結論からいうと、仏教は後生を否定する『断見外道』でも、後生変わらぬ魂が存在するという『常見外道』でもありません。
根拠として、ブッダは、『阿含経』に
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」
と説かれています。
断見外道とは、後生を否定する考え方です。
無の見ともいいます。
死後はないという見解。
唯物論の人たちや、理系の人に多いです。
それを断見外道という。
魂がなくなる。
死んだ後無になるという考え方は外道です。
因果の道理に外れています。
これが無の見。
どうして死後はないという考え方は因果の道理に外れ、外道かというと、
『阿含経』に、「因果応報なるが故に来世なきにあらず」と教えられています。
因果応報というのは、因に応じた、結果が現れるということです。
この世の一切のものは原因に応じた果報が表れます。
それは絶対間違いありません。
だから来世がないと言うことはない。
「来世なきにあらず」というのは二重否定ですから、来世があります。
因果の道理は間違いありませんから未来、死んだ後がないと言うことはおかしいじゃないか。
これちょっと考えたら分かります。
因果の道理を認めるならば、すべての結果には原因があると認めるならば過去世がないとおかしくなる。
なぜなら生まれたというのはすでに結果です。
原因は結果よりも必ず前にありますから、過去世がないとなるとおかしくなります。
また現在作った種蒔きがこの世で表れない場合はどうなるでしょうか。
この世でなければ死んだ後表れなければおかしくなりませんか。
分かり易い例が一人を殺して、今では死刑にはなりませんが、ある通り魔が8人殺しました。
そんなものが死刑にならずに精神障害で無罪になったらおかしいと思います。
いや、いいじゃないかとなって納得できるでしょうか。
殺された子供の親からすれば当然できません。
死刑でも許せないと、もっともっと苦しんで欲しいとテレビでもいうくらいです。
そういう思いになるといっても、わからないでもないです。
実際死とは大変な苦しみです。
蒔いた種に応じて結果を受けて当然です。
だから因果の道理が分かれば、因果の道理に間違いないから、来世がないと言うことはありません。
因果の道理から行っても死後はないというのはおかしいことになります。
これが無の見、断見外道、つまり唯物論を徹底して破邪されています。
では死後はあるのでしょうか。
死後はありますが、一般的に思われているような死後ではありません。
みんな思っている死後は仏教では常見外道といわれます。
これを有の見ともいいます。
仏教から言えばそれも間違いです。
仏教は霊魂を否定します。
仏教は無霊魂説です。
霊魂というのは、固定不変な魂のことです。
これを仏教でアートマンと言います。
アートマンというのは、常一主宰のものです。
常一主宰の常一は、常にひとつのもの。
主宰というのは、主となってつかさどる、きりもりをするものです。
これを常一主宰といいます。
死後はあると言っている哲学者はみんなそうです。
真実が、分かりません。
仏教で教えられている永遠の生命は、阿頼耶識です。
阿頼耶識を天親菩薩は
「暴流の如し」の、といわれています。
暴流というのはボールと読みますが、瀑布のことです。
遠くから見ると激しい川の流れも一枚の布にしか見えないようなものですが、それは錯覚です。
生滅を繰り返しながら続いているのが阿頼耶識です。
始めのない始まりから、終わりのない終わりへと川は流れていくように物凄
い勢いで流れています。
それを私たちは遠くから見ると一枚の布にしか見えません。
死後も変わらない魂が続くという有の見を破られた根拠が、
「無我なるが故に常有にあらず」
諸法は無我であるから固定不変なものは何一つない。
だから物理に置いても最も小さな粒子というのはありえません。
一番小さな物質、原子、分子、更に細かくしていくと、レプトン、クォークになります。
ではそれを分割するとどうなるかと、どこまでも続いていきます。
固定不変なものは何もありません。
もし固定不変な魂があるというのなら諸法無我に反します。
変わらないものがある、と言うのは諸法無我に反します。
有の見と無の見というのは、古今東西のすべての人々は綺麗にこの二つの考えに分かれます。
しかし真理はこの両極端を越えたものです。
人間の相対智が生みだしたのがこの二つですが、仏教では、どちらも間違いとぶったぎられています。
仏教が真実であることがこういう事からも分かります。
諸法は無我だから、固定不変な魂がある、有の見は間違い。
信心決定するとハッキリ分かります。
人間観、世界観が変わります。
信心決定した時、夢が夢と分かります。
そう言う世界に出させていただけます。
有の見と無の見は、どちらも間違いだと言うことです。
真実の世界は有無を離れた世界です。
『教行信証』真仏土巻には、
「西方寂静無為の楽(みやこ)には、畢竟逍遥(ひっきょうしょうよう)に
して有無を離れたり」と教えられています。
有無を離れた世界です。
有無を離れた世界が真実。
人間は相対智しかないから。
右か左しか分かりません。
仏教の言葉で言えば、中道がわかりません。
中道については、以下の記事が参考になります。
『教行信証』化土巻には、
「断・常の見を離れて因縁法を信ず」
と説かれています。
断見、常見を離れて大宇宙の真理、因縁法を信じるということです。