本尊というのは、根本に尊ぶべきもの、ということです。
お仏壇の中に何が安置されているかということですね。
蓮如上人という方は、親鸞聖人の教えを絶対正確に、迅速に、
多くの方に伝えた方で右に出るものがないという方です。
一器の水を一器に移すがごとく。
そういうことが分かるお言葉があります。
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蓮如上人へある人申され候、開山の御時のこと申され候、
「これはいかようの子細にて候」と申されければ、仰せられ候、
「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山のめされ候ように御沙汰候」
と仰せられ候。
(御一代記聞書159)
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親鸞聖人が、どうしてこのようにされたのか私も分からない。
しかし、親鸞聖人のなさったようにするのがよいのだと。
絶対正確というのが一番大事です。
では、親鸞聖人はどうであったのか。
蓮如上人が絶対正確に伝えられた親鸞聖人の教えはどうであったかというと
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更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、
われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。
その他は何を教えて弟子といわんぞ」と仰せられつるなり。
されば、友同行なるべきものなり。
これによりて聖人は、「御同朋・御同行」とこそ、かしずきて仰せられけり。
(御文章一帖目第一通・或人いわく)
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珍しい、親鸞聖人が編み出した、作られた教えはないんですね。
プロレスなんかで、よく新技といわれますが、
そういうものはないんですね。
「ばかり」というのは、ものすごく強い言葉で、
それ以外にないということです。
「御同朋・御同行」というのは
同朋というのは兄弟。
ともに阿弥陀仏の弟子ということで、御の字をつけられています。
ここで分かるのは、親鸞の弟子ではないということです。
皆、阿弥陀仏の弟子、釈尊の弟子。
仏弟子だから差はないということです。
お釈迦様の教えを、そのまま伝えているのだから
親鸞の弟子ではないということです。
同様の趣旨のお言葉が、『歎異抄』第六章にもあります。
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専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らんこと、
もってのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候。
そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ、
ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申し候人を、
「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。
(歎異抄第六章・弟子一人も持たざる事)
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親鸞聖人という方は、あれは俺の弟子とか、俺の子分ということを
ものすごく嫌われたんですね。
権力争いのようなことがあっては絶対ならないと。
仏法を聞いている人たちで、あれは私の弟子、あれはあいつの弟子などということは、
とんでもないことだと、腹を立てておられます。
私の力でその人を救うことができるなら、弟子と言うこともできようが、
ともに阿弥陀仏の力、仏法の力で救われるのだから、
私の弟子などと言うことはとんでもないことだと。
大変ご立腹です。
皆、阿弥陀仏の弟子であり、釈尊の弟子なんです。
仏法以外のことを絶対伝えてはならないという思いを
強く持っておられたんですね。
親鸞聖人は、釈尊の教えをそのまま説かれた方です。
その親鸞聖人の教えを、そのまま説かれた蓮如上人がどうおっしゃっているかというと
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他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。
当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
(御一代記聞書70)
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他流というのは、浄土宗のことです。
先生は以前、地獄行きの者達とも言われました。
他へ流れていくというのは、地獄へ流れていくんですね。
また、迷信、邪教、聖人以外のすべての宗教ともおっしゃったことがあります。
他流では、
「名号よりは絵像がよい、絵像よりは木像がよい」と言うんですね。
絵像というのは阿弥陀仏の絵のことです。
木造というのは金ピカの阿弥陀仏の仏像なんですね。
対して、当流というのは浄土真宗のこと。
極楽へ流れてゆくもの。
「木像よりは絵像、絵像よりは名号」
このようにハッキリ書かれています。
東西本願寺はじめ真宗十派は、ほとんど木像なんですね。
ここにはこう書いてあるけれども、結局一緒なんだと言います。
一番大事な御本尊から、間違っているということなんですね。