仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

日本人が一番幸せを感じるのはどんな時か

日本人が一番幸せを感じるときは、どんな時か
アンケートを取ったら、こういう結果でした。

1、寝るとき。
2、食べるとき。

これには、パソコンとか、携帯なんて関係ありません。
寝るとき、車をかぶって寝る人なんかいません。
大体、重くてつぶれてしまいます。
食べるときに、パソコンなんてたべられません。

最近ね、ランチメイト症候群ってのがあるんだって。
産経新聞に載っていた。

OLのあいだにあるみたいなんだけど、
お昼ごはんのとき、みんなと話ができるかどうか不安で一人で食べます。

図書館で食べたり、トイレで食べたり・・・。
また、明日一緒にお昼ご飯食べましょうって、アポをとらねば気がすまない、
とか。

とにかく、不安、傷つきたくない。
だから、自然と人間関係は希薄になっていきます。

これで大丈夫でしょうか?

ブッダの親不孝

 ブッダは一国の太子として王宮に生れたが、
“なぜ、人生に生老病死の不幸や災難があるのか”

 これを遁れる道はないのかと考えあぐねた末、
永遠に苦悩を離れる道を求める為に、
出家するしかないと決意し、
父の浄飯王に必死に訴願されるのであった。

 すると父王は、
“何が不足でこの城を捨てるのか。
後継者がいなければ、この国はどうなる。
お前一人の勝手は許されぬ”
と隣国一の美女、ヤショダラ姫を迎え入れ、男子を出生させる。

太子は小さい時から生老病死で悩んでいましたが、
親の浄飯王は子供の悩んでいる姿をみて、
ヤショダラ姫を連れてきたり、
四季の御殿を与えたりしましたが、とんちんかんです。

まさか子供が生きる意味に悩んでいるなんて知りませんから。

 ブッダは、出家するにしのびない親や、
妻に加えて子供までがふえたということで名前をラゴラ
訳して障害物と命名されている。

 どうしても許されぬ父王に釈尊は、三つの条件を提示された。

“私の願いは三つです。この条件さえ適えて下さるなら、
出家を思い止まりましょう”

“三つの願いとは、何か”

“一には、私が生涯このままの若さでいられることです。
二には、私が一生病気で苦しむことのないことです。
三には、私がいつまでも死なないことでございます”

“そんな無茶な願いをきける者がこの世にいるか”
 憤然と父王は立ち去った。

“これはもう非常手段をとるしかない”

 ブッダは、秘かに城を脱け出し、不孝な入山学道を選択されたのであった。

私たちのことでいえば、
家族は私達が仏教を聞いている理由を
何か仕事に失敗したとかで聞いているのだろうとか
そんな程度ぐらいにしか思っていません。

どんなに世の中が進歩しても
人間が死んで行かないといけないという
厳粛な事実は変わらないのですから、
そんな人生なんのために生きるのか生きる意味は何かということを
私達ははっきりさせる為に仏教を聞いているのですから。
世間では中々分かってもらえません。

宗教は視野が狭くなる?

本日は、宗教偏見のある人のよくある批判について考えてみましょう。

偏見バリバリの人もいますが、だいたい平均的なパターンの批判はこれです。

「なんでお前は仏教の話ばかり真剣に聞いているのか?
 宗教をやっていると、考え方が狭くなる。
視野が狭くなるのではないか!!」

非常にこの方向から批判はよくあります。

確かに宗教全般にはいえるのかもしれませんが、こと仏教に関してこの批判が向けられるとすれば、仏教に何が教えられているかあまりよく知らない、視野の狭い人がよく言ってくる事です。

私達としてはどう心得ておくべきでしょうか?

いろんな答えがあると思いますが、精一杯視野を広げるといいましても視野を知る目的を知らないといけないという答え方もできます。

色々な情報を集めるのは、視野を広げる為とも言えます。
見聞を広めると言ったり、知識を豊かに豊富にするとも言えます。
勉強したり、色々な活動でいろんな経験をして見分を広めたりします。

しかし見聞をせっかく広めたところでその見聞を何に使うのかということが大事なんじゃないですか?

その見聞や視野を何に使うのか?

究極的にいえば、本当の生きる目的生きる意味を知らなければ、見聞を広め、視野を広げる意味はなくなるでしょう。

仏教には本当の生きる意味が教えられていますので、視野を広げることが意味を持つには、仏教の教えを知る必要があります。

 

 

 

人間の存在意義

一生懸命生きることイコール良い事というのが
古今東西全人類の大前提になっています。
この上に政治経済科学 医学がなりたっています。
この大前提が崩れますと、
政治経済の存在意義も人間の存在意義も崩れてしまいます。

しかし現代の日本、自殺で年間三万人もの人が亡くなっています。

阪神大震災は、非常に大変な災害でしたが、
亡くなったから6000人です。
大変でしたが、年間の自殺者三万人です。
五倍です。
五回阪神大震災があったようなものです。
自殺して行く人達は一生懸命生きて行く事が素晴らしいということを
否定した人達です。

一生懸命生きることは良い事というようなものは根拠にはなりません。
簡単に自殺者に否定されてしまいます。
毎日毎日同じ事の繰り返して苦しいことばかりですが、
そして死んでいく人生ならば一生懸命生きることが素晴らしいこととは言えません。

道徳や倫理には親になぜ感謝しないといけないのか?
なぜ苦しくても生きていかないといけないのか?
なんのために生きるのか
生きる意味に答えることはできません。
なぜ親孝行をするのか、この世に生んでくれた親に感謝しないといけないのか?

ハッキリと明らかに根拠を挙げられているのはブッダ親鸞聖人だけです。
生きる意味は学校でも習いませんし、学校の先生も親も会社の上司も、誰も知らない事です。

 

仏教で泥棒とは?

仏教偸盗というがあります。

偸盗とは盗みを働くということですが、
偸は、こそこそ盗む。
盗は堂々と盗むと言う意味があるそうです。

いずれも盗みを働く。泥棒です。

これが偸盗罪ですが、
この言葉は不与取ともいいます。

与えずして取る。
これがもとの言葉です。
偸盗罪というのは与えずして取る。
自分が与えていないのに取ることを偸盗罪といいます。
これが偸盗なんですね。


だから、身分不相応なものを身につけるのもまた偸盗罪といわれます。

徳がないのに、ベンツに乗るとか。
そんなのないと思いますけど。
そういうのをいいます。
身分不相応。

徳がないのにそういう身分不相応のものを身につけたりすることを
それも全部偸盗罪になります。

実際もし、仮にヒトラーが生きておって
平穏無事な生活をしていた場合、
あんな生活していていいのかとみんな思います。
600万人殺しながら平穏無事に生きていて、贅沢な暮らしをしています。
おかしいですね。
実は私達もそうなんですね。

毎日恐ろしい殺生罪を造りながら、
衣食住満たされた生活をしておりますけれど、
良い服も着れて良い食事もしています。
本当はそんなことできるような己じゃないんです。

だから本当はみんな偸盗罪つくっていると言えるんですけれど。
手に掛けて盗まなくても実際身分不相応のものを身につけていたら
偸盗罪ですし、心で欲しいなあと思ったらそれも偸盗罪になります。

たちの悪い嘘とは

仏教で妄語というがあります。
これは文字通りですね。
妄語とは
このでも誰でも聞いているように、
たちの悪いと、そうでないがあります。

問題はこれ心がどうかなんですね。
方便としてのは、大事なことがあります。
をついて人を苦しめる、欲望怒り愚痴から出てくるです。

人を苦しめる、人に迷惑をかけたり人を苦しめたりするはもちろん悪いです。
人を真実に導くときに必要なはあります。

分かりやすくいえば例えば医者が本当はガンであっても
その患者のことを心配していや胃潰瘍ですとをつく場合があります。
それは相手のことを思って、相手のことを苦しめる為じゃありません。

相手の幸せを念じてをつくことがあります。

どういう心でこう言うことを言うかですから、
でもたちの悪いとそうでないがありますね。

そう言うことを私達は知らねばなりません。

浄土真宗で罪に大小がないのはなぜ?

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
罪に大きい小さいはないといわれています。

もとより罪体の凡夫大小を論ぜず、
三業みな罪にあらずということなし
口伝鈔に


これを私たちはどのように理解すればよいでしょうか。

これはちょうど人間には美しい人、醜い人あるとすれば、
レントゲンかける前は美人だとか、
肥っているとか痩せているとか問題になりますけど、
ひとたびレントゲンにかけてみたら、
どんな美人で、目が綺麗で鼻が高くてもみんな醜い骨の羅列。
醜い骸骨しか映っていないんですね。
あの骸骨みて、いや美人だね、といや、ハンサムだねと、
全然言えません。

みんな、あのどくろなんですよ、
鼻が高いも低いも、二重瞼も関係ないわね。
みんな骸骨なんですから。
それと同じなんです。

仏教を聞いて、絶対の幸福になった瞬間
知らされた自分はみんな同じなんです。

絶対の幸福の世界にでるまでは人に差があると思っているんですね。
ちょうどろうそくよりもランプが明るいじゃないか、
ランプよりも電気が明るいじゃないかと自慢しています。

私はあの人よりは善人だ、
あの人よりは私はマシだと思っているのは
自分の姿がまだ判っていないからです。

また真実に導くには、
当然罪に大きい小さいがあると
教えなければなりません。

これは私たちを決勝点まで導くための方便として説かれましたので。
ただ方便と言っても方便だからウソだというわけじゃないですよ。

これはほんとなんですよ。

方便というのは真実に導くために絶対必要なものを方便と言いますから、
このように教えられて、少しでも悪を作らないように、
廃悪修善、実行していかなければなりません。

実行していって、親鸞 聖人の仰有った、
もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、
三業みな罪でないものはない
という世界に出させていただけます。

だからこれはどっちも正しいです。
どっちもホントです。
ちょうど実際この電気はランプやろうそくよりも明るいですが、
しかし太陽が出たらみんな同じ
真っ暗と言っていいんです。

あの無間地獄でもそうですよ。
みんな八万劫年と言うけれどなんでやと。
二人殺しても八万劫年かと、一人殺しても八万劫年かと。

八万劫年プラス二年とかないんか。
八万劫年プラス一日とか。
どうなんやという人あるけれどね、
そんなこといってるんじゃないんだね。

正式に八万劫年プラス五年とか、そんなんありませんから。
実際は差はあると思うよ。
でも絶対のが知らされたら、
みんな八万劫と言っても良いんです。

この喩えで判ると思いますが、
あなたが普段気がついていない罪悪ですけどね。
気がつかないところで、どれだけ私たちはを作っているか分からない
ということですね。

そんな者が救われるのが浄土真宗です。