仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

生きる意味がわからないから不安

もし生きる意味がなければ、苦しむために生きることになる。
これはおかしい。

人間何のために生きているのかっていったら、それはやっぱり幸せになるため。
だって、みんな幸せになろうとして生きているんでしょう。
毎日、幸せになろうとして生きている。

「そりゃ、あるだろうが、人それぞれでしょう」という人。
それは板切れ、丸太ん棒ですよと。
これはどういうことか。
一時安心したものの、続かないから別の丸太を求める。
だから不安になる。

その繰り返しでキリがないから、結局いつまでたっても幸せになれない。
一言で言うと、死ぬまで求道。
死ぬまで、安心も満足もありゃしない。
だから、みな不平不満、不安で、
安心も満足もしていないじゃないですか。

人それぞれと思っている心の声に対して、
その人それぞれで結局幸せになれていないじゃないかと言う。
確かにそうだなぁと思わせます。

「だから、それを探している」
「自分はこれでいいと思う物がある」
という人がある。
それに対して、幸せになれない原因がある、
それをみんな知りたいと思っています。

その原因は仏教に教えられています。

その原因をなくした時、
ああぁ〜、うれしい!、とか今日はとっても面白かったぁ〜!、
充実してたぁ!、とか、大満足ぅ〜!とか、
人間に生まれてきてよかった!
って言うような、
 本当の幸せになれるのです。

浄土真宗に教えられていることとは?

浄土真宗を開かれた親鸞聖人の主著が教行信証です。
大部な教行信証の冒頭に書かれているお言葉です。

難思の弘誓は難度海を度する大船
教行信証

難思の弘誓とは、阿弥陀如来の本願です。
これ以上広いお誓いはないから弘誓といわれています。
想像もできない素晴らしいお約束です。

そこで、次に難度海について教えられています。
だから、人生を海にたとえて難度海といわれています。
この話は心の闇をたとえられています。
難度海とは私たちの人生です。

難度海とは苦しみの海、苦海とも言われ、
私たちの人生のことをたとえている。
これを話すには4つのポイントがあります。

①見渡す限り水平線・生きる意味がわからない
②次々と波がやってくる・苦しい
③だから丸太にすがるが裏切られて苦しむ
④最期はドザエモンになって死んでしまう

大変奥が深い話です。
こういう海を渡す船を教えられたのが、仏教です。
苦しみの海と言われる難度海を、明るく楽しく渡す大船がある。
だからこの大船に早く乗れよ。
こう教えられているのが仏教です。

 

阿弥陀如来はなぜ諸仏の王なのか

阿弥陀如来は、本師本仏です。

それはなぜか、阿弥陀経にも説かれています。

阿弥陀には二義あります。
一つには、光明無量、阿弥陀バハ。
二つには、寿命無量、阿弥陀ユス、と言われます。
これは阿弥陀経の名義(みょうぎ)段です。

ちなみに、阿弥陀経の内、真実が説かれているところが二つあります。
名義段と、六方証誠段です。

その名義段に何が教えられているか。
正報荘厳とある。
正報と依報の二つある。
依正二報。
正報は阿弥陀如来、依報は極楽浄土のことです。
まず依報荘厳で、
次に正報荘厳、阿弥陀仏のことが説かれています。
そこを名義段と言われます。

彼の仏の光明は無量にして、十方の国を照らすに障礙する所無し、
是の故に号して阿弥陀と為す。阿弥陀経

これが光明無量です。

彼の仏の寿命、及び其の人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、
故に阿弥陀と名く。阿弥陀経

これが寿命無量です。

これが阿弥陀と言う意味です。
アーミータということで、
測ることができないということ。

中でも光明無量が、阿弥陀如来阿弥陀如来たる所以です。
この光明によってのみ、私たちの苦悩の根元をぶち破ってくださるのです。
他の仏には及ぶことのできないことだから、
十方諸仏がほめたたえておられます。

日本人が一番幸せを感じるのはどんな時か

日本人が一番幸せを感じるときは、どんな時か
アンケートを取ったら、こういう結果でした。

1、寝るとき。
2、食べるとき。

これには、パソコンとか、携帯なんて関係ありません。
寝るとき、車をかぶって寝る人なんかいません。
大体、重くてつぶれてしまいます。
食べるときに、パソコンなんてたべられません。

最近ね、ランチメイト症候群ってのがあるんだって。
産経新聞に載っていた。

OLのあいだにあるみたいなんだけど、
お昼ごはんのとき、みんなと話ができるかどうか不安で一人で食べます。

図書館で食べたり、トイレで食べたり・・・。
また、明日一緒にお昼ご飯食べましょうって、アポをとらねば気がすまない、
とか。

とにかく、不安、傷つきたくない。
だから、自然と人間関係は希薄になっていきます。

これで大丈夫でしょうか?

ブッダの親不孝

 ブッダは一国の太子として王宮に生れたが、
“なぜ、人生に生老病死の不幸や災難があるのか”

 これを遁れる道はないのかと考えあぐねた末、
永遠に苦悩を離れる道を求める為に、
出家するしかないと決意し、
父の浄飯王に必死に訴願されるのであった。

 すると父王は、
“何が不足でこの城を捨てるのか。
後継者がいなければ、この国はどうなる。
お前一人の勝手は許されぬ”
と隣国一の美女、ヤショダラ姫を迎え入れ、男子を出生させる。

太子は小さい時から生老病死で悩んでいましたが、
親の浄飯王は子供の悩んでいる姿をみて、
ヤショダラ姫を連れてきたり、
四季の御殿を与えたりしましたが、とんちんかんです。

まさか子供が生きる意味に悩んでいるなんて知りませんから。

 ブッダは、出家するにしのびない親や、
妻に加えて子供までがふえたということで名前をラゴラ、
訳して障害物と命名されている。

 どうしても許されぬ父王に釈尊は、三つの条件を提示された。

“私の願いは三つです。この条件さえ適えて下さるなら、
出家を思い止まりましょう”

“三つの願いとは、何か”

“一には、私が生涯このままの若さでいられることです。
二には、私が一生病気で苦しむことのないことです。
三には、私がいつまでも死なないことでございます”

“そんな無茶な願いをきける者がこの世にいるか”
 憤然と父王は立ち去った。

“これはもう非常手段をとるしかない”

 ブッダは、秘かに城を脱け出し、不孝な入山学道を選択されたのであった。

私たちのことでいえば、
家族は私達が仏教を聞いている理由を
何か仕事に失敗したとかで聞いているのだろうとか
そんな程度ぐらいにしか思っていません。

どんなに世の中が進歩しても
人間が死んで行かないといけないという
厳粛な事実は変わらないのですから、
そんな人生なんのために生きるのかということを
私達ははっきりさせる為に仏教を聞いているのですから。
世間では中々分かってもらえません。

宗教は視野が狭くなる?

本日は、宗教偏見のある人のよくある批判について
考えてみましょう。

偏見バリバリの人もいますが、だいたい平均的なパターンの批判はこれです。

「なんでお前は仏教の話ばかり真剣に聞いているのか?
 宗教をやっていると、考え方が狭くなる。
視野が狭くなるのではないか!!」

非常にこの方向から批判はよくあります。

確かに宗教全般にはいえるのかもしれませんが、
こと仏教に関してこの批判が向けられるとすれば、
仏教に何が教えられているかあまりよく知らない、
視野の狭い人がよく言ってくる事です。

私達としてはどう心得ておくべきでしょうか?

いろんな答えがあると思いますが、
精一杯視野を広げるといいましても
視野を知る目的を知らないといけないという
答え方もできます。

色々な情報を集めるのは、視野を広げる為とも言えます。
見聞を広めると言ったり、知識を豊かに豊富にするとも言えます。
勉強したり、色々な活動でいろんな経験をして見分を広めたりします。

しかし見聞をせっかく広めたところで
その見聞を何に使うのかということが
大事なんじゃないですか?

その見聞や視野を何に使うのか?

究極的にいえば、本当の生きる目的生きる意味を知らなければ、
見聞を広め、視野を広げる意味はなくなるでしょう。

仏教には本当の生きる意味が教えられていますので、
視野を広げることが意味を持つには、
仏教の教えを知る必要があります。

 

 

 

人間の存在意義

一生懸命生きることイコール良い事というのが
古今東西全人類の大前提になっています。
この上に政治経済科学医学がなりたっています。
この大前提が崩れますと、
政治経済の存在意義も人間の存在意義も崩れてしまいます。

しかし現代の日本、自殺で年間三万人もの人が亡くなっています。

阪神大震災は、非常に大変な災害でしたが、
亡くなったから6000人です。
大変でしたが、年間の自殺者三万人です。
五倍です。
五回阪神大震災があったようなものです。
自殺して行く人達は一生懸命生きて行く事が素晴らしいということを
否定した人達です。

一生懸命生きることは良い事というようなものは根拠にはなりません。
簡単に自殺者に否定されてしまいます。
毎日毎日同じ事の繰り返して苦しいことばかりですが、
そして死んでいく人生ならば一生懸命生きることが素晴らしいこととは言えません。

道徳や倫理には親になぜ感謝しないといけないのか?
なぜ苦しくても生きていかないといけないのか?
なんのために生きるのか
生きる意味に答えることはできません。
なぜ親孝行をするのか、この世に生んでくれた親に感謝しないといけないのか?

ハッキリと明らかに根拠を挙げられているのはブッダ親鸞聖人だけです。
これは学校でも習いませんし、学校の先生も親も会社の上司も、
誰も知らない事です。