仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

モラトリアム的な生き方

仏教では「人生は難度海だ」といわれます。
なぜそう言えるのでしょうか。

難度海とは、渡るのが難しい海
ということです。

人生は渡るのが難しい海のようなものだということですが、
なぜでしょうか。

まず人は生まれたときに海に放り出されたようなものです。
海に放り出されたら、陸はどこだと探します。

陸地が見えない=どこに向かって泳いだらいいかわからないということです。

これを人生に置き換えると、
「どこに向かって生きていいかわからない」
生きる目的が分からない」
ということです。

私たちは目的地がハッキリしているときは、
真っ先にそこに行くことができます。
目的地がわからないとふらふらしてしまいます。

生きる目的がわからないから、なんとなく生きています。
ふらふら生きています。
いやいや学校へ。
生きる意味はわかりません。
五月病になります。
しょうがないから仕事をします。
働く意味もわかりません。
とりあえず授業へ出るか。
とりあえず就職でもするか。

モラトリアム的な生き方は、結局どこに向かって生きればいいかわからない。
だから渡るのが難しい海なのです。

正も邪も勝手に決める我が都合

正邪というのは、自分の都合によって変わります。
「正も邪も勝手に決める我が都合」
という言葉があります。

正しい人いい人は都合のいい人。
悪い人というのは、自分の都合の悪い人です。
自分を認めてくれる人はいい人、
邪魔する人は悪い人です。

親鸞聖人がこのことを懺悔されているお言葉
無明煩悩しげくして
塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは
高峯岳山にことならず

     (正像末和讃

無明・煩悩」とは、どちらも煩悩ことです。
「愛憎違順」とは、自分に従う人は大好き、いい人、
自分の言うこと駄目だという人は憎い、嫌な人ということです。
高峯岳山」とは、山と谷がはっきりしている、
好きな人はうんと好き、嫌いな人はうんと嫌い、
これがご自身のすがたといわれています。

自分が正しいと思っていることは自分の都合ではないか

喧嘩」は俺が正しいと思っているから喧嘩になります。
戦争」は正義と悪魔があるのではない、2つの正義が戦います。
湾岸戦争フセインいかにも悪く思えたのはアメリカサイドの情報を聞いていたから
フセイン、アラブの正義がある、国民はフセインを慕っているます。
子供にフセインの名前をつけている、祖国の英雄です。
2つの正義が戦っているといえます。

仮面ライダーなど、世界征服するといっているがと思っていません。

夫婦喧嘩もそう、どちらも自分が正しい相手が悪いという立場です。
都合でしか相手を見れません。

アブラムシが害虫で
テントウムシが益虫と思っています。
レッテル貼られているだけです。

アブラムシは、人間が食べるキャベツを食べるから人間からみると害虫ですが、
アブラムシからみるとテントウムシが害虫です。

勝ったら官軍負けたら賊軍です。
都合、時代、場所によって正邪変わります。
そういうことで親鸞聖人は

「是非知らず邪正もわからぬこの身なり」

といわれています。

人間は考える葦である

パスカルは人間は考える葦である、と言いました。
詳しくはこう言っています。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。

自然は不条理なものです。
いつのように襲いかかってきて、死んでしまうかわかりません。

そんな中で、考えてこそ人間という意味ですが、何を考えるのでしょうか。
それは、必ず死ぬのになんのために生きるのか
ということです。

なぜ生きるかを考えなくても、生きることはできます。
しかしもしなんのために生きるのか考えないのであれば、
あくまで、生物として生きているのであって、
考える葦としては生きていないのです。

細胞が集まって、
人間の形をしているだけです。
人間は万物の霊長と言われます。

なぜ、霊長と言われるのでしょうか。
それは人間だけが、自分の生きる意味を考える事ができるからです。
生きる意味を考える事は人間だけが持つすばらしい特権です。
その特権を放棄してただ、食べて寝て一生を送って、
どうして人間に生まれた意味があるでしょうか。

逆に生きる目的を持ち、達成したときには
我、生きるしるしここにあり、
人間によくぞ生まれたものよ、と凱歌を挙げることができます。
生きる目的を達成してこそ、
私は人間にしかできない、生き方ができたのだ、
人間に生まれて本当に良かった、と満足する事ができます。

だから、人間らしい人間とは、生きる意味を真面目に考える人です。
頭の善し悪しなんかでは、人の価値は決まりません。
もし記憶力のよさで価値が決まるのならば、
コンピュウーターは人間より偉い事になります。
生きる目的を真面目に見つめ、達成すれば、人間として生きた、
価値ある人生となります。
そこでこれは、人類始まって以来の壮大なテーマなのです。
昔から、心ある人ならば、誰でも考えずにおれない事なのは当然です。
そして、人類はこの答えを見つけてきたのです。

すでに仏教に答えが示されていて、
生きる意味はズバリ何か、
人類の大切な智慧として、受け継がれてきたのです。

なるべく一人にならない

仏教を求める心がけとして
「なるべく一人にならない」
というものがあります。

 

浄土真宗を日本全国に広められた蓮如上人は、
「同行・善知識にはよくよく近づくべし」
(御一代記聞書150)
と教えられています。

連れが大事、教えが大事ということです。

一人になっていいことはあまりありません。
みんなの見ているところでは善男子善女人の顔をしていても、
一人になると、何をし始めるか分からないのが私たちです。
を行じはじめることはほぼありません。
人に言えないようなを始めます。

ということは、一人になろうとし始めたら危険です。

「同行・善知識に近づけ」というのは、
「同行」とは、共に仏法を求める仲間のこと、
「善知識」とは、仏教の正しい先生のことです。

一人になりたいということは、
他の人に会いたくないのですが、
そこを近づくのが大事ということです。

みんな苦しい中頑張っているのを見て
頑張ろうという気になります。

つまり、仏縁の深い、燃えている方に近づき、
自らも燃やしてもらうということです。

 そして一緒に仏教講座に参詣して仏教を聞かせて頂く
ということです。

 

地獄の苦しみ

ブッダは必堕無間と教えられています。
すべての人は、必ず無間地獄に堕ちるということです。

親鸞聖人はこの無間地獄について、
八万劫中大苦悩ひまなく受くと教えられています。

一劫は4億3200万年。
八万劫はその8万倍です。
気の遠くなる苦しみをひまなく受けるということです。

ブッダでも地獄の苦しみは説けないといわれています。
説いたものは口から血を流し、聞いたものは耳から血を流す。
それでは分からないから譬えを持って説こう。
朝100本、昼100本、夜100本、合計300本の槍で疲れる苦しみをどう思うか。
仏語に虚妄なし。
真剣に聞いていたお弟子はびっくりしました。
一本でも大変です。
そのお弟子に対してそれで驚くのはまだ早い。
小石を拾われ、小石を現在の苦しみとするならば後生の苦しみはあの山々のよう。
これは『賢愚経』に出ています。

これが分かったら後生の一大事解決以外にすることはありません。
どんなにやりたいことがあっても後生の一大事を解決しなければ後悔します。
親鸞聖人もブッダも後生に一大事があるんですよと叫んでいかれた。
火事の時、みんな起きろと鐘をたたく。
私は寝ている、夢の中で儲かった、いいものを食べた。
これで幸せですか?夢を見て時を過ごしている。
これは酔生夢死の悲劇ではないですか?

ブッダは2600年前に警鐘乱打された。
親鸞聖人は800年前目を覚まされ鐘をたたかれ、
500年前に蓮如上人が目を覚まされ鐘をたたかれた。
休まれる日もなく後生の一大事を叫ばれた。

法然上人と親鸞聖人の著作の共通点

浄土真宗を開かれた親鸞聖人のお師匠様は
浄土宗を開かれた法然上人です。

弟子である親鸞聖人の任務は
師匠である法然上人の御心を
明らかにすること以外にありませんでした。

法然上人が阿弥陀如来の本願一つを
明らかにされて書かれたのが選択集です。

お師匠様である法然上人の選択集の御心を
明らかにされたのが教行信証です。
その教行信証を書かれたのが関東におられた時です。

その教行信証は亡くなられるまで修正を加えられました。
お亡くなりなるまでどうしたらお師匠様の御心をあきらかにできるか
と修正に修正を加えられた。

法然上人にはたくさんのお弟子がありました。
親鸞聖人から見るとはるかに先輩で高弟・上足といわれる人達がたくさんありました。
しかし、法然上人は親鸞聖人に選択集の書写を許されました。
それは、法然上人のみ心を一番親鸞聖人が正確に迅速に
多くの方に伝えることにずば抜けておられました。

三大諍論というのも阿弥陀如来の本願をについて
法然上人のみ心を間違っていたことを正されたことです。
こういうところからも親鸞聖人がずば抜けておられたと言うことがわかります。

選択集の教えを一言でいうと「捨閉閣抛」です。

それすみやかに生死をはなれんと欲わば、二種の勝法のなかに、
しばらく聖道門を閣きて、えらんで浄土門にいれ。
浄土門にいらんとおもわば、正雑二行のなかに、
しばらくもろもろの雑行を抛てて、えらんで正行に帰すべし
法然上人『選択本願念仏集』)

それを教行信証にも引用されています。
それを明らかにされた教行信証は「三重廃立」です。

法然上人は私達の後生の一大事を解決できる仏は
阿弥陀如来しかおられません。
だから、阿弥陀如来一仏に向けよと教えられたのです。

当時、仏教の本というのは阿弥陀如来の本願と関係のないものばかりです。
聖道仏教ばかりだから、それらのものは捨てよ、閉じよ、閣けよ、なげうて
と教えられたのが法然上人です。
その法然上人の御心を明らかにされたのが
三重廃立の説かれている教行信証です。

聞法の心がけ

後生の一大事とは、死んだらどうなるかの一大事です。
すべての人は必ず死ななければなりません。
死ねばどんなにお金があっても、地位や名誉があっても何の関係もありません。
後生の一大事の問題は、この世のものとは比較になりません。

仏教の目的は、その生涯最大の大問題である
後生の一大事の解決です。

私たちの本当の生きる目的も、後生の一大事を解決して
本当の幸せになることです。

ところが、その生きる目的を簡単に見失う私達ですので、
本当の仏教を教えられる先生から聞かせていただかないと
後生の一大事は解決はできません。

仏教講座は心がけを正して聞かせて頂かなければなりません。
一回一回の仏教講座が勝負という心がけです。

たまに仏教講座に遅れて入ってくる人がいると気になります。

親鸞聖人は最初、追っ手から逃れるために比叡山に入ってきて
ろくに修行もしない落ち武者たちを見下していました。
それと同じように私達も相手のことばかり気になります。

ところが親鸞聖人は、他人のことから
自分の事に目を向けられて後生の一大事の解決に向かわれました。

私が今から地獄に落ちねばならんということわかったなら
人のことよりも、自分はどうだということになります。

親鸞聖人は後生の一大事に焦点が定まっておられたから、
自分はどうだと進んでいかれました。
色々な問題が起きますけれど私の後生の一大事は
私の聞法の原点であるということを心にかけて
聞かせて頂かなければなりません。

目的の大きさに比例して努力精進せねばならぬのが因果応報の鉄則です。
ある結果を私を求めたならばそれに応じた種まきが必要です。
仕事でより大きな結果を出そうと思ったら、
たねまきの質と量をあげなければなりません。

自分の現状はどうでしょうか。

自分はこれだけ忙しいからなかなか仕事はできない、
という風にやっていたら、
結果から自分はどれだけのことをしないといけないか
ということを逆算します。

家を建てようと思ったら、
今これだけあるからこれだけためればいいだろという
のではなくて、これだけの家を建てるなら
どれだけ必要かということを割り出します。

後生の一大事の解決ということを果たすためには
今一体どんな心でなければならないのか、
よく目的を確認しなければ、
自分の身口意の三業に変化があるということもありません。

後生の一大事の解決にはどういう心で進んでいくのか、
親鸞聖人が求められたのか、
自分のこととして聞かせて頂かないと、
後生の一大事の解決ということはありません。

その後生の一大事の解決は聴聞に極まります。

親鸞聖人は形ができていたけれど
心はむちゃくちゃであるということを知らされた、
後生の一大事から私の言動というものを変えていく。
一座一座大切に聞かせていただきましょう。