仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

信心決定するとどう心が変わる?

 

廻心ということについて。

浄土真宗を開かれた親鸞 聖人のお言葉を美しい文章で書かれた歎異抄にこのような言葉があります。
「一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし」
歎異抄

廻心というのは、心ががらっと変わるということです。
信心決定と同じ事です。


心ががらっと大変わりするといっても、
では、どういう心がどういう心に、
がらっと大変わりするのでしょうか。

それは、後生暗い心が後生明るい心になります。

後生とは死後のことです。
死んだらどうななるかわからない心が後生暗い心です。

後生暗い心が因となって、後生の一大事が起きます。
後生明るい心が因となって、報土往生できます。

これが、仏教の教えであり、浄土真宗の教えです。
後生暗い心が信楽になる。
これが廻心です。

山も山道も昔にかわらねど変わりはてたる我が心かな

絶対の幸福になると心がガラリと変わります。
これを歌った歌があります。

「山も山道も昔にかわらねど変わりはてたる我が心かな」
弁円

ここに、変わらないものと、変わりはてたるものがあるぞ
と教えられています。

この歌を歌った弁円 は、
昔は板敷山で親鸞聖人を不倶戴天の敵と狙っていました。
山伏のどうみても変なヘアースタイルでした。
唱えているのは変な呪文です。
そして、親鸞 聖人の命を狙っていました。
聖人憎しいっぱいの心。
そのような自分でした。
道も山も変わらないけど、いや〜不思議なことだな。
今は親鸞聖人を世界一尊敬している。
毎日懺悔、毎日感謝。
それほど変わり果てた。

ちなみに、蓮如上人の御文章には「廻心懺悔」というお言葉が
たくさん出てきます。
特に報恩講のところです。
喜びに満ちあふれ、心多歓喜の身にいかされて、懺悔感謝の心です。

「弁円が明法房になりにけり変われば変わるものにこそあれ」
この歌には上の句があります。

「三味線の皮をネズミが噛むそうな変われば変わるものにこそあれ」

つまり、昔はネズミがやられる方でした。
ところが猫が皮となったら、猫がやられ役になります。
ネズミにかまれます。

がらっとかわってしまった。

弁円 はかつては、怒り恨み親鸞聖人をつけ狙っていました。
ところが、廻心懺悔した弁円 は、大安心大満足の心になって、
念々称名常懺悔となって、限りない法悦を味わいます。
そこで、法名に明法房という名前を頂いたのです。

私は死が怖くない?

私は死が怖くないという人があります。
それは、まだ死ぬと思っていないからです。

『横からみた赤穂浪士』という本があります。
この本には、大石蔵之助が切腹できずにいる姿が描かれています。

浅野内匠頭の刃傷事件が起きて、
お家取り潰しになった時、みんな切腹しようと言い出しました。

その会議の議長をしていた大石は
「吉良はまだ生きている」
の名言とともに、その切腹を止めたんですね。
切腹ならいつでもできる!」
といっていました。

その大石が、死ねないんですね。

ところが、大石内蔵助死ぬのが怖いとなると、
臆病で切腹できなかったといわれて
名誉に傷がつきます。

それを見兼ねて介錯人が首はねました。
介錯人というのは、武士の情けなんです。
普通、刀を刺したら転げまわるんです。
画鋲踏んだだけでも叫びますよね。
だから刺すと同時に後ろから切ります。
腹を刺すという痛みもですが、
実際死に直面すると、死の恐怖に耐えられないのです。

 

ジャネ−の法則

ジャネーの法則」というのがあります。

時間の流れがどんどんはやく感じるようになるという法則です。
統計的にみると、あくまで主観的に感じるもんだけど、
0歳〜20歳の年に比べると、
20歳〜60歳の1年間はそれまでの4ヶ月くらいにしか感じられません。
そこからいうと、
20〜60の40年間は、0〜20の感覚でいけば13年にしかなりません。
20歳というのは、もう人生折り返しです。
もう半分終わったといっていいのです。
東日本大震災からもう7年。
AKB48の一番若いのはまだ小学校入ってなかったんだよ。
小学校6年間より、短く感じます。 

邯鄲の夢のように、人生は儚く消えて行きます。

諸行無常です。いつ死ぬかわかりません。

生きる目的を果たすまでに残された時間はもうないのです。

 

諸行無常については以下のビデオでも詳しく説かれています。

宮本武蔵の剣法

宮本武蔵といえば「剣聖」です。

吉川英治の小説も、それをマンガにしたバガボンドも大ヒットです。

彼は一度も負けませんでした。
負けてたら「剣聖」なんて呼ばれません。
武蔵は多人数に囲まれることもありました。

日本刀というのは、精巧にできてて、
何人か切ったらもう切れなくなる。
さらに、重い。
多人数全部を相手にはもう勝てません。

 そんな時、武蔵はどうやって勝ったのかというと、
まず一番強い相手を見抜きます。
そいつを一刀両断します。
周りのやつはビビります。
ビビった瞬間、ナンバー2に切り込みます。
するとみんな逃げて行きます。
そうして多人数も乗りきりました。

私達にはとってはどうなるでしょうか。
「仕事」「病気」「人間関係」「借金」・・・。
次から次にいろんな苦しみはやってきます。
しかし、私達が本当に解決しなくてはならないものは何か。
そういうものがある。
それが「死の解決」であり、
「苦悩の根元の解決」です。

それ以外にも解決しなくてはならないのは目白押しです。
しかし、真っ先に解決しなくてはならないのは「苦悩の根元」です。
これさえなくせばもう障りにならなくなります。
本当にやっつけなくてはならない親分は「苦悩の根元」です。
そういうのを解決しようとせずに「仕事」に向かいます。

でもそういうものは仮面ライダーでいえばショッカーみたいなものです。
そんなのばかりに全精神力を使い果たしてしまいます。
ザコに「や〜いヘッポコ」とか言われてカチンときて
刀もって追いかけて行きます。
そんなのじゃだめです。
親分はたいてい隠れています。
それを暴き出して一刀両断です!
ザコの挑発にのっていてはだめです。

一番の親分を見極めることが大事です。

私達も、苦悩の根元を見極めることが大事です。

それが仏教に教えられています。

科学に哲学はない

アインシュタインはこう言っています。
科学 というのは「〜だ」とは言えるが
「〜であるべきだ」ということに答えは持たない』

チョークは科学 によって作られた道具です。
これで何を書くか「素敵。頑張ってね」
こう言われると、張り切って頑張ります。
「何やってんだ。バカ」
こうなとふさぎ込んでしまいます。

「チョークは〜でできている」は答えられても
「チョークは〜に使われるべきだ」とは答えられません。
どこへ向かうかという方向性や目的は、
科学 には一言も言えません。
科学哲学はないのです。

このことを言ったアインシュタインの有名な言葉がもう1つあります。
科学 なき宗教は盲目であり、
 宗教なき科学 は不具である』

私たちはどこへ向かって生きるのか
なんのために生きるのか
という生きる方角とか最終的な生きる目的が必要なのです。

『君たちはどう生きるか』はベストセラーになるほど
みんなよく考えていますが、これは生きる手段です。
生きる目的が重大な盲点になっています。

 

哲学なき科学者の悲劇

オッペンハイマーマンハッタン計画の責任者です。


マンハッタン計画とは、アメリカのやった原爆製造計画のことです。
ナチスがやってたんです。
それに追いつけ追い越せ。
国家予算どれだけ使ってもいい。
アメリカ中の学者を総動員しました。
その責任者です。
若干30歳。

天才科学者の名を欲しいままにしていました。
試行錯誤を繰り返し、ナチスは途中で放棄したんだけど、アメリカは成功しました。
アリゾナで実験。
きのこ雲ができた。
爆風がすべてを吹き飛ばす。
それを見たオッペンハイマーは、歓喜の声をあげました。
その時の写真が残っています。
研究者が集まっています。

その真ん中で右手を天高くつきあげているのが彼。
ほら、ロッキーみたいな感じ。
原爆が使われたのは広島・長崎。
その惨状が聞こえてきます。
聞くたび、彼はふさぎ込んでしまいます。
数年後、大学で講演会を依頼されてそこで言った言葉です。
「私の手は血塗られている」
50歳の彼は70歳の老人にみえた。
廃人でした。
哲学なき科学者の悲劇」です。

科学 はいいものか悪いものか。
どっちでもない。

 

科学 は、私達の生活を便利にもしたがその反面、新たな恐怖に陥れました。
科学 はあくまで道具です。
それを使う人間によってよいものにも悪いものにもなります。

 政治も経済も科学 も医学もみんなそうです。
それらのものをどんな目的に使うかによって、技術の価値はかわります。

 また、どんな生き方をしても、それは生きる手段ですから生きる目的がわからなければ、生きる意味がなくなってしまいます。