仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

面々の楊貴妃

面々の楊貴妃という言葉があります。

楊貴妃というのは、中国の有名な美女です。
他から見れば「何だ、あんな女」とこう思っても、
自分が惚れて自分が妻とした人はその人にとったら絶世の美女に見えるということです。

これは、邪教外道でもいえます。

オウムとか、足の裏とか、客観的には
「何ちゅうもの信じておるのだ」
と思えるようなものでも、
その人は邪教外道を信じていると思って信じている人はありません。

一度面々の楊貴妃の状態になると、自分ではそれに気づきません。

これは外道邪教だけではなく、仏教を知らない人もそうです。
知るきっかけは結んだけど仏教講座に行こうとしていない人も
自分の考えでこれでいい、
仏法なんて聞かなくても、
あれしてこれしてということで精一杯、
自分の考えでこうしていれば幸せになれると思い込んでいます。
その誤りは本人は分かりません。
誰かが教えてあげないといけないのです。

 

本日はブッダがお生まれになったことを祝う花祭りです。
これをきっかけに本当の仏教を有縁の方に教えてあげましょう。

 

 

 

「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず。仏法中の怨なり」の出典

破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず。仏法中の怨なり」
これは、ブッダのご遺言をわかりやすく教えられたもので、
原文は、『涅槃経』に以下のようにあります。

「僧にして法を壊つ者あるを視ながら、
 これを黙視し更に呵責駆遣せざるものは、この僧はこれ、仏法中の怨なり。
 若しよく駆遣呵責せばこれ我が真仏弟子なり」

ここでまず、私たちが心得なくてはいけないのは、
「これを黙視し」、
ということです。
あるいは座視とも言われます。
これは、黙ってみてるだけ。
傍観しているだけ。
座っているだけで何も言わない。
見て見ぬふり、知ってて知らぬふりすると言う。
これをお釈迦さまたいへん嫌われたということです。

卑怯者は自分が可愛いからだ、
ということで最も嫌われるものだと言うことを知っててもらいたいね。
この僧といいますのは、僧侶ですが、袈裟をかけて手に数珠をもっている人ではありません。
僧侶とは真実の仏法を伝える人のことで、仏法者ということです。
真実の教えを知らされたなら、人に伝えずにおれなくなります。
知らされた真実の教えを多くの人に分かち合って、一人でも多くの人に知らせる。

ご縁のあった人に幸せになってもらう。
これが僧です。
その僧が法を壊しているものがありながら見てみぬふりをするものは、これは僧じゃない、それどころか怨であるとおっしゃってます。

もうすぐブッダの誕生日の花祭りです。

これをご縁に、有縁の人に仏教を伝えましょう。

 

仏教を伝える時は結婚相手を紹介するときのように

日本では宗教偏見が大きいので、仏教を学んでいることを家族に話すときに不安になります。

結婚 したいという人を見つけた時、両親に伝えようとすると、悩むようなものです。
反対されたら大変です。

その人との仲を大事にしたい。
両親にも喜んでもらいたいと思います。

そう思ったら悩んで配慮します。

仏教は、本当の生きる意味を明らかにされた人類の知的財産のようなものです。
それを仏教を知らない人に不用意に話をして、変な宗教偏見で誤解させると相手にとって不幸です。
仏教を伝える時は、よくよく配慮して伝えないといけないののです。

仏教をせっかく聞いているのに原点である後生の一大事が抜けていると?

仏教後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決に終わります。

仏教を聞いていても、すべての原点である後生の一大事が抜けていると、今辛くて苦しいとなって、逃げ出したくなります。
そんな状態だと、人間関係が辛くて仏教が聞けなくなります。
ちょっと身体がしんどくなると聞けなくなります。

しかし、死のほうがはるかに大きな問題です。

後生の一大事が心に落ちていないとそうなります。
だから、繰り返し聞かせて頂かなければなりません。

今死ぬと思うにまさる宝なし、心にしめて常にわするな

という歌があります。

これは後生の一大事の事です。
常に私たち求道の原点は後生の一大事以外にはありません。
これが抜けると、いろんな問題が起きてきます。
しかし、死に直面して、後生の一大事を目の前にしたら、吹き飛んでしまいます。

他人の事をああだこうだ言う前に、自分の姿を振り返ってみなければ、進めませんよ。
「誰の人も早く後生の一大事を心にかけて」
と、蓮如上人言われている通りです。

仏教を伝えるのもこの魂の解決の勝縁です。
後生の一大事が知らされると、真剣に聞き求めずにおれなくなります。
助かりたい一心で必死です。
後生の一大事があるからですよ。
この一大事の解決をかけての今度の新勧であるということです。

臨終に知らされる後生の一大事

仏教後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決で終わります。
後生の一大事とは、死んだらどうなるかの一大事のことです。

私たちは、100%必ず死んで行かなければなりません。
誰も関係ない人のいない問題が後生の一大事です。

ところが、ほとんどの人が普段忘れているのが一大事の一大事たるゆえんです。後生のそれが一大事という事を、実際、臨終にぶちあたって一大事を一大事と知らされます。

だから、後生の一大事というのは、解決してもいい、しなくてもいい、
そんな生半可な問題と違います。
そんな、解決しても、しなくてもいい、
そんな事なら、はじめから求めなくてもいい。
そんな問題でありません。

だから、この後生の一大事を求める過程が、
どんなに苦しくっても、辛くっても、
その支障を乗り越えて求めなければならない、
解決しなければならいない、そういう問題なんです。

それが臨終、後生にぶつかって気付かされることです。
でも、そうなってから気付いても遅い、後悔します。

だからブッダは、一日も片時も急げとおっしゃっています。
一分一秒でも急げという事です。

臨終になったら、こうなってしまいますから、こういう状態だから、
一日も片時も急げとおっしゃっているんです。
大げさに言ってるのではないんですよ。
だから、後生の一大事の解決を急げ。
それ一つをブッダは教えていかれた。
そういう問題が後生の一大事です。

ブッダの説かれたことは一つだけ

ブッダの説かれたご説法は、後生の一大事しかありません。

わが身の一大事という事を思い出す為には、3つのポイントがあります。
1つには、諸行無常で、自分は必ず死ななければならないということです。

2つには、自分がしか思えないということです。

3つには、因果応報の因果の道理は大宇宙の真理だということです。

 

ブッダはそのように説いておられるんです。これしかないですから。

これらによって後生の一大事が引き怒るのです。

ところが私たちは、これを1年聞かせて頂いても、2年聞かせて頂いても、おとぎ話のようにしか思えないんですね。
無間地獄、そんなものどこにあるんやと。
おとぎ話のようにしか思えません。
1年聞いてもそうでしょ。
2年聞いてもそうでしょ。

この世のこととなると、命をかけれるんです。
仕事とか、勉強とか、スポーツだとか、旅行とか、趣味に没頭するとか、彼女作るとか、金儲けに走るとか、子育てとか、まあ色々あります。

これさえできれば、この世の極楽、満足のいく人生が送れるんでないか
と思ってやっていることばかりですよ、これらは。
この世のことです。

私たちは、欲望を満たすことには本気になれるのですが、仏教を聞くことには本気になれないので、いつまでも苦しみが終わらないのです。

ですから、あなたが仏法を聞いて、この求道聞法の道のりが苦しくなったとき、それは欲望のことは考えられるけど仏教のことは考えられないからですから、思い出されたらいいのは後生の一大事です。

 

 

煩悩をどうすればいいのか

すべての人は、煩悩具足だと仏教で教えられています。
煩悩具足とは、煩悩の塊ということです。

煩悩というのは、欲望怒り愚痴など、私たちを煩わせ悩ませるものです。
その煩悩によって、を造り、私たちは因果応報で苦しまなければならないのです。
それを解決するのが仏教です。

煩悩具足だから、罪悪深重です。
煩悩によって造られるのは罪悪です。
煩悩の塊だから、悪の塊です。
だから、罪悪造らずに生きてくってのは、煩悩なくすってことです。
できますか?

煩悩なくせば、罪悪造らずに生きてけますよ。
だけど、それができるかってことです。
仏教を聞いているとか聞いてないとか関係ありません。
仏教講座とご縁があるとなかいとか、何か関係ありますか?

人間は煩悩の塊ですから断ち切れません。
欲望を断ち切る。
そんなことをしたら、生きてけなくなります。

罪悪を造らない身になるためには煩悩断たなければならない。
だから聖道門仏教は山の中に入って、煩悩を断ち切る為に出家をして、戒律を守り、血みどろの修行をします。
煩悩断ち切ろうと、真剣白刃の戦いに身をゆだねています。
それでもできないんです、煩悩を断ち切ることは。

ですから、煩悩あるがままで、絶対の幸福になる道が説かれているのが仏教です。

それが煩悩即菩提です。