仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

順境と逆境のときの求め方

順境の時はの心、
逆境の時は怒りの心で
聞けないと言われます。

順境の時は逆境が来たら真剣になれると
思いがちですが、そうではありません。

又逆境の時、この問題が解決できてから求めますと
いう人がありますが、
そんな風には行かないときばかりです。

今の立場で力一杯求めるのです。
求めにくい、火の河水の河が邪魔して仲々進めません。

逆境なら逆境のままで発奮して頑張ります。
順境になれば逆境になればと言っている間に
後生はやって来ます。
今の立場で精一杯求めるのです。

もう少しで何かの試練が始まる、という場合でも、
試練の真っ最中で臨終が来るかも知れません。

だから苦しい中でも仏教講座聴聞 にいきます。

後生の一大事は何一つ待ってくれませんから
いつ試練がやってきてもいいように
準備をしておいて、
仏教講座にもできるだけ行きます。

 

裏切られる人生の生き方

人生は頼りにしている物に裏切られます。

別の何かを探し、すがり、裏切られ、
探し、すがり、裏切られ
を繰り返します。

例えばマラソン解説者の高橋尚子という人がいます。
オリンピックで金メダルをとって
国際大会。
紅白の司会なんかして少し太ります。
ライバルが出てきて、体重減らして、・・・・。
そして、やった!
でもその喜びは続きません。

体力が衰えます。
金メダルもあるけど、色あせちゃったわ、と引退して
ラソンの解説者になります。

苦しみ悩みの人生では、目の前にある物しか見えません。
船が見えません。
どうしてでしょうか?

見えないとはどういう状態の時かというと
苦しいとき、暗いときです。
海が暗いのです。
真っ暗な海で見えません。
目の前にきた物しか分かりません。
船があっても。
難度海とは暗い海なのです。
だからこれを無明海とも言います。

教行信証には、
「しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し」
と書かれています。

無始よりこの方、一切の群生海。
全ての人はずーっと丸太に捕まって、裏切られ、信じては裏切られして、
次の世界へ入っていきます。

暗い世界が、船に乗ったとき、明るい海に変わります。
波は変わりません。

闇が破れたら、明るい海になります。
闇が破れると、大悲の願船にのる、ということです。

だから、教行信証冒頭に言われている
難思の弘誓は難度の海を度する大船
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
の2行は同じ意味です。
破れたときが乗ったときです。
晴れないから真っ暗で苦しみます。
晴れると、明るい楽しい生き方になります。
波は変わりません。

船に乗るとは明るくなったと言うことなのです。
これが仏教のすべてです。

その本願をブッダはたった一つ説かれて、
親鸞 聖人が大悲の願船を明らかにされて、
そこに乗るために、因果の道理を教えられたのです。
一切経とは19願を教えるために説かれた、
方便なのです。

因果の道理と阿弥陀如来の本願

阿弥陀如来の19願は、わかりやすく言うと
「善をせよ、助ける」
ということです。

これは方便ですが、
因果の道理は方便ではありません。

善をせよ、というのは方便願です。
「善をせよ、できないけどね」
ではまずいから、
その気にさせるためです。

本当はできないことを知らせるためのものだからです。
因果の道理は大宇宙の真理です。
18願まで導かんがための方便です。

因果の道理を方便といってはなりません。
阿弥陀如来 の本願も因果の道理に反するものではありません。

善悪を越えた世界ですが、
因果の道理の
善因善果
悪因悪果
自因自果

で知らされるのは、善のできない、まことの自分です。
因果の道理では私達は救われません。

こういう真理がだとしたら助かりません。
救いがありません。
地獄しか行き場のないのが私達です。
深く深く沈みます。

船に乗せれば、石は沈みません。
沈む自性のままで救うには大きな船が必要です。
船が縁です。

とてつもない業因を抱えた私達ですから
どでかい石にはどでかい船が要ります。
大きな船、大悲の願船、難度海を度する大船です。
それが18願です。

19願、20願は18願へ導く方便ですが、
因果の道理を方便といってはなりません。

船は因果の道理に反しません。
因に縁が加わって、水に浮かびます。
因果の道理を曲げているわけではありません。
よくふまえておいてほしいと思います。

ウソも方便?

仏教では、真実と方便は一対です。

方便は真実ではありません。
仏教では真実に近づけるものを方便といいます。
だから、真実ではありません。

真実に近づけるためにどうしても必要なものを方便といいます。
しかし、ウソも方便といわれるように、
方便はウソということではありません。

真実を目的とすれば、
方便が手段です。

ちょうど向こう岸を目的地だとすれば、
方便は、イカダのようなものです。

イカダがなければ向こう岸へたどりつくことはできませんが、
イカダに乗りっぱなしでも向こう岸へ渡ることはできません。

因果の道理は大宇宙の真理、三世十方を貫く、仏教の根幹。
因果応報ということです。
それにのっとって説かれたのが生きる目的です。

手段が目的ではありません。

 

仏教の根幹をふまえた真髄

ブッダの説かれた一切経には、因果の道理を根幹として
厳しい修行によってさとりを開く教えが
たくさん説かれています。

その中、浄土三部経には、
すべての人を無条件で救うとお約束された
阿弥陀如来の本願が説かれています。

ブッダの本心は、浄土三部経にあります。
阿弥陀如来 の本願にすくわれるのが本当の生きる目的です。
それは難度海を度する大船に乗る。
そのための因果の道理です。

私たちの深い深い、迷いの心、外道の心を調機誘引されます。
お釈迦さまが35歳で仏のさとりを開かれて、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間の長い時間。
一切経のほとんどすべてです。

阿弥陀仏の本願に救われるのに大事な教え、根幹です。
どこに向かって貫かれているかです。

阿弥陀仏の本願にあわせるために必要です。

これを因果の道理に反する者は外道です。
因果の道理を説かなければ仏教になりません。
しかし阿弥陀仏の本願を説かなければ仏教の真髄になりません。

因果の道理を知らされて、その上で
仏教の真髄に入らないといけません。

私たちの運命は自業自得

私たちの運命は因果の道理によって決まります。
因果の道理は仏教の根幹です。

それはは、因果応報の道理です。

まいた種に応じた結果が現れるんですよ。
私達の体とは、
食べた物に応じた体になります。

カップ麺ばかり、野菜ばかり、
肉ばかり、そればかり食べる人とかです。
食べた物が自分のものになり、体を作ります。
他因自果ではありません。
私達の行いが私達の運命を作ります。
論ずる必要がありません。
やった行いに応じて人生を作ります。

自業自得なのです。

哲学とは死の準備(ソクラテス)

哲学はどこから始まったのかというと、
ソクラテスの言葉に、
『哲学は死の準備である』
という言葉があります。

アリストテレスには
『哲学は驚嘆から始まる』
という言葉があります。

死に対する驚嘆です。
死というものと真面目に向き合うのが哲学なんですね。

死んだらどうなるの

死と真面目に向き合う学問が哲学なんです。
それが全ての学問の出発点なのです。

つまり人間が本当に考えるべき事は
この死の問題なんです。

機械には考えることができません。

どんなスーパーコンビューターでも
自分の死のことなんか考えません。
生きているという実感さえありません。
元々生き物ではなくて機械なんだから。

人間と機械はどこが違うでしょうか。
人間は、死を考えることができる。
これはどんなスーパーコンピュータでもできません。

そこが違います。
その死を考えて、死を克服したときに
初めて人間が人間になるのです。

逆に言えば死を考えない人は
本当の意味で人間ではないのです。