仏教研究室

仏教を研究しています。

生きる意味を聞ける仏教講座

人身受け難し、今已に受く。
 仏法聞き難し、今已に聞く。
 この身今生に向って度せずんば、さらに
 いずれの生に向ってか、この身を度せん。

度するというのは、永遠の幸せになること。
それは、仏教にのみ教えられている。
生まれがたい人間に生まれて
聞き難い仏教を聞かなければできない。

仏教を正しく教える善知識、
真の知識にあわなかったらできないことですよと教えられている。
善知識にあって仏教を聞かせて頂けるのは、千載一遇のチャンス。

今これを読んでおられる方は真の知識から本当の生きる意味を聞かせて頂く。
そういう先生にお会いするというのは、
親鸞聖人は法然上人であったわけですが
「昿劫多生のあいだにも出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」
と言われている。

仏法にあわせて頂いたわけで、それを値遇仏法の門といいまして、
そして心の闇が破れて絶対の幸福となる一念があるぞと教えて頂いている。

それであなた生まれがたい人間に生れてよかったですね、
聞き難い仏法を聞かせていただけてよかったですね、
あとは聞き抜くだけですよ、
今聞き抜かなかったらそんなチャンスは未来永劫ないですよ
と言われる。

なので仏教講座に足を運ぶ。

または仏教の通信講座もある。

私達の魂は迷いつづけてきたわけだけれど、迷いのうちどめをするのは
もうすぐそこだからそこまで聞き抜けといわれる。
それは人間に生まれなければできなかった、
仏法をきかせて頂かなければできなかったとそういう一念がある
と言われているので頑張って頂きたいと思います。

なぜ人間に生まれたことを喜ぶ?

なぜ人間に生まれたことが喜ぶべきことなのか。

源信僧都の横川法語という言葉があります。

まず三悪道を離れて人間に生まるること、大なるよろこびなり。
身は卑しくとも修羅に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもうことかなわずとも地獄の苦にくらぶべからず。

 

三悪道とは、六道の中でも苦しみの激しい
地獄
餓鬼畜生の3つの世界。

 

畜生は動物の世界。目で見える。

餓鬼界は体中が骨と皮でガリガリにやせほそって、
食糧難で苦しむ世界。

今もアフリカとかにもある。
そういうような人達は満足な教育も受けられず、
声を発することもできない。

餓鬼界衆生は、飲むもの食べるものを口に運ぶと青白い炎となって
食べることができない。

地獄界というのは、もっとも苦しい世界。
8つに分類されている。
その中でももっとも苦しみのひどくないのが等活地獄
等活地獄衆生というのは、ふと見ると目の前に活かしてはおけない
不倶戴天の敵がいて、爪でひっかく、やられた側は、また爪でひっかく。

あげくのはてに、小さな肉片だけが飛び散ってバラバラになってしまう。
そうするとどこからともなく地獄の獄卒がやってきて、
カツカツと地面を叩くと肉片がぴくぴくと動き出して
元の姿に戻ってまたやりあう。

これを地獄の業相という。
サッチー対ミッチーとか、デビ夫人とか。
いろんなところでひっかきあいをやっている。

ところがこの等活地獄というのは、もっとも苦しみのやわい世界。
三番目に衆合地獄というなかには、刀葉林地獄というのがある。
葉っぱが全部刀でできている。
そういう林。

ここに堕ちた男が、この下にくると、上のほうから
「あなたー、カモンカモン」と聞こえると思いきや、
かつてこの男が恋こがれていた女がなまめかしい姿で呼んでくる。

この木を登っていくと、刀がグサグサささる。
登れが登るほど傷がつく。
普通ならやめます。
ここをよじのぼって血まみれになって、彼女の所へいくと、
さっき自分がいたところへテレポーテーションしている。

そうするとまた下り始める。
やめときゃいいのに、それがやめられない。
そしてここまで来るとまた消える。
そういうことを何回も何回もやっている。

これもどこかでやっている人があるように思います。

ところがこれらはまだ序の口でありまして、
8番目の無間地獄というのは、苦しみに悩みに絶えまない。

この三つの世界を三悪道といわれている。
三悪道を離れて人間界に生まれたること多いなる喜びであると、
仏教では教えられている。

仏教講座で説かれる説法とは

本物の仏教講座ではどんなことが説かれているか。

正しい仏教の説法は、虎の説法という。
ある人がいくら虎を書いていても虎がかけないから、
猫を描けということで猫はかけるようになったが、
一生虎をかけないようになった。

これは何をたとえられているかと言うと、仏教の説法は他力の説法。
私たちには他力がわからないから、自力しか話しなくなったら、他力にはなれない。
私がいいたいのは他力自力の水際を教えて下さるのが仏教の先生なので、
そういう話がある仏教講座にいかなかったら、わかるはずがない。
自力のことをいくら積み重ねたって他力にはいけない。
そういう仏教講座はめったにないから、
もし開かれていたら何をおいてでも参詣しなければならない。

一座の御縁がどれほどあなたが大事に思っているかが、
あなたの聞法に影響を与える。
仏教を重く聞けば重く聞くほど早く救われるので
あなたも聞法に精進してもらいたいと思います。

仏教講座に行くのは誰の力?

よくこの世の人生のことでうようよするとか
うじうじするとかいう人いるでしょ。

自殺しようとする人とか、怨念こもっているのにわら人形に刺す
くぎを探している人とか、目の前にくよくよするとかいう人があると、
人間ってそれなりの解決方法を一生懸命やる。


それがうまくいかないとうじうじする。
しかし、仏法からいうと苦悩の根元は無明の闇で
それを一念で破ってくださるのが阿弥陀仏の本願。

それも仏法を聞かなければ分からない。
あなたも日光のかかっている量によって草花の成長も違う。
だから、あなたも仏教講座が開かれる場所にいってもらいたい。
阿弥陀仏のお力のことを光明の縁というが、
私たちが仏教を聞き始めるのも、救われるのも、
「偏に弥陀の御催にあづかりて」
親鸞聖人はおっしゃっている。


私たちが仏法聞かせて頂いているのも、
すべて阿弥陀仏のお力。

 

仏教の先生をおろそかにしてはいけない理由

お釈迦さまは、善知識はさとりの全因縁といわれている。

善知識とは、正しい仏教の先生。

これについて「仏法を聞き求めていくあなたの気持ちを言ったもので、
ハイかしこまりましたと言える善知識に会えた人が幸せ。
はじめから真の知識と心中できる人はいません。
これは知識がエライからではなく、
その人が宿善が厚くなってそのように思える人が尊くて幸せ。
私のことをエライと言う人は私のことを誤解している。
一念で地獄一定のすがたを知らされた。
親鸞聖人でさえ愚かとおっしゃっている。
おがまれる人よりも、おがむ人が幸せなのです。
仏縁の深い早く救われる人なのです。

仏法の理解をしていけばしていくほど、
正しい仏教の先生から本当の仏教の教えを聞かせて頂いて、
その理解が深まれば深まるほど、
こんな教えを教えて下された先生は本当に尊い方だな、
とそのように善知識を心中できる人が、その人の幸せ。

だけどあなたが尊敬している分だけ、
それだけ仏法を有り難く聞かせて頂くことができる、聞く人の幸せ。

普通おがまれる人がエライと思う。
でも仏様の眼からみれば、みんな一緒なのに。

善知識を疑ったり謗ったりしていては仏教は聞けませんから、
善知識を疎かするなと言われるのは当然です。

神に仕えようか悩む

熊野といえば「権現」です。
もとは仏であったものが「権」りにとして「現」れたものを「権現」といいます。
仏教の中には『本地垂迹説』というのがあって、
確かにとして仏が現れるということは説かれています。

それを持ってきて、仏教で説かれる「」と全然関係ない「」をあてはめて、
聖道諸教が自らの保身のために、権力者に媚び売るために、
でっち上げたのが「神仏一体説」なんです。

ですから親鸞聖人はこうした神に仕えることを徹底して禁じられました。

親鸞聖人の子供の善鸞が描かれていましたが
に仕えてもイイんじゃないか?」
とか言ってましたように、だらしない見本です。

平太郎の奥さんも、平太郎と一緒に聴聞してたんです。
なのに雇い主から熊野へ一緒に参ろうと言われたと悩んでいる平太郎に
「あんた何悩んでんのさ」と言ってる。

後生の一大事が問題になっている人は悩む。
問題になっていない人は悩まない。
苦悩の根元を聞かせていただき、その解決の道も教えられていても、
このように違いがある。

南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の違い

お釈迦さまの教えは「南無阿弥陀仏」一つです。
この解説をせられたのが釈尊です。

浄土真宗親鸞聖人は
「更に親鸞珍しき法をも弘めず如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
ということで釈迦如来の教えられたことをそのまま教えられました。

一方、日蓮宗日蓮は、末法には釈尊の教えは間に合わんということで
思いっ切り否定しているわけです。

また釈尊が教えられた仏教というのは、
「病気治し」
「借金無し」
とかいうものではありません。

これらはなくしてもなくしてもまた出てくる。
お釈迦さまが教えられたのは苦悩の根元を抜き切るというものです。
「破闇満願」という言葉もあるとおりです。

ですので、
南無阿弥陀仏」と
「南無妙法蓮華経」ですので
チョット違うだけのように思えますが、
全然違うのです。

しかしあまり仏教の学問のない人はよく分からない。

釈尊の教えの通りかそれとも否定しているか、
苦悩の根元を抜く絶対の幸福を教えたものか
それとも相対の幸福しか与えないものか、全く違うわけです。