仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

顔がない……

以前、経済誌のウェッジという雑誌で、
特集なんですけど、新リーダーの研究がありました。
こうあります。

21世紀を迎えて、恐るべき事と言えば、日本のリーダー不在。
指導者の育成を真剣に考えるとまずエリート教育の復活であろう。

最近その試みとして各界から注目されているのが、アスペンセミナーである。
そこで、古典哲学を広く学び、明確な価値観や目的意識を身につけていく。
今の日本人指導者に必要なのは、なぜそうなのかという根元的な問いかけなのだ。


今経済の雑誌を読んでも良く言われるのは、哲学を持てと言うことです。
政治家でも経営者でも、あるいは科学者でも、
「哲学を持て」って良く言われます。

哲学を持てと言うことは、
明確な価値観、
目的意識をもてと言うことです。

だから、目的を持てと言うことです。
まあ本にはよく目的意識って出てきますけど、
生きる目的を持てということです。
明確な価値観を持て、目的を持てと言われます。

その為に、古典とか、哲学を学びます。
そういう人が社会でも求められているのです。
これは全くその通りです。
よく日本人の日本の政治家は顔がないと言われます。

顔がない。

日本の政治家って言えば誰を思い浮かべる?

阿部首相。

顔がないよね。
ありますか?
ありますよね。
でもあれ顔じゃないんです。

いや顔はあるけれども、その肉体の顔じゃないんです。
この顔がないってなぜ言われるかっていうと、
哲学がないということです。
理念がないということです。
ビジョンがないということです。
オピニオンがないってことです。
自分の主義主張がないってことです。

今政治家でも、経営者でも、科学者でも、ビジョン、オピニオン、
哲学がなかったら顔がないって言われちゃうのです。

そういう哲学を学ぶことが大切です。
その為には、私たちの数多くの人生の先輩達、
偉人とか賢人と言われる人達。

人生の大先輩達の様々な成功例とか、失敗例とか。
人生の教訓を学ぶのが古典です。
中でも、最大なのは、仏教です。

そういう古典に学ぶ、哲学に学ぶって言うことが、
一つの大きなテーマです。

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狂人の主催するオリンピック


もし文学の好きな人なら、
たとえば芥川龍之介って知ってますよね?

芥川龍之介侏儒の言葉の中にこんな言葉があります。

『人生は狂人の主催するオリンピックのようなものだ』

こう芥川は言っているんだけど
それはどうしてかっていうと、
みんな一生懸命走れとか、
一生懸命泳げとか、そんな風に言っいます。

それは、ゴールがあればみんな一生懸命
走ったり泳いだりするけど。

ところが人生って考えてみると、
生きる目的も知らずに、みんな一生懸命頑張ろう。
一生懸命生きよう。
一生懸命勉強しよう。
一生懸命働こう。

そんなこといったって、ゴールがなかったら、
それは、ゴールのないマラソン
ゴールのない水泳、
ゴールのない競争みたいなもので、
どこまで行ったって、終わりはありません。

そのうちにみんな疲れてバタバタバタバタ倒れてしまいます。
まさに狂人ね、言葉は悪いけど、
キチガイが主催したオリンピック大会みたいなもので
『お〜いこれゴールどこなんだ』

みんな走ってるけど
『ねえお前ゴール知ってる?』
『いや知らないお前は?』
『知らない』
『俺も知らない』
『だけどしょうがないな、みんな走ってるんだから』

『お、あいつ早いな俺も負けないように一生懸命走ろう』
『おいお前もがんばれよ』
『おいお前寝てんじゃないよ、リポビタンD飲んで、ほらがんばれよ』
ってみんな言うけれど、だけど結局だれもゴール知りません。

そのうちにみんな疲れて一人倒れ、二人倒れ、三人倒れ、
バタバタバタバタ倒れて、やがて自分も倒れていきます。
そんなオリンピックだったら、
まさにそれは狂人の主催するオリンピックじゃないでしょうか。

もし人生に目的がなかったらそういうことにならない?

 

苦しくても仕事をするのは目的があるから

みんな辛い仕事をするのも、
学生なら嫌な勉強するのも、
それは目的があるからです。

受験勉強なら、誰もやりたくないのに
大学にはいるという目的があったから
やるわけです。

受験勉強苦しかったけれど、
それは大学に入ったら喜べ
ると思ったからですよね。

そういう目的があったからこそ
辛い勉強も一生懸命できたと思いますよ。

これがずっといつまでも辛いのでは、もう嫌だ。
辛い苦しい受験勉強が永遠に続いて、絶対合格できない。
絶対に大学に入れないとします。

だけど永遠に勉強しなくちゃならないとなったらどうしますか?
勉強しないですよね。

大学に合格できる、そういうゴールがあるから、
嫌で辛い勉強でも一生懸命がんばれたはずです。
ゴールを目指してがんばれたはずです。

人生だってそうです。
苦しいだけで終わったら、生きる意味が分からなくなります。
人生には、目的があると仏教に教えられています。

このブログは、生きる目的を考えたい、
仏教に大事なことが教えられているということを知ってもらって
読んで頂いていると思います。

楽しそうだからでもいいけれど
少なくとも仏教に説かれる生きる目的を発信していることを
知らずに読まれても困ります。

本当の生きる目的がわかるなら、
ぜひ読みたいという人にお読み頂ければと思います。

 

true-buddhism.com

仏教の出家と修行の目的

親鸞聖人が9歳で出家されたとき、
このような歌を詠まれました。

明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

親鸞聖人が出家された目的は、
名誉の為でもなければ地位の為でもありません。

今死ぬと思うと出てくる不安な心、暗い心を明るくなりたい
ということです。

それには、明日ありと思う心が仇となります。
実際に父母ともまだまだ一緒にやっていけると思っていたが、
とんでもない間違いでありました。

今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。
人の命は、桜の花よりも儚いものと聞いています。
明日生きておれる保証などありません。

親鸞聖人の無常観がビンビンと伝わってきます。
親鸞聖人が20年間比叡山で御修行された目的も、
後生の一大事の解決、それ一つでした。

これは、もとはブッダがおっしゃったことです。

 

私たちも仏教を聞くときは、
そういう気持ちでなければならなことを
教えられているのです。

 

馴れほどこわいものはない

仏教を聞く心構えについて、
蓮如上人は、このようにいわれています。

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蓮如上人、
「おどろかす甲斐こそなけれ村雀、耳なれぬれば鳴子にぞのる」、
この歌を御引きありて、おりおり仰せられ候、
「ただ人は皆耳馴れ雀なり」と仰せられしと云々。(御一代記聞書175)

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馴れほどこわいものはないということです。

初めは鳴子が鳴るとびっくりして逃げていきます。
しかし雀も何回も鳴っていると、慣れてきます。
大丈夫だな。
鳴子というのは、案山子もそうです。

「おりおり仰せられ候」とあるから、
ことあるごとにおっしゃっていたということです。

蓮如上人悲しんでおられます。
悲しみが伝わってきます。

生あるものは、必ず死んでいかなければなりません。
それは明らかなことです。
死なない人はどこにもいません。
100%確実な未来です。
そして、みんな内心、死をおそれています。
たまに死が恐くないという人がいます。
それは死を他人事のように思って、
自分は死なないと思っているだけです。
みんな恐いのです。

ビートたけしも言っています。
平生死は恐くないと言っていたが、それは間違いであったと。
破滅です。

大切なものを、何もかも全部おいていかなければなりません。
親も、子も、財産も。
それを嬉しい人はどこにもありません。
死後にある後生の一大事、御文章にこれだけ出てきます。
それは蓮如上人繰り返して教えておられたということです。
誰でも初めは、後生の一大事と聞くと驚きます。
しかし何回も聞かせていただくと、
悲しいかな耳慣れ雀になってしまいます。
それに対して蓮如上人悲しんでおられます。 

 

仏像の意味とは?

昔、中国の唐代に丹霞という僧侶がいました。

ある冬の寒い朝、本堂の本尊の仏像を持ち出して打ち割り
たき火をして尻あぶりをはじめました。

信徒達は、それを見てカンカンに怒って
「この罰当たり奴が、なんという勿体ないことをするのか」
と言うと、丹霞禅師は平然と答えています。

「俺は仏像 を火葬して舎利(仏の骨)を得ようと思っているのだ」
信徒たちはあきれて
「お前は、よっぽど馬鹿な奴だ、木の仏像 を焼いたって、
どうして舎利が得られるんだ」
といえば丹霞すかさず
「舎利の取れないような仏像なら焼いたって一向に差しつかえないではないか」
と喝破しています。

ピカピカ輝く 仏像にとらわれて、
そのもとである仏心を忘れてはならない
ということですね。

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南無阿弥陀仏は単なる文字?

南無阿弥陀仏という真実の宝は、
阿弥陀如来が私たちに受け取らせるために作られました。

ところが、南無阿弥陀仏
単なる文字じゃないかという人がいます。
南無阿弥陀仏は、垂名示形の南無阿弥陀仏です。

名をたれて形を示された
阿弥陀如来の御心の顕現です。

阿弥陀如来の御心が分からないものが、
そのままでは絶対に分かりません。
それを形にされたのです。

好きな人からラブレターをもらいます。
「前からずっと気になっていたんです」
それを読むと、幸せを感じます。

それは別に、字によって幸せになるのではない。
書いた人の心をくみ取って幸せになります。

阿弥陀如来の御心を形であらわされたのが、
垂名示形の南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏を与えます。
これを全徳施名といいます。