仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

浄土真宗の正しい御本尊とは?

本尊というのは、根本に尊ぶべきもの、ということです。
お仏壇の中に何が安置されているかということですね。

蓮如上人という方は、親鸞聖人の教えを絶対正確に、迅速に、
多くの方に伝えた方で右に出るものがないという方です。
一器の水を一器に移すがごとく。
そういうことが分かるお言葉があります。
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蓮如上人へある人申され候、開山の御時のこと申され候、
「これはいかようの子細にて候」と申されければ、仰せられ候、
「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山のめされ候ように御沙汰候」
仰せられ候。
(御一代記聞書159)
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親鸞聖人が、どうしてこのようにされたのか私も分からない。
しかし、親鸞聖人のなさったようにするのがよいのだと。
絶対正確というのが一番大事です。

では、親鸞聖人はどうであったのか。
蓮如上人が絶対正確に伝えられた親鸞聖人の教えはどうであったかというと
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更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、
われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。
その他は何を教えて弟子といわんぞ」と仰せられつるなり。
されば、友同行なるべきものなり。
これによりて聖人は、「御同朋・御同行」とこそ、かしずきて仰せられけり。
(御文章一帖目第一通・或人いわく)
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珍しい、親鸞聖人が編み出した、作られた教えはないんですね。
プロレスなんかで、よく新技といわれますが、
そういうものはないんで
すね。

「ばかり」というのは、ものすごく強い言葉で、
それ以外にないという
ことです。

「御同朋・御同行」というのは
同朋というのは兄弟。
ともに阿弥陀仏の弟子ということで、御の字をつけられています。

ここで分かるのは、親鸞の弟子ではないということです。
皆、阿弥陀仏弟子、釈尊の弟子。
仏弟子だから差はないということです。
お釈迦様の教えを、そのまま伝えているのだから
親鸞の弟子ではないということで
す。


同様の趣旨のお言葉が、『歎異抄』第六章にもあります。
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専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らんこと、
もってのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候。
そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ、
ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申し候人を、
「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。
歎異抄第六章・弟子一人も持たざる事)
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親鸞聖人という方は、あれは俺の弟子とか、俺の子分ということを
ものすごく嫌われたんですね。
権力争いのようなことがあっては絶対ならないと。
仏法を聞いている人たちで、あれは私の弟子、あれはあいつの弟子などということは、
とんでもないことだと、腹を立てておられます。
私の力でその人を救うことができるなら、弟子と言うこともできようが、
とも
阿弥陀仏の力、仏法の力で救われるのだから、
私の弟子などと言うこ
とはとんでもないことだと。
大変ご立腹です。
皆、阿弥陀仏弟子であり、釈尊の弟子なんです。

仏法以外のことを絶対伝えてはならないという思いを
強く持っておられ
たんですね。

親鸞聖人は、釈尊の教えをそのまま説かれた方です。
その親鸞聖人の教えを、そのまま説かれた蓮如上人がどうおっしゃっているかというと
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他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。
当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
(御一代記聞書70)
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他流というのは、浄土宗のことです。
先生は以前、地獄行きの者達とも言われました。
他へ流れていくというのは、地獄へ流れていくんですね。
また、迷信、邪教、聖人以外のすべての宗教ともおっしゃったことがあります。


他流では、
「名号よりは絵像がよい、
絵像よりは木像がよい」と言うんですね。
絵像というのは阿弥陀仏の絵のことです。
木造というのは金ピカの阿弥陀仏
仏像なんですね。

対して、当流というのは浄土真宗のこと。
極楽へ流れてゆくもの。
「木像よりは絵像、絵像よりは名号」
このようにハッキリ書かれています。

西本願寺はじめ真宗十派は、ほとんど木像なんですね。
ここにはこう書いてあるけれども、結局一緒なんだと言います。

一番大事な御本尊から、間違っているということなんですね。

私たちの苦しみ悩みの根本原因は煩悩ではなかった

人生の目的というのは、一度しかない人生を悔いなく終わるために、
とても大事なものです。

仏典の中にその答えがあるわけですが、
ではどうしてそう言えるのか、詳しく学ぶために、教学をしていきます。
教学というのは、仏教の学問です。
教学をすることで、人生の目的が「破無明闇」であるということも判然としてきます。

人生の目的と聞くと、人それぞれ好きなことをすればいい、
という人もあります。
ほんの一時は喜べても、そのうちに色褪せてしまう。
そんなものばかりを追い求めるだけの人生でいいのでしょうか。

「そうじゃない、
心の闇を破ることである」
言葉では簡単に言えるんですが、
仏教は今日、一切経となって残っています。

その数は七千巻余りといわれ、膨大です。
この膨大な一切経に説かれていること、それは
人生の目的が、心の闇を破ることである、ということ一つです。

仏教には何が教えられているのか。

愚禿鈔』にあります。

ここには、二双四重の教判が教えられています。

「聖道・浄土の教について二教あり〜」

これは、別に今は意味が分からなくても大丈夫です。
どういうことが説かれているのか、簡単に言うと
釈迦の本意はどこに説かれているのか、
その本意を明らか
にするための方便のお経、
そういったことが順序立てて教えられています。


一言で仏教と言っても、
聖道仏教といわれるものと浄土仏教といわれるのもの
2つがあります。
漢字でこのように書くと、見慣れない感じがするかもしれませんが、
つまりは、何が苦しみの原因なのか、ということです。

誰も苦しむために生きているわけではありません。

何が人生を苦しみに染めているのでしょうか。

聖道仏教ではその原因を「煩悩」だと教えます。
浄土仏教では「心の闇」だと教えます。

「煩悩」というのは全部で108あります。
代表的なのは、貪欲、瞋恚、愚痴です。
持っていない人はありません。
この108の煩悩が年がら年中、私たちを煩わせているように思われますので、
除夜の鐘は108回鳴りま
す。
中国でも鳴ります。

108つ鳴るのには意味があって、

この1年、色々とイヤなことや辛いことがあった。
煩い悩みが絶えなかった。
そんな煩悩が、鐘が鳴るごとに減ってくれるなら、どれほど幸せになるだろう。
そう思って新年を迎えるんですが、
年が明けると同時に初詣に行って、色々お願いしています。
煩悩はなくならないんです
それでも、なくなったらいいな、そういう願いから除夜の鐘はつかれます。

私たちの欲といっても5つあります。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つ。
どれが一番強いでしょうか。
これまでの分析によりますと、最初と最後を選ぶ人は、
実は真ん中が一番強かったりするんですが。

欲とは「欲しい」ということです。

キリもキワもない。
そんな欲を満たそうとしても無理ですので、
常に「不満」という苦しみに染まっている。

また、他人のものであっても、自分のものにしたくなる。
それが欲です。

そうやって手にしたら、誰にも譲りたくない。
でも、それが高価なものであれば、みんながそれを狙っている。
そうなると、落とすんじゃないか、盗られるんじゃないか、
そう思って「不安」になる。

手にすればするだけ、「不安」は大きくなる。
何がそうさせるのか。

それは欲です。


社会に出た人にインタビューしますと、
一番苦しいのは“人間関係”だと言わ
れます。
それも、こうした煩悩からきています。
そうなると、これさえなくなれば、これこそ苦しみの原因だと思ってしまいます。
ですがもしそうなれば、なくならないものが根元だということになりますので、
一生苦しみ続けること
になる。

はじめは苦しみの根元は煩悩だと思い、何とかなくそうとされたのが、
親鸞
人の比叡山での仏道修行であったのです。
昔から日本の仏教といったら比叡山高野山
今でいうと、東大と京大。
優秀な人が集まっていました。
どっちが京大で、どっちが東大か。
その比叡山の傑僧と呼ばれたのが親鸞聖人でした。

厳しい修行の後、29歳で山を下りられます。
そして、吉水に法然上人が草庵を建てておられた。
そこで、法然上人から、
「苦悩の根元は煩悩ではないんですよ、心の闇なんですよ」
ということを聞かれたので
す。

親鸞聖人の生涯を通して、苦しみの根元は心の闇である、ということを
らかにしています。

煩悩について、詳しく知りたい方は、
こちらの記事を見てみてください。

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四苦八苦と人生の意味

ブッダは、人間の8つの苦しみを
四苦八苦で教えられています。

四苦とは4つの苦しみで
生苦、老苦、病苦、死苦のこと。

なかなか死ぬということまでは心がかかりません。
それは、経験がないから。
経験のあることしか分かりません。

女性が苦しみを訴えるのに、男性は少しも分からない。
男性がどれだけ上司に叱られたということを女性に訴えても分からない。
お互い経験がないからです。

まだまだいつまでも生きていられると思っているうちは
死苦は分からないんです。

生苦というのは生きる苦しみ。
中でも一番分かるのは人間関係だといわれます。
相当苦しんでいる人もあると思います。

ですが、一旦死の苦しみが起こってくると、
人間関係なんてどうでもよく
なっしまう。
それくらい違ってくるんです。

老苦は、何となく分かるんですよね。
お年寄りを近くで見ているから。

病苦も、体験から分かるところもあるわけです。
風邪を引くと、おいしいものが食べられません。
夕方になると毎日40度近く熱が出るようになる、
そんな病気にかかったら、人生の苦しみのほとんどを失ってしまうのでないか
と経験から分かりますよね。

若い時には、「年老いてまで生きるくらいなら死ぬ」
こう思っている人もあるかもしれませんが、
「冷や飯食うても娑婆におりたい」と言って、
どんなに年を取っても、生きていたい、となるんですよ。

病院食を食べながらでも生きているのは
そうしてでも生きていたいから。

死ぬ気でやれば何でもできる。
これは、死ほど苦しいことはない、ということなんです。

老いは死のシグナル、病は死のたより、といわれます。
死を直接見ると、あまりに苦しいから
老いや病を通してオブラートに包んで死を見ている。

四苦八苦について、もっと詳しく知りたい方は、
こちらの記事を見てみてください。

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四苦八苦の苦しみは、四苦のほかに
あと4つの苦しみがあります。

愛別離苦
愛する人やものと別れていかなければならない苦しみです。

愛している対象への思いが強いほど、別れが悲惨なものになる。

では、一番愛しているのは、
「わが子を捨てるやぶはあっても、我が身をすてるやぶはない」
といわれます
一番愛しているのは自分の命なんです。
だから、最大の愛別離苦は自分の命を失うことです。

怨憎会苦というのも、嫌な対象が大きければ大きいほど、
会うのが嫌なんでしょ。

私も、不良にからまれた時期がありました。
朝起きたら学校へ行くのが嫌なの。
いつ殴られるか、リンチにあうか、ビクビクしていました。
殴られるくらいならまだしも、これがヒットマンだったら、
もっと嫌でしょ。
自分を殺す人以上に嫌なものはないですよ。
殺人までするストーカーというのもいるんですよね。
お前を殺して私も死ぬっていう。

私たちは、終始、自分を殺すストーカーに付きまとわれているようなものじゃないですか。
死んでいかなければならない以上の怨憎会苦はありません。

求不得苦という苦しみ。
これも、一番強い欲求は死にたくないという欲求です。
これを「生命欲」と岸本教授は言っています。

のどがカラカラに渇いた時は、バケツの水でも飲みたくなる。
「生きたい!!」というのは、のど渇いた時の欲求なんかより、
よっぽど強い欲求です。
だから、最大の求不得苦を人生の最後に経験しなければならないことになる。

死んでいかなければならない苦しみは、一番恐ろしい。

そこに向かって1日1日進んでいます。
「生きろ」
どこまで生きろというかというと、
死ぬまで生きよ

苦しみに向かって生きよ
人間は苦しむために生まれ、苦しむために生きることになってしまう。
みんな苦しむために生きているんじゃない。
幸せになるためです。

では、どうすれば幸せになれるんでしょうか。
なぜ生きるについて、明らかに答えを出されたのがブッダです。
だから、世界の光と尊敬されるのは当然なんです。

色んな人の人生観を聞いてみると、
全部「どう生きるか」です。

よく、「奇跡が起きて、ガンが治ったんです」
というのがある。
これは、死までの旅が少し長くなっただけ。
結局、死んでいかなければなりません。

では、生きていかなければならないのはなぜですか?

これにハッキリと答えを出しておられるのが仏教だということです。

 

餓鬼ってどんな人?

よく子供のことを「餓鬼(ガキ)」と言います。

なぜ餓鬼というかと言いますと、
何もかもしてもらって当たり前、してくれなかったら腹を立てる。

仏教では、我利我利亡者で、自分の欲を満たすことしか考えず
欲のまにまに布施の功徳が足りないものを餓鬼と言いますが、
子供は、親が何でもしてくれて当たり前。
食事を作ってくれて当たり前
お弁当に箸が入ってないと怒る。

「父ちゃん、仕送りが入ってないじゃないか」
こうやって仕送りを入れてくれるのが当たり前。
でも、本当はそうじゃない。

もうちょっと親のことをありがたいと思っていいわけですけど
餓鬼というのは、そういうことが分かりませんので
「あれしてくれて当たり前」というのを餓鬼と言うんですね。

ところが、その餓鬼が親になったらどうでしょうか。
親になったなら、子供というのは、わがままでお小遣いをくれて当たり前。

親だって、お小遣い欲しい、寂しいときもある。
でも、まず子供のために何かせずにいられない、そういうのが親ですから
親になって初めて、親の恩が分かるということがあります。

親の恩と言いますのは、なかなか分かりません。

「母ちゃん、車出して」
ちゃん、ギャク寒いよ」
ちゃん、つまんない」
と言ってるうちは、親の苦労は分からない。

ところが親になって、一人の人の仏縁をまもろうとしたならば
どれくらいの苦労がいるのか、やってみないと分かりませんね。

親孝行について、知りたい方はこちらをご覧ください。

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天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊
 三界皆苦吾当安此」

こうありますが、これも大事なところです。
人生の目的は万人、すべての人に共通であり
たった一つのものだということを道破。
道破とは喝破と同じ。

これは道とは言う。
破は強調。
言い切る、言い尽くすという意味。
誤りをぶち破るときに使う言葉。
私たちは迷いの心を持っている。
それで喝破という。
カツ!
これも強調です。
言い切る、言い尽くす。
私たちの迷いをぶち破る言い方が道破する。

まさに喝破、道破する
言葉がたくさんあります。
みんな人生の目的はないと言っているから。
人生の目的は万人共通唯一と道破されたお言葉ですね。

じゃあどういう言葉なのか。
天上天下
このお言葉はたくさんのお経に
あるのですが、
一般にはお釈迦さまが生まれられたときに言われたお言葉だとい
われています。

天の上にも、天の下にも、ということで大宇宙ということ。
たった一つの尊い使命を持って私たちは生まれてきたということです。
世間では「唯我独尊」といえば、私だけが正しくて、あとは間違っているというときに使う。

これはそんな意味ではない。
大体お釈迦さまほどの方が、
「私だけが偉くて、
あとは虫けらだ」
などと言われるはずがない。

これはすべての人々がたった一つの尊い使命を持って生まれてきたという意味なんです。

だからこの「我」にはお釈迦さまのみならず、あなたも入っている。
その証拠に、お釈迦さまご自身のことを言われるときには
「吾」という字を使われています。

「我」はすべての人。
ここではこういう違いで使い分けされています。
いつもそうではありませんが。

万人共通の人生の目的を持って、人は生まれてきたのだ。
これが唯我独尊。


そして「三界皆苦」
苦しみ悩みの世界を三界といいます。
苦しみ悩みの、私たちの住んでいる世界を三界という。

この世界は苦しみで充満している。
そういう中、お釈迦さまはこの苦しみの世界にありながら、
私はまさにここに安ん
ずべし。(吾当安此)
三界において、大安心大満足の幸せになることができた。

その苦しみの中にありながら、安らかな楽しい世界に生かされたのだと
お喜
びになっています。
この安此には二つ意味があって、
ここにやすんずべし、と
う言い方と
ここをやすんずべしという言い方がある。


お釈迦さまご自身がこの世界で大安心、大満足の身になられたということ。
またこの身になられた方は、他の人も大安心大満足に導かずにおれない。
救われていただきたいという思いで、決死の布教を
お釈迦さま、35歳から80歳まで続けられたのです。


この言い方を私たちは自分のこととして読める、味わうことができる。
天上にも、地上にも人間のみの独尊あり。
人間のみにしか果たせない使命がある。
畜生では果たせない、人間だけしか果たせない使命がある。

人間でなければ、因果の道理をわきまえることも、仏教を聞くこともできない。
人間界しかできない。
その、人間界でしか果たせない、尊い目的がある。
だから人命は地球よりも重いといわれる。

この娑婆世界は苦しみが充満している。
三界の獄という表現がある。
人生は四苦八苦とも言われます。
悩み絶えない一生なら、哀れというもおろかなり、です。

ところが三界皆苦、その苦しみの中にありながら、安らかな楽しい世界がある。
吾当安此はお釈迦さまだが、これはあなた自身のこととしても味わえます。

その苦しみの中にありながら安らかな楽しい世界がある。
この三界の中で大安心、絶対の幸福になれば、一人でも多くの人に同じ身になってもらいたい。

一人一人が読ませていただけるお言葉ですね。

歎異抄第7章の天神地祇は鬼神?

歎異抄第7章には、無碍の一道へ出ると、無碍の一道へ出た人に、天神地祇が敬伏すると教えられている。
ここで敬伏する天神地祇は、鬼神ではない。

天神地祇とは天の神地の神だが、仏教でいわれる神とはなにかというと、仏典で説かれている神。
梵天とか帝釈天とか。
梵天については、以下の記事をみると、非常に詳しく出ている。

true-buddhism.comこれらは六道輪廻中の迷いの世界の人たち、天神地祇の地祇も堅牢地神龍王、炎王など。

天神とか地祇で、お釈迦さまが経典で明らかにされているところの神、
善鬼神、悪鬼神というのがある。
そういう存在として説かれている。

諸神、それらの神は、何を目的としているかと言うと信心決定した人を護る神。
仏法求める人を護る神。
例えば帝釈天は仏教求める人にメンタルテストする、今までいろいろあった。
仏教聴聞をとるか、一回休んでこれをとるか、はらを立ててた人が帝釈天に変わる。
そういう仏教で教えるような帝釈天

帝釈天については以下の記事に一番詳しく出ている。

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その神にも垂迹の神と業報の神がある。
垂迹の神とは、本が仏で、神になって現れたもの。
業報の神は、己の行い報いによって現れた神。

このように2つある。
これは何れも因果の理法にかなったもので仏教に外れたものでない。
私たちに禍福を与えるなら鬼神だが、そうでない。
私たちを幸せにする力はまったくない、迷いの人たちだから。
天神地祇も敬服すると言うのはそれらの諸神が敬って敬服すということ。
尊敬せずにおれなくなると言うこと。

これらが天神地祇だが、一方、鬼神というのは、死んだ動物や人間を神に祭り上げているもの。
日本神道のようなもの。

例えば鳥居の絵がブロック塀に書かれている所がある。
何のために有るか分かる?
鳥居をブロック塀に書くと「立小便禁止」とどれだけ書いても聞かんのがこれかいたらぴたっと止まる。
笑い話のようなものだが、それだけみんな神を信じている。
この信条こそが迷信を徹底的に破らなければならない理由。
仏法者は無碍の一道へ出て、そういう神々に頭下げさせる身になる。
阿弥陀仏以外の一切の権威は認めない。
まして鬼神は存在しない。

人は死ねばそれまでの行いによって、因果の道理に従って次の世界に生まれるから、人間界にはいられない。
だからたたりは恐れる心配ない、人間の運命は因果応報。

無碍の一道へ出ると、仏教で説かれる神に頭下げさせる身になる、本来鬼神はいない。
天神地祇はもともとは諸神。

仏教は死後が無になる?死後魂が続く?

結論からいうと、仏教は後生を否定する『断見外道』でも、後生変わらぬ魂が存在するという『常見外道』でもありません。

 

根拠として、ブッダは、『阿含経』に
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」
と説かれています。

 

断見外道とは、後生を否定する考え方です。
無の見ともいいます。

死後はないという見解。
唯物論の人たちや、理系の人に多いです。

それを断見外道という。
魂がなくなる。
死んだ後無になるという考え方は外道です。
因果の道理に外れています。

これが無の見。

どうして死後はないという考え方は因果の道理に外れ、外道かというと、
阿含経』に、「因果応報なるが故に来世なきにあらず」と教えられています。

因果応報というのは、因に応じた、結果が現れるということです。

この世の一切のものは原因に応じた果報が表れます。
それは絶対間違いありません。
だから来世がないと言うことはない。

来世なきにあらず」というのは二重否定ですから、来世があります。
因果の道理は間違いありませんから未来、死んだ後がないと言うことはおかしいじゃないか。

これちょっと考えたら分かります。

因果の道理を認めるならば、すべての結果には原因があると認めるならば過去世がないとおかしくなる。
なぜなら生まれたというのはすでに結果です。

原因は結果よりも必ず前にありますから、過去世がないとなるとおかしくなります。

また現在作った種蒔きがこの世で表れない場合はどうなるでしょうか。

この世でなければ死んだ後表れなければおかしくなりませんか。

分かり易い例が一人を殺して、今では死刑にはなりませんが、ある通り魔が8人殺しました。

そんなものが死刑にならずに精神障害で無罪になったらおかしいと思います。


いや、いいじゃないかとなって納得できるでしょうか。
殺された子供の親からすれば当然できません。
死刑でも許せないと、もっともっと苦しんで欲しいとテレビでもいうくらいです。

そういう思いになるといっても、わからないでもないです。

実際死とは大変な苦しみです。
蒔いた種に応じて結果を受けて当然です。

だから因果の道理が分かれば、因果の道理に間違いないから、来世がないと言うことはありません。
因果の道理から行っても死後はないというのはおかしいことになります。
これが無の見、断見外道、つまり唯物論を徹底して破邪されています。

では死後はあるのでしょうか。
死後はありますが、一般的に思われているような死後ではありません。

みんな思っている死後は仏教では常見外道といわれます。
これを有の見ともいいます。
仏教から言えばそれも間違いです。
仏教は霊魂を否定します。
仏教は無霊魂説です。

霊魂というのは、固定不変な魂のことです。
これを仏教でアートマンと言います。

アートマンというのは、常一主宰のものです。

常一主宰の常一は、常にひとつのもの。
主宰というのは、主となってつかさどる、きりもりをするものです。

これを常一主宰といいます。

死後はあると言っている哲学者はみんなそうです。
真実が、分かりません。

仏教で教えられている永遠の生命は、阿頼耶識です。

阿頼耶識を天親菩薩は
暴流の如し」の、といわれています。

暴流というのはボールと読みますが、瀑布のことです。

遠くから見ると激しい川の流れも一枚の布にしか見えないようなものですが、それは錯覚です。

生滅を繰り返しながら続いているのが阿頼耶識です。

始めのない始まりから、終わりのない終わりへと川は流れていくように物凄
い勢いで流れています。
それを私たちは遠くから見ると一枚の布にしか見えません。

死後も変わらない魂が続くという有の見を破られた根拠が、
無我なるが故に常有にあらず
諸法は無我であるから固定不変なものは何一つない。

だから物理に置いても最も小さな粒子というのはありえません。

一番小さな物質、原子、分子、更に細かくしていくと、レプトンクォークになります。

ではそれを分割するとどうなるかと、どこまでも続いていきます。

固定不変なものは何もありません。

もし固定不変な魂があるというのなら諸法無我に反します。
変わらないものがある、と言うのは諸法無我に反します。

有の見と無の見というのは、古今東西のすべての人々は綺麗にこの二つの考えに分かれます。
しかし真理はこの両極端を越えたものです。
人間の相対智が生みだしたのがこの二つですが、仏教では、どちらも間違いとぶったぎられています。

仏教が真実であることがこういう事からも分かります。

諸法は無我だから、固定不変な魂がある、有の見は間違い。
信心決定するとハッキリ分かります。

人間観、世界観が変わります。
信心決定した時、夢が夢と分かります。
そう言う世界に出させていただけます。

有の見と無の見は、どちらも間違いだと言うことです。

真実の世界は有無を離れた世界です。
教行信証真仏土巻には、

「西方寂静無為の楽(みやこ)には、畢竟逍遥(ひっきょうしょうよう)に
して有無を離れたり」と教えられています。

有無を離れた世界です。
有無を離れた世界が真実。
人間は相対智しかないから。
右か左しか分かりません。
仏教の言葉で言えば、中道がわかりません。

中道については、以下の記事が参考になります。

 

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教行信証』化土巻には、

断・常の見を離れて因縁法を信ず
と説かれています。

断見、常見を離れて大宇宙の真理、因縁法を信じるということです。