仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

パスカルあと1週間の命。

パスカルは、あと一週間の命になったら何をしますか?
それでもなさねばならぬことを一生かけてでもやるべきだと言っています。

後一週間の命になったらどうする?
ほとんどの人は、今までやる事ができなかったものをやりまくります。
今まで使わなかった貯金を全部おろす。
おろすものがない人はサラ金から借りる。
一度京都で遊びたかった。
そして祇園にいって芸者遊び。
そしてドンチャン騒ぎで2日すぎた。
二日酔いで水曜日。
ああ、やってよかった、と思えるか。
もう三日目か、そんなんでよかったといえるか。
言えるはずがないんです。
もう日曜日になったらどうなってしまうだろう。
大体遊ぼうと思っても遊べないですよ。

アドラー心理学を駆使して、2週間後にデートしましょう、と誘われても、
もう生きていないんだと思ったら、
何だ、自分は生きてはいないんだ、となってしまいます。

勉強してももう意味がありません。

買い物に行っても、服はもうみんな春物ばかりで、どう感じるか。
私にはどうせ春はないんだ、となるのです。

元気で生きているときは喜べるものでも、
あと1週間の命と余命宣告を受けると、
実際には何も喜べません。

そんなときでも、人間に生まれてよかったと喜べるものが、本当の生きる目的であり、それを果たすのが本当の生きる意味です。

 

愛人依存症

愛人依存症なんてモノもあります。
愛人がいないと生きていけません。

何かに依存しないと生きていけないという人増加しています。
食べていかないと不安がつのってどうしようもなくなります。
だから食べてしまいます。

新興宗教に走るというのもそうです。

意味不明な儀式・摩訶不思議な呪文とはいって、
虚しくて寂しくて、頼りたくて仕方がない。

自分を認めてもらいたい。
なんとか藁にすがりたい。
そういうような気持ちです。

それほど人生は苦しい

そこで依存症が増えています。
そんな人たちに本当の生きる目的を教えなければなりません。
それを教えられるのは仏教を知らされた人です。

オウムの泥水を飲むなと言っても飲んでしまう。
すみやかに清らかな清水を徹底提供するのが急務です。

本当の生きる意味を明らかにしなければならない。

仏教講座に嫌いな人がいたら?

仏教講座にはたくさんの人が来ているので、
他の人とあうことになります。

ところが私の知った人に、嫌いな人と
「同じ空間に居たくない」
という人がいます。

何でかと聞いてみたら、
「嫌いな人の吐いた空気吸いたくない」
と言っていました。

その嫌いな人は、仏縁深い人で、毎回仏教講座に来ているので、
嫌いな人の吐いた空気を吸いたくないから
嫌いな人と同じ空間にいられないとなると、
その人が仏教講座に来れなくなります。

そんな場合は、どうしたらいいでしょうか。

そういう好き嫌いというものは、その人の業です。

自分のわからない苦しみを抱えている人は自分では受け取れない。

君たちはどう生きるか』という本がベストセラーになっていましたが、
たとえその問題に対処はできても、
誰でも仏法を求めるのに何かしら障りがあります。
そんな色々の問題が起きてくるときに、そこを
「それでも仏法を聞かねばならない」
と越えていくものです。

対処ばかりしていても、
もぐらたたきのモグラのようなものできりがない。

死ぬまで求道です。
対処しきることはできない。

そうなると、それでも仏教は聞かなければならない
もっと重要な生きる意味が教えられているということを
よく理解しなければなりません。

 

人間は7分に1度嘘をつく。

人間は7分に1度をつくといわれます。


いつも嘘ばかりついているということです。

例えば手紙の最初に拝啓と書きます。
拝啓とは、拝んでひらくという意味です。

拝んでいない人ばかりでしょう。

手紙の最後には、
いつもあなたの御身体案じております……。
と書きます。

いつも案じているわけではないでしょう。

よく考えてみれば、そういう嘘ばかりついている私たちがいます。

私は嘘なんかついたことがないというのは
自分が見えていないだけです。

このように、普通に生活しているだけで、
いろいろの嘘があることに気づきます。

この場合は、相手への配慮があれば当然出てくるものです。

このような悪ばかり造っている深い業を持った私たちが
本当の幸せになれる道を教えられたのが仏教です。

 

仏教は宗教ですか?

仏教が初めての人から「仏教は宗教ですか」
と質問されたらどう答えればいいでしょうか。

これについては、まず「違います」とはっきり言えばいいのです。

なぜなら、仏教は宗教なのですが、このような質問をする人に、
違うと答えても、まったく嘘にならないからです。

それは、相手がどういう気持ちで聞いているかということに対応した答えなのです。

相手の気持ちはどんなものかと考えたとき、
これって葬式ですか?それともオウムですか?
ということと同じ意味だとすれば、
これで「そうだよ」
と答えてしまうと誤解を与えてしまいます。
「危ない!」「洗脳される!」
くらいに思うのが関の山です。

宗教=オウム=危ない
という方程式が日本人にはできてしまっています。
海外ではそうではない。
宗教を持つことが尊重される。
日本人は無宗教を誇らしげに言う。
しかし、向こうではそんな人非常に少ない。

日本人は、宗教というと危ないものと考えているので、
仏教の教えを聞くと、これはどうも宗教とは違うのではないか?
という気持ちが起きてきて、
それで仏教というのは宗教なのですか?
と聞いてくるのです。

相手が宗教と思っているものと
仏教とは本質的に違いますので、
違いますといって、
仏教とは因果応報の因果の道理に立脚して
本当の生きる意味1つを明らかにされたものだと
詳しく話をすればいいのです。

 

孫悟空がブッダに挑戦

孫悟空ブッダに挑戦した話があります。
孫悟空ブッダと力比べです。

孫悟空が山の峰を見つけてそこに自分の名前を書いたと思ったら、
ブッダの手の指だったというものです。

孫悟空というのは最初の頃の私たちのことです。

最初は、仏教を聞いても、自分の考えのほうがいいのではないかと思っています。

ところが、聞いて行くうちに、ブッダの教えというものは、
だんだんととても人智で計れないものと知らされます。

最初は分かりません。
深く知らされれば知らされるほど、
私は何でダイヤモンドを最初から拾ってしまったのだろう
という気持ちになります。
それは時間の問題だと思います。

もし、こういう人に言うなら、
「私の話を聞いてくれ、そして自分で確かめてくれ」
こう言えばいいのです。

生きる意味は人それぞれではないか」聞き始めの頃と同じ質問をしてきます。
「自分の最初の頃と同じだな」
と思います。

金太郎飴のようなものです。
黒人や白人を相手に話をすると、最初は
「どんな事を言ってくるだろうか」
とどきどきしながら話します。

ところが言ってくることは私たちと一緒です。
仏教の話をすれば世の中の人の反応は一緒だなと知らされます。
しかし、自分で考えることは大事です。
そうすると真剣に聞法するようになります。

これは自分のこととして知らされることです。

死ぬまで求めるということは?

野球部に入ると、
甲子園に出たら、
プロ野球選手になったら、
レギュラーになったら、幸せだと思います。


ブロ野球選手になれるような人は、
ヒットを打てたら、
首位打者になったら、
大リーグへ行ったら、幸せだと思うでしょう。

イチローくらいになっても、
何々したら、きっと幸せって今まで追い求めつづけ、
今も求めています。

ひょっとして、これは死ぬまで続くのでしょうか。
死ぬまで求め続けるとしたら、悲劇です。

なぜなら、求めるということは求まったということのためであって、
求めるために求めているのではないのですから。

絶対に当たらない宝くじを買う人はいないですよね。
絶対に入れないとわかっている女子大を受験しようとする男性もいません。

100%手に入らないとわかっているものを求めることは意味がありません。

きっと幸せ」はまだ幸せでない状態です。

君たちはどう生きるか』という本がベストセラーになりましたが、
どう生きたところで、
死ぬまできっと幸せになれると思って求めるのは、
死ぬまで、結局幸せでないということでないでしょうか。

ただ、きっと幸せと信じて、同じところをぐるぐる回っているような状態です。

ですから、なんのために生きるのかという本当の生きる目的は、
完成があるものでなければならないのです。

それを完成してこそ、生きる意味があるのです。