仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

人生が無駄どころか有害になるのはどんなとき?

『七つの習慣』というビジネス書のベストセラー本の中には、
こんな譬えがあります。

あるビルがあって、そのビルに登っていくときに、
はしごを掛けて登っていくとき、
ちゃんと目的のビルにかければ、登り着いた満足もありましょう。

ところが、間違ったビルに掛けてしまうと、
登ってゆく苦労も時間もみんな無駄になってしまいます。
目的を間違ったら、その努力はみんな無駄に終わってしまうのだ。

虚無感におちいります。

私たちの人生も同じです。
私たちの人生の目的は何なのか。
何のために生まれて来たのか。

存在意義(レゾンデートル)は何なのか。

その目的が分からないと、
生きて行く苦労も時間もみんな無駄になってしまいます。
ましてや目的が間違っていたら、
無駄どころか有害になってしまいます。

何のために生まれて来たのか、
何のために生きるのかという
本当の生きる目的をハッキリさせてこそ、
生きる意味があるのです。

 

仏教を人に伝えるときの前提

仏教を聞いて1年もたてば、簡単な5分間くらいの仏教の話ができるといいですね。
2年も経てば、1時間くらい話せるように。
3年も経てば、講座ができるようになるといいです。

 

そして相手に宗教偏見があって仏教の言葉が出せない時の法施は、
まず相手がわかるのが大前提です。
相手が実感が湧くと、自分の問題となります。
自分の問題にならなければ、知識欲を満たすだけで終わります。

例えばなぜ生きるかどう生きるかより大切と言われても分からない。

なぜ大学に行ったのか、なぜ就職するのか、
働く意味は何か。

どうしてそのお金を稼いで生きていくのか。
必ず死んでいくのになんのために生きるのか
君たちはどう生きるか』じゃ普通分からない。

それを言うなら、どうしたら受験勉強ができるのか、
どうやったら就職、お金、人気が取れるか、いい人と結婚できるか。
より楽しく生きていけるかということだから、
それがどう生きるかということです。

相手が自分の問題となる言葉で、短さとか身近な話題、
仏教が初めての人の立場で目線で話すとか、
確かに自分にも経験があるとか、言われてみればそのとおり、とか。

こういうような、言われてみればそのとおりですね、とか、
似たような経験ありますとか思われるようなことを例にあげるといいです。

このような仏教の内容を分かるようにみんなから語ってもらうといいです。

 

仏教を聞くと五月病が治る

仏教には何が教えられているのか。

はじめての人に説明するときには、
始めての人が聞いて魅力的で、
それでいて仏教から離れていないいい点を
十ぐらい言えるていいでしょう。

例えば、
・視野が広がる
・教養は身につく
・人生に対する洞察が深まる
・人間の幅が広がる
・為になる
・役に立つ
・得をする。
などです。

他にも、
生きる意味がわかる
五月病が治る
スチューデントアパシーとおさらば
虚無感も解消
モラトリアムも不要
・臨終に後悔しない

等、色々あります。

 

話をするのが苦手な人が仏教を伝える方法

話をすのが苦手だから仏教も仏教に教えられた本当の生きる意味も伝えられないという人があります。

しかし、話す以外にも色々な方法があります。

なかなか他人に声をかけられない人でも、
その人が声をかけられる人と一緒にいけばいいのです。

笛吹くとぷーと伸びるやつをもって、
近くでぷーと吹くとか、
笛を吹く係もできます。


話を隣で聞いているのもすごい力です。
これを「存在と時間」みたいなものです。

ある一定の時間、そこに存在していると、
存在そのものが仏教を伝えることになります。

私が誰かに話をしているとします。

それをあなたが一緒に聞いています。
たまにうーんと、頷きます。

これによって、説得力はぐっと上がるわけです。

そこでもしあなたがトイレとかでその場を離れたり、
「僕なんかセリフがないから」、
と帰っちゃうとします。

こうなると相手が仏教を納得する速度はがくっと落ちちゃうんですね。
一定の時間そばにいることは、大変大きいことです。

または話をしている人に飲み物や飴を渡す係とか、
タオルを投げる係とか。
ところが、僕なんかいても何も言えないからと、
いなくても別に変らないからと、参加しないと何もなりません。

この人がいるのがどれだけ力強いことか知れないのです。
大変大きな存在意義働く意味もあるのです。

 

 

面々の楊貴妃

面々の楊貴妃という言葉があります。

楊貴妃というのは、中国の有名な美女です。
他から見れば「何だ、あんな女」とこう思っても、
自分が惚れて自分が妻とした人はその人にとったら絶世の美女に見えるということです。

これは、邪教外道でもいえます。

オウムとか、足の裏とか、客観的には
「何ちゅうもの信じておるのだ」
と思えるようなものでも、
その人は邪教外道を信じていると思って信じている人はありません。

一度面々の楊貴妃の状態になると、自分ではそれに気づきません。

これは外道邪教だけではなく、仏教を知らない人もそうです。
知るきっかけは結んだけど仏教講座に行こうとしていない人も
自分の考えでこれでいい、
仏法なんて聞かなくても、
あれしてこれしてということで精一杯、
自分の考えでこうしていれば幸せになれると思い込んでいます。
その誤りは本人は分かりません。
誰かが教えてあげないといけないのです。

 

本日はブッダがお生まれになったことを祝う花祭りです。
これをきっかけに本当の仏教を有縁の方に教えてあげましょう。

 

 

 

「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず。仏法中の怨なり」の出典

破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず。仏法中の怨なり」
これは、ブッダのご遺言をわかりやすく教えられたもので、
原文は、『涅槃経』に以下のようにあります。

「僧にして法を壊つ者あるを視ながら、
 これを黙視し更に呵責駆遣せざるものは、この僧はこれ、仏法中の怨なり。
 若しよく駆遣呵責せばこれ我が真仏弟子なり」

ここでまず、私たちが心得なくてはいけないのは、
「これを黙視し」、
ということです。
あるいは座視とも言われます。
これは、黙ってみてるだけ。
傍観しているだけ。
座っているだけで何も言わない。
見て見ぬふり、知ってて知らぬふりすると言う。
これをお釈迦さまたいへん嫌われたということです。

卑怯者は自分が可愛いからだ、
ということで最も嫌われるものだと言うことを知っててもらいたいね。
この僧といいますのは、僧侶ですが、袈裟をかけて手に数珠をもっている人ではありません。
僧侶とは真実の仏法を伝える人のことで、仏法者ということです。
真実の教えを知らされたなら、人に伝えずにおれなくなります。
知らされた真実の教えを多くの人に分かち合って、一人でも多くの人に知らせる。

ご縁のあった人に幸せになってもらう。
これが僧です。
その僧が法を壊しているものがありながら見てみぬふりをするものは、これは僧じゃない、それどころか怨であるとおっしゃってます。

もうすぐブッダの誕生日の花祭りです。

これをご縁に、有縁の人に仏教を伝えましょう。

 

仏教を伝える時は結婚相手を紹介するときのように

日本では宗教偏見が大きいので、仏教を学んでいることを家族に話すときに不安になります。

結婚したいという人を見つけた時、両親に伝えようとすると、悩むようなものです。
反対されたら大変です。

その人との仲を大事にしたい。
両親にも喜んでもらいたいと思います。

そう思ったら悩んで配慮します。

仏教は、本当の生きる意味を明らかにされた人類の知的財産のようなものです。
それを仏教を知らない人に不用意に話をして、変な宗教偏見で誤解させると相手にとって不幸です。
仏教を伝える時は、よくよく配慮して伝えないといけないののです。