仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

どれだけ遠くに届くかは内容の深さ

昔は最初から、仏教と言えない、色々な事情がありました。

これは800年前の法然上人の時です。

法然上人が生まれられ、
親鸞聖人が生まれられました。

法然上人は浄土宗を開かれました。

当時は南都六宗の中でも力があったのは、
法相宗興福寺でした。

浄土宗に人が集まってきて、
伝統仏教がうまくゆかなくなってきました。

そこで、法然上人を大原に呼び出して法論をしました。
これを大原問答といいます。

1対380人です。

それで、法然上人は圧倒的に勝利されたと記録に残っています。

そこで、今度は、法相宗華厳宗天台宗真言宗の人たちは、
権力者と結託しました。

ダイエーが一番だったところに、
イオンが来たようなものです。
どんどん、お客さんをとられてしまった。

そして、承元元年、法難が起きました。
当時は、罪人の扱いをされました。

親鸞聖人が、尊敬されるようになたのは蓮如上人が現れてから。
200年後の1400年代のことです。

蓮如上人の時に本願寺は日本一の教団になりました。
京都駅の前に大きな寺があります。

親鸞聖人でさえも、偉大だと認知されるまでに200年かかっています。

名古屋という町は100メートル道路があります。
真ん中に公園があります。

あれを作った人は、戦後で焼け野原になりました。
これから道路を作る、2車線くらいを考えます。

市の助役は100メートル道路を提案。
皆、キチガイかと言いました。
当時、車はほとんどありませんでした。

それから車社会になって、称讃されました。
みんなから称讃されるのに時間がかかります。


悪口を言われても問題にならなくなる方法

メメント・モリ

メメント・モリが大事だとたけしが言っています。

たけしは、『新しい道徳』という本で、メメント・モリは道徳の土台だと言っています。

メメント・モリというのは、死を忘れるなということです。

なぜそんなことが格言になっているのかというと、みんな自分が死ぬことを忘れてしまっているからです。
だれも自覚をしていません。

死ぬとしても遠い先のことで、今日、明日死ぬとは思っていません。
明日になっても変わりません。だから1年経っても変わりません。

100歳になっても次に死ぬとは思えません。
以前、双子の金さん銀さんが、101歳の誕生日の時に、全国の人からプレゼントがありました。
インタビューで「お小遣いももらわれたそうですね。
お小遣いをどうされるんですか」

といわれると、
「半分は、寄付します。後、半分は、老後にとっておきます」
といったそうです。

いつまで経っても死なないと思っています。

みんな死を忘れて明るく楽しくいきようよといいます。

ところが仏教では生死一如といわれて、死を忘れることを生を忘れることです。
試験が近づいてきたら勉強をしますが、半年も先に試験があれば、今日は遊ぼうと思います。

死を考えていない人は、試験が近づいているのを自覚できていない人です。
フランスの哲学者、パスカルは、後一週間の命となってもやらねばならないことを、
一生涯かけてもやらねばならないと言っています。

一週間の命となって、仕事、選挙、勉強をする人はありません。
財産を作ろうとも思いません。
仕事をしよとも思いません。
ということは、これらは目的でないということです。

死を忘れている人は、真面目に人生を考えません。

すべては無常だと思っているが、わかっていないのです。

死を見つめ、解決することが重要なのです。

 


諸行無常とは?儚い人生を輝かせるただ1つの方法*1

*1:ここに脚注を書きます

絶対の幸福になる為にそろえる5つのもの

絶対の幸福になるには、どうすればいいかというと、
5つのものをそろえなければならないと蓮如上人御文章に教えられています。

これを五重の義といいます。

この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。(御文章)

とあります。では、その5つのものとは何かというと、こう教えられています。

これによりて五重の義を立てたり。
一には宿善、
二には善知識、
三には光明、
四には信心、
五には名号(御文章)

 

その一番最初にあげられているのが、宿善です。

これがなければ、善知識にも会えないし、全部そろいません。
土台のようなものです。

宿善がなければ助からないと、蓮如上人もいわれています。

無宿善の機にいたりては力及ばず。(御文章)

いづれの経釈に依るとも既に宿善に限れりとみえたり。(御文章)

宿善に限れりです。

善導大師も、過去に宿善なければ聞けないといわれています。

蓮如上人の御遺言にもこうあります。

あわれあわれ存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、
まことに宿善まかせとはいいながら述懐の心しばらくも止むことなし。
(御文章)

蓮如上人は御遺言にまで信心決定は宿善まかせといわれています。

まかせというのは、最も大事ということ、これ一つということです。

バスに乗ったら運転手まかせです。
バスの運転手と喧嘩して事故にあいます。

では宿善とはどんなものかというと、宿善は聞法心となってあらわれます。

そして宿善があると言っても、厚薄があります。
宿善が厚い人は、聞法心が強い人です。
宿善が薄い人は、聞法心が弱い人です。

聞法心が強い人は真剣に聞きますし、聞法心が弱い人は、真剣には聞きません。

宿善の厚い人は枯れ松葉、宿善の薄い人は青松葉にたとえられます。

枯れ松葉は火を近づければすぐに火がつきます。
すぐに救われるということで、頓機といいます。

それに対して青松葉はなかなか火がつきません。
漸機といいます。
しかし続けて火を近づけていると、だんだん水分がとんで、やがて火がつきます。

ではどちらが多いかというと、漸機です。

親鸞聖人は法然上人にあわれて絶対の幸福になるまで100日くらいだったそうです。
恵信尼覚信尼が出されている。
新潟から京都に出された手紙が、本願寺で大正時代に見つかった。

宿善が薄かったら、今生頑張るしかないのです。


親鸞さま ご出家の感動ストーリー(仏教の原点とは?)

歎異抄に驚いたヨーロッパ人とその理由

煩悩を満たし切るとか、煩悩をなくすとか、
煩悩を問題にしている間は、相対の幸福の問題です。

でも人類には煩悩しか分からないので、それしかありません。

キリスト教は、禁欲を徹底的にいわれます。

あれを徹底しないと幸せになれない。
幸せになるには煩悩をなくさなければなれないといいます。

西洋哲学は未完成です。
キリスト教も、キルケゴールの実存の三段階も未完成です。
美的段階。
倫理的段階。
煩悩ばかり問題にします。
それが限界です。

そして、論理で考えていても、この先も完成はありません。

しかし仏教は、煩悩を満たすのでない、なくすのでもありません。

人間に生まれてきた生きる意味を果たした世界は、
煩悩が喜びに転じ変わるしかないのです。

だから煩悩を満たす、なくす、吹っ飛んでしまう。

それでキルケゴール宗教にそれがないかなと賭けましたが、
その宗教画キリスト教だったからそれはありませんでした。

仏教に出会えなかったのです。
だから仏教に出会ったら驚いたと思いますよ。

ハイデガー歎異抄を読んで驚いているのは、
キルケゴールの哲学の次がハイデガーだから、
キルケゴールの哲学知っていたものだから、
歎異抄読んで直感的にそれだということ見抜いたのでしょう。


歎異鈔には煩悩即菩提があふれているからです。

それで、親鸞は煩悩があるがままで幸せという世界を得ているに違いないことを文章から感じたんでしょうね。
分かる人はわかるから。

それで煩悩即菩提を感じたヨーロッパの偉人は驚いたのです。


『歎異抄』に記された変わらない幸せの世界

西洋から東洋への橋渡し(キルケゴール)

私はな生きる意味に悩んでいました。
友達に相談しましたが、相手にされませんでした。
どこの哲学にも答えがありません。

哲学と言ったら西洋です。
そして注目されているのが実存主義です。

1800年代後半から1900後半のニーチェキルケゴールハイデガーといった人たちです。
中でも今日はキルケゴールについて1800年代に42歳で亡くなった人です。

キルケゴールは、幸せになるための3段階を考えました。

1 美的実存
どうしたら幸せになれるか、欲望を満たすという道です。
これは楽して幸せになれそうです。
楽して単位を取るとかと、
24歳で14歳の女の子にストーカーしたりとかです。

では、欲望を満たせば幸せになれるでしょうか。

欲望は、満たすほど、大きくなります。
1万円、学生なら喜びますが、ビル・ゲイツに渡しても喜びません。

田中角栄は3億円の賄賂を贈っています。
ある程度で満足できるという人は持ったことのない人です。

豊臣秀吉は70-80兆円の財産、しかし死ぬ時には夢のまた夢と言っています。

まるで邯鄲の夢のようになってしまい、死ぬ時に後悔しています。
計画的な後悔はありませんから、後悔しないと思っていたのに後悔しているのです。
最後に死ぬ時です。

欲を満たしても、続かず、死ぬ時には消えてしまいます。

これではダメだということで、キルケゴールは次に行きます。

2 倫理的実存
欲で苦しんでいる、欲を無くすしかないと思います。

成功した人でボランティアをする人がいます。
タイガーマスクもそうです。
欲望を満たす生き方よりも世のため人のために尽くそうと思います。

100万円あっても死んでしまったらどこまでいっても足りません。

欲の本質は我利我利です。自分のことしか考えていない自己中心的ということです。

しかし、悪いことをやめて善いことをしようとすると自分のが見えてきます。
心と口と体では、心まで見ないといけません。
口や体でをやっても心で悪を思っていてもいいといえるでしょうか。

私達は心を無視して生きているでしょうか。

親しくしている友達が、自分の話をしていた。
同じ気持ちで次の日、挨拶できるでしょうか。

心で醜いことを思わないようにしようとすると、悪が見えてきます。
悪に敏感になります。
席を譲ると、お礼があるのとないのとで感じ方が違います。

欲を満たすことも無くすこともできません。

そこで、欲あるままで悪を造り続けるまま幸せにならなければならないということで、キルケゴールは次の段階に行きます。

3 宗教的実存

 しかし、キルケゴールの近くにはキリスト教しかありませんでした。

実存主義ニーチェは「は死せり」とアンチキリストという本に書いています。

宗教、もう一度やってみようと思った。
しかし、だめで野垂れ死にしてしまいました。

キルケゴールは知りませんでしたが、私たちは東洋哲学を知っています。

東洋哲学といえば西田幾多郎です。
善の研究という本で 仏教煩悩即菩提を論じています。
煩悩がそのまま喜びの種になる。

ちょうど炭のままで火という状態です。

これが本当の生きる意味なのです。


究極の幸せ「煩悩即菩提」とは?

言葉を離れた絶対の世界

絶対の幸福は言葉を離れた世界です。
それどころか、相対の幸福でも言葉で表すことはできません。

例えば、味は言葉で表せるでしょうか。

食べたことない人に、味を言葉で伝えることは不可能です。

では味は存在しないのでしょうか?

存在します。

前も話しましたね。

例えば、今では普通にありますが、今から約30年以上前、昭和の終わり頃にキウイという果物が並び始めました。
私はキウイを食べませんでした。
なぜかという形がじゃがいもみたいで、見た目が毛が生えているけばけばしい果物です。
それで、キウイキウイとやたら宣伝しているな、という程度の関心でした。

ある時、友達が「キウイ食べた事ある?」
と言ってきました。
見栄えが悪いから食べたことないと答えました。
そしたら友達は、あれはビタミンが豊富で体にいいし、おいしいよ。
と言ってきました。

けばけばしてじゃがいもみたい。というと
むきゃいいじゃん。それは皮でしょ。
皮をむくと緑で綺麗でおいしいんだよ、と言います。

「美味しいって、じゃあ、どんな味ですか?」と聞くと

「どんな味と言っても……」

友達は困りました。

「酸っぱいよ」
というと
「じゃあレモンみたいな味?」
と聞くと、

「レモンほど酸っぱくない」

「じゃあみかんみたいな味?」
すると「みかんでもない」

「じゃあ皮をむいたら緑色になるっていうことは、メロンみたいな味?」
と聞くと、「いや色はメロンのような緑だけど味は違うね」

食べたことある果物持ってきては
これでない、これではない、これではない。

レモンの味にあらず
みかんお味にあらず
メロンの味にあらず

ではどんな味ですか?

メロンの味。

それでは説明しないのと同じ。

そしたら友達は、スーパーに行ッて、買ってきました。
そして切ってくれて、食べました。
そしたらわかりました。

「なるほど、わかった!!」

一口、食べるという体験したら即分かります。

だけども食べるという体験する前は、

こうでもない、こうでもない……

あらず、あらず……

こういう表現しかできません。

そういうことで味というものを伝えます。
それは無理ですね。

味でさえ言葉で伝えられません。
では味は絶対の世界でしょうか?
相対の世界です。

私たちのわかる世界。
そんなことでも言葉にできないことばかりです。

ましてや絶対の世界です。これを煩悩即菩提ともいわれ、歎異抄では摂取不捨の利益といわれています。

仏教は、その絶対の幸福へ導く教えなのです。


究極の幸せ「煩悩即菩提」とは?

日本古典文学大系に親鸞聖人の和讃

罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷おおきに水多し
障りおおきに徳多し


これは、親鸞聖人の書かれた高僧和讃の一つです。

まず和讃というもの、これは文学の一つです。
575なら俳句、
57577なら短歌です。

和讃というのはそういう文章の表し方のものでこういう漢字とひらがな混じりのもので四行で歌の形で書かれたもの、
こういうのを和讃といいます。

親鸞聖人はこういう漢字とひらがな混じりの四行の和讃を
全部で300以上書き残されています。
こういう非常に短い言葉の中に深いことをわかりやすく書かれている

そういうことで日本古典文学大系というものがあり、源氏物語とか、枕草子とか、そういうようなものをまとめたものの中に入っています。

だから、仏教とか抜きでも文学的評価も高いのです。


私の持っている高僧和讃は、仏教書ではありません。
古典文学の中の一つとしてでも有名です。

そういう文学的評価を受けているものなのだなと読んでいくとわかります。

そういう和讃がたくさんありますが、これはその中の一つです。

 


「親鸞さまのご遺言」最後の最後の衝撃の告白