった人達をいいます。


仏教で「さとりの52位」ということが教えられていますが、
そのさとりの位で一番上、52段目が仏のさとり、仏覚です。

この上がないさとりのくらいですから「無上覚」ともいいます。
それに対し、私達はなんのさとりも開いてはいませんから、一番下に
いるということで、私達と仏様とでは52段の差があるということです。


このさとりの位が一段違うと、どのくらい境涯が違うかといいますと、
我々人間と虫けらほどの智慧に違いがあるといわれます。
ということは、52段も違う仏様と我々では、大変な違いがあるということです。
そして、仏のさとりから一段下、51段目のさとりを等覚といい、
この位に当たるのが「正定聚」なのです。
つまり、もう一段で仏という位です。


そんなところに一番下から一気に高飛びして入ってしまうというのが
「入正定聚の益」です。

これは大変な喜びであり、驚きです。

親鸞聖人はその驚きを「不可称、不可説、不可思議信楽
といわれました。

これを「横超の直道」ともいい、
「横」とは弥陀の本願力をあらわしますから、
そういう身に救う働きが阿弥陀如来の本願にあるということです。

これが、生きている現在に得る幸せ「現益」です。

 

「当益」
次に「当益」とは「当来にうる利益」ということで、
未来世、死んでからえられる幸せです。

これは誰でも彼でも得られるものではありません。
生きている現在、正定聚の身に救われた人だけが、
死んでから得られる幸せです。

死んで極楽に生まれ、弥陀同体のさとりを開かせて頂ける
という幸せをいいます。

誰でも彼でも念仏さえとなえておれば、
「死んだら極楽、死んだら仏」というのは間違いです。

生きている只今、弥陀の本願力によって、
51段高飛びさせて頂き、正定聚の位に入った人だけが、
そういう幸せに、死んだらなれるのです。

これが、死んでから未来で得る幸せ「当益」です。

このように、本当の仏教では、2度救われるということです。