仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

出家ではなく在家の私たちのすがた

蓮如上人の御文章に年来超勝寺というお手紙があります。

超勝寺というのは福井県お寺です。

しかるに当流において毎月の会合の由来は、なんの用ぞなれば、

会合の由来というのは会合の目的と言うことです。
仏教講座に仏教の教えを聞きに集まってくる目的は一体どうしてか。
あなたはなぜこの仏教講座に集まってきてこうして聴聞をしているのか。

何のために集まってきたのかといいますと、これは、

在家無智の身をもって徒に暮し徒に明して、
一期は空しく過ぎて、ついに三途に沈まん身が

と書かれています。
在家無智の身をもってといいますのは、
これは出家ではなくて、私たち一般在家の人達です。
学校と自宅の往復をして、
会社と自宅の往復をして、
このように身をながらえて生きている私たちのことです。

無智といいますと、智恵がない、智恵というのは
先を読む力です。

これから先100%確実な私たちの行く先に
一体どう言う一大事が待ちかまえているのか。
これから私が一体どういうところに突っ込んでいこうとしているのか。

そういう未来のことに暗く、
目の前のことばかりに心を奪われて、
生きる目的もなく一生はあっという間に過ぎ去って、地獄餓鬼畜生
苦しみの世界に沈んで行くということです。

 

仏教をどれくらい理解したかが分かる方法

私たちが仏教講座に行って仏教の教えを聞かせて頂きますと、
『いやなんて素晴らしい教えなんだろうか、今まで聞いたこともなかった』
という喜びや感動が起きてきます。

すると、その素晴らしい仏教の教えを
自分だけ聞いているのでは余りにも勿体ない。

どうかもっと多くの人に聞いてもらいたい、
と思って自分の唇で聞かせていただいた法を
説き明かすことを説法と言います。

誰か仏法の話を語る人の
その話を聞くことで聴聞と言いますが
それに対して自分が知らされた教えの内容を
明らかにすることを顕正っていいます。

真実の仏法を聞かせていただいて、
ああ素晴らしい教えだなあ、と分かると
人に言わずにおれなります。

これはよく仏法を旨い蕎麦を食べたときに喩えて
「美味しい蕎麦だ。
普通のラーメンはそんなに美味しくなかったけど、
にんにくげんぶつラーメンってなんて美味しいんだ」

そうなると
「あなたも一つ食べてご覧なさい。こんなものちょっとないぞ」
言わずにおれなくなります。
あなたが仏法を理解するほど教えの深さが分かるほど
こんなすばらしいことあの人にも聞かせて上げたい、
という気持ちになります。

その気持ちがどれくらい強いかで、
仏教をどれくらい理解したかが分かると
いわれるんですね。

人の言葉でぐらつく信心は臨終どうなる?

他力金剛の信心を獲得していない人は、
これは間違いない、私の当てになるものだと思っても
誰かに非難や攻撃を受けるとすぐにぐらぐらになっちゃうんですね。

約700年前、関東の同行達が日蓮宗を開いた日蓮
善鸞の言葉にぐらついて、
浄土真宗親鸞聖人のところへと
「本当のところはどうなんでしょうか?」
と尋ねるために関東から京都まで旅してきた人達がいました。

親鸞聖人が、他力の信心とは
いかなるものかということを明らかにされたとき

日蓮善鸞の言葉ぐらいでぐらつくような信心では真実の信心ではない。
自力の信心というのは、臨終の嵐の前には吹き飛んでいくんだぞ」
とおっしゃっています。

これは強そうで弱い者です。

みんなそれぞれこれで大丈夫だとこれで分かっていると、
オレはここまで来たから大丈夫だと人それぞれ自分でそれでよいと決めた、
そういった信心を持っていると大変強そうに見えるが
臨終の嵐には吹き飛んでいきます。

本当に頼りになる弥陀の本願がたよりになりました、
本当にあてになる弥陀の本願があてになりました、
今一心一向に弥陀をたのみましたという時に、
他力の信心が、これは金剛の信心ですから
誰に何と言われようと非難攻撃を受けようと全く微動だにしない、
そういう信念を獲得することができるんです。

 これを金剛心といいます。

 

諸行無常と地獄の不安

私たちは、何かを信じなければ生きていけません。
信じるとは、あてにするとか、たよりにする
ということです。

仏教ではこの世のどんなものを私たちが頼りにしていても
その頼りにして
当てにしているものが諸行無常なる故に
やがて崩れかかる壊れかかる。

そういうものですから、人間の心の中に
いつ地獄に突き落とされるかも分からない
という不安がなくならないのです。

仏教には、本当に当てになる物とは一体何か
を教えられています。

それが正信偈に書かれています。

正信偈とは、正しい信心のうた
ということです。

 

なぜ幸せが得られず苦しむのか

人間が人生で幸せ を求めながら
なぜ幸せが得られず苦しむのか。

それは当てにしていたものが
何の前触れなしに壊れてしまうところからです。

世の中を見てみると、
今森容疑者という人が筋弛緩剤を点滴に入れて、
おじいちゃんおばあちゃん
子供も何十人もころして、あるいは重体にしてしまいます。

それが大変問題になりましたが、
まさか専門の医師が……。
病気を治すための病院で病気を治すためのところで死んでしまうのです。

今18歳の高校生がインターネットで出会いサイトが花盛りです。
そこでチャットしていた相手が、
33歳の主婦で、
『愛している』
『あたしも』
とチャットしていていい仲だったのですが、
相手とは一緒になれません。

『昔は好きだと言ってくれたのに今はどうだ』
ということで刺し殺して奥さんは死んでしまいました。

高校生は逮捕という事件が起きていますが
昔確かに僕のことを好きだと
言ってくれたのにもう別れましょうという。

こういうところから苦しみが起きるのです。

では幸せになる方法は何でしょうか?

信心はなぜ必要?

信心はなぜ必要なのかといいますと、
私たちは何かを信じなければ生きてはゆけないからです。

信心とは、何かを心で信ずることです。
信ずるということは言葉をかえれば
たよりにする、あて力にするということです。

私達は何かをたよりにし、あて力にしなければ生きてはゆけません。
即ち、何かを信じなければ生きておれないのです。

妻は夫を信じ、
夫は妻を信じ、
親は子供をたよりにし、
子供は親をあて力にして生きております。

その他、自分の身体や生命、財産や金銭、
家や名誉や社会的地位等、
何かをあて力にして生きております。

だから生きるということは
信ずることなのです。

や仏を信ずることだけが信心ではありません。

昔から鰯の頭も信心から
と言われますが、
つまらぬものでも信じていればその人の信心です。

だからすべての人は何らかの信心をもっているのです。

ところが私達は、ただ生きているのではありません。
幸せを求めて生きている人ばかりです。

そして一切の苦しみ悩みを厭うております。
苦しみ悩みはどこから起きるのか考えてみますと、
信じていたものに裏切られた時に起きて来るのです。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、
家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、
夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。

家の子供にかぎってと深く信じていればいる程、
裏切られた時の親の苦悩や悲しみ怒りは大きいのです。

これで判るように私たちは何かを信じなければ生きてはゆけませんが、
やがては私たちを裏切ることのあるものを
信じて生きるということは馬鹿げたことです。

では、この世で生命をかけて信じても後悔のない、
いわゆる、絶対に裏切ることのないものはあるでしょうか。
結論を急ぎましょう。
何もないのです。

この世の一切は死ぬ時には何のあて力にもなりません。

この肉体さえ焼いてゆかねばなりませんから。
今死ぬというときでも変らぬもの、
それは三世諸仏をして成仏せしめた本師本仏の阿弥陀仏あるのみです。

この阿弥陀仏を信じる者こそ、
永遠不滅の無上絶対の幸福で生きぬくことができるのです。

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絶対の幸福になるには

絶対の幸福になるためには、
どうすればいいかというと、
聴聞です。

絶対の幸福にする働きのある名号を
聞く一つで頂くのです。
名号とは南無阿弥陀仏のことです。

聴なくして絶対に聞はありません。

絶対の幸福になるのが
本当の生きる目的ですから、
人生は聴聞です。

仏法聞くための人生です。

南無阿弥陀仏は聞く一念でいただけます。
一念でいただけるから、命いくばくもない、
次の瞬間死ぬ人でも頂けます。
そこまで聞かせていただくのです。

仏教を聞く人は、生まれも育ちもみな違うのですが、

共通しているのは、この世に生まれてきた目的です。

そしてそれに向かって団結します。
性格、趣味も違います、好き、嫌いがあります。
しかし、ただ一つ共通している目的に向かって、
共に励まし、共に進みます。
そして、真実知らない人がいっぱいあります。
弥陀の本願あることを教えてあげましょう。
聞信のために団結させて頂くのです。