仏教研究室

仏教を研究しています。

仏教ではなぜ教えの通りにするのか

我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも
 開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せられ候。
            (御一代記聞書159)

御一代記聞書は蓮如上人の言行録

ある人が蓮如上人にたずねた。

「これはどういうことでしょうか」
蓮如上人「わしもわからん」
「しかし、何事も親鸞聖人のなされたようにさせて頂くのがよい。
 親鸞聖人の教えにしたがえば、必ず救われるのだ」

救われるとは、信心決定すること、無碍の一道に出られると言うこと。

これでは盲信ではないかと思う人があるかもしれない。
しかし、よくよく考えてもらいたい。
私たちは、何かを見たり聞いたりして、納得すればそれは正しい、従おう。
納得できなければそれは間違い、従わない、となる。
普通はそう。自分の考えが絶対の基準、ものさし。自力。

これでは絶対の世界に出られませんよ、
不可称不可説不可思議の世界に
出られませんよということ。

なぜかというと、自分の考えが一番正しいということになる。
では本当に自分の考えが本当に正しいのか。
60億の人間、みんな自分で考えて生きている。
しかし、みんな苦しみ悩んでいる。
また、自分の考えが最高の基準だったら、教えは必要ない。
自分の考えに従っていけばいいことになる。
しかし、そんなものは間違い。だから教えがある。

教えがあって、そのとおりに進んでいく、
そしてさとりをひらく。
自分の考えに従っていったら、
とんでもないところに行ってしまう。

さとりの52位。凡夫の知恵は一番下。仏は52番目。
一段違っただけで、人間とゴキブリほど境界に差がある。
私たちはパソコンや携帯電話を使うが、ゴキブリには想像もできない。
凡夫の知恵、凡智と仏の知恵、仏智とは、大変な違いがある。
仏教は、この仏の知恵で説かれたもの。

もちろん最初からこのような気持ちでは求められない。
しかし、求めていくうちにこういう気持ちになってくる。
またそういう気持ちになる人が、仏縁の深い人。
だから、蓮如上人にこう聞いた人も、そうとう教えを聞いていた人。
そうでなければ、蓮如上人がこう言われるはずがない。

蓮如上人は、何事も親鸞聖人のおっしゃるとおりになさっていた方。
そうしていくのが、救われる最も近道。

私は誰?「広末とソフィーの世界」

昔NHKであった番組

「広末とソフィーの世界

広末が14歳のとき出た本、

ソフィーが14歳

「あなたは誰?」から始まる

「私は、ソフィー」

それは「あなたの名前」
「私の時計」これは「私の時計」であって

「私」じゃない。

仏教は、本当の私とはどんなものかを知らせる。

 

如来二種の回向とはどういうことか

他力の信をえんひとは
 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の廻向を
 十方にひとしくひろむべし親鸞聖人『正像末和讃』)

 

これは、「最大の仏恩報謝は真実信心を伝えることだ

と教えられている。


如来二種の回向をひろめることと

真実信心を伝えるということが同じ。

どうして同じになるのか。

この如来二種の回向は何か、と聞かれたら、

阿弥陀仏の本願のことだと答えるのがいい。

 

真実の信心を伝えるということと、

阿弥陀仏の本願を伝えるということは同じであります。

じゃあ、如来二種の回向は弥陀の本願といえるのはどうしてか。


教行信証』の教巻の中に

浄土真宗を按ずるに二種の回向あり」とある。

浄土真宗といったら阿弥陀仏の本願のことなのです。

親鸞聖人のお言葉の中に浄土真宗という言葉が出てきたら、

阿弥陀仏の本願と言い替えて読むとわかりやすいのです。

 

後序に

真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう」

とありますが、これは阿弥陀仏の本願のことなのです。

ポイント、かなめを選り抜いて、一冊の本にした、

これが教行信証なのです。


あるいは総序を見てもらいますと、

真宗の教・行・証とあります。

これは阿弥仏の本願のことですから。

教、大無量寿経、そして、

阿弥陀仏の本願に救われ人が称えさせられる他力の念仏、

そして信心をえて、救い取られた人が弥陀の浄土にいって、

弥陀同体のさとりをひらくこと。

回向とは何か。

直接の意味は、差し向ける、という意味です。

回向するといったらさしむける、

分かりやすく言ったら与えるということなのです。


名詞になるとさしむけられた働き、あたえられたもの、となるのです。

ということは、阿弥陀如来が私に差し向けてくださる、

与えてくださる働きに二つある、ということです。

仏様が私に与えて下されるものが二つあるということです。

阿弥陀仏が私に与えて下されるもの、それは名号。

その名号を私がまるもらいすると信心と名前が変わるのです。

これが阿弥陀仏が私に与えてくだされたもの、

その名号にはすごいはたらきがある、効き目があるのです。

二つのはたらきがある。

あなたが南無阿弥陀仏の名号をまるもらいしますと、

あなたは二つのものを与えられるのだ、

名号の働きに二つあるのだということです。

そのはたらきとは何かというとですね、これです。

往生浄土の相状、これを往相回向のはたらき、

還来穢国の相状、還相回向のはたらきです。

こちらの岸、これを此岸、娑婆、穢国。

あちらを彼岸、極楽、浄土。

あなたが名号をいただいたら、

毎日毎日が極楽浄土に近づいていくことになり、

そういうはたらきを往相回向というのです。

極楽に往生するとどうなるかというと、

極楽でゆっくりして、高見の見物をしているかとあいうとそうではないのです。

弥陀の本願を伝えるために帰ってこずにはおれない、

そういうはたらき。往復切符みたいなもの。

無限に往復できるような定期のように、極楽と娑婆を往復できる。

名号を丸もらいしたら、無限の往復運動を繰り返す。

これがまた幸せなんです。

阿弥陀仏の本願に救い取られた人が賜る働き。

素晴らしいすごい世界があるぞと叫ばずにおれなくなるのです。

 

群賊・悪獣・悪知識

二河白道のたとえに出てくる

群賊、悪獣、悪知識とは、
仏法聞くな聞くなと妨げるもの。


なぜ妨げるのかと言うと、その値がわからないから。
そう簡単に値がわかるものではない、仏法は。

巨人戦とかそういうものなら、人はいっぱい集まる。
だけどあまりにも値があるものはなかなかその値はわからない。


なかなか真の値を知る者はない、猫に小判、豚に真珠。
苦悩の根源を明らかにし、平生にすくうと言う教えはない。
そういうものしかない。

そこに目をつけて、新興宗教は現世利益というけれど
病気治る、出世するとか、「どう生きるか」ばかり。

平生に人生の目的を達成できるというのは仏教の教えにしかない。
そういう値をほとんどの人がわからない、わからないから妨げる。


その中で唯一人尊い方が教えておられることを信じて進む。
そして向こう岸からひっぱられて進んで行く。
じゃあ仏法聞かなかったら、その苦労はなくなるのか?
というと、11時過ぎに乗っているサラリーマン
6時からのっているOLの姿をどうみる?
何のために働いているのかよくわからない
お父さんお母さんの姿をみてどう思うのか。
お父さんお母さんは年中働いて年末年始の3日しか休みがない。
「あと1週間だ、もう少し」
「もう1日だ、がんばろう」といってがんばっている。


彼女はもう3日たったら働き続けなければいけないのに……。
本人もわかっている。じゃあ何のために?
本当に流転輪廻。

ちょっとした幸せのためだけに苦労している。
仏法を求める苦労は決勝点に向かう苦労、卒業に向かっての苦労です。
そういう道だから

ひたすらにニ河を西にむかってすすんでもらいたい。

これが善導大師の教え。

二河白道は人生最高の道です。

 

 

 

二河白道のたとえ

二河白道のたとえについて。

 

二河白道の譬えと言うのは、善導大師の作られたもの。

1300年前の唐の方。

親鸞聖人は善導大師のことを

「善導独明仏正意」といわれている。

善導大師ただお一人仏の正意に明らかにせられた。

明らかであられたからこそ、明らかにせられることができた。

 

当時、高僧がたくさん輩出された。天台・浄影・嘉祥。

天台は、智者ともいう。

親鸞聖人も「ああ教観にあきらかなること、誰か智者にしかんや」

といわれているほど。

 

善導大師は、大心海化現の善導といわれている。

極楽浄土から現れられた。

30年間寝所につかれず、母以外の女性を見られなかった。

そして、人生の目的を達成された、後生の一大事を解決された。

では、どういう心のプロセスを通られたか。

どこまで言っても流転輪廻の中で、

どういうプロセスを通られたかを、たとえをもって教えられた、

これが二河白道のたとえです。

 

どんなたとえかというと、一人の旅人が旅をしていました。

何を得たら、どこに行ったら、満足、喜べるのか。

人間に生まれた歓喜の身になれるのか。

それを探して、旅をしていた。

しかし、どこにいっても本当の幸せはない。

教行信証には、これを無人空コウの澤と。

人一人いないところを旅していた。

だから、どこに行っても、何をやっても安心・満足がない。

そういう時に、尊い方に出会った。

どんな人にあっても、どんなんことをやっても、結局もとの木阿弥。

オリンピックを見ていて、体操の塚原は期待されても全然ダメだな、と言いつつ、

見ている。

最高潮が高橋金メダル。

閉会式が終ったら、始まる前とおんなじ心。

日本シリーズがはじまって巨人が負ける。

そして冬がくるだけ。

それが、真の喜び、満足はここにある、

ということを尊い方から聞かせていただく。

 

尊い方は、幸せになりたいなら、西に向かって進みなさい。

と仰言った。

仰言る通りにしよう、と旅人は西に向かって進んで行った。

突如、河に出くわした。

右からは水の河、左からは火の河。底が知れない深い河。

何をやっている!そんなところで足踏みしていも、幸せにはなれないぞ。

そんな事を言われても…。

向こう岸に向かって、わずか四五寸の白道が、伸びていた。

そこを指差して、ここを行けばよいと旅人に言います。

こんな激しい水の河と、火の河を、どうやって行くんですか、

と言いながら、旅人は、一歩一歩進みます。

ああ怖い、危なかった、と。

何をやっているんだ、こちらの岸に戻ってきてどうするんだ、

一体こちらの岸で、そなたの満足するものがあったか?

胸に手を当てて考えてみる。文化祭で空中ニ回転をやったなあ…、

遠足に行って楽しかったなぁ…、

しかし、今も喜べる幸せがなにかあったかなぁ。

こちらの岸で何を得ても、雲のように消えて行く、

シャボン玉を膨らませて割れるようなもの。

1歩2歩進み、恐れて戻る。励まされてまた進んで行く。

なぜ旅人は進むことができるのか。2つの理由がある。

 

東側の岸で、尊い方が行け行け、

西の岸で、こいよ、こいよと呼んでおられる。

そして、しばらくたつと、群賊悪獣悪知識が出てくる。

あなたのためを思って言ってるんだよ、こっち来て遊ぼうよ。

やっぱり戻ろうかなぁ。と思っていたら、

尊い方が「何をやっているのだ!」と言われて、また進む。

やがて、化けの皮が剥がれて、群賊悪獣悪知識が本性をむき出してくる。

剣を振りかざし、狙ってくる。

こういった妨害を振り切り、尊い方のお導きと、

西の岸におられるかたのお力により、進んでいく。

 

そして、白道が見えなくなる。

これ以上進むことができない。

ここまで進んできたけれど、もう進むことができない。

しかし、帰ろうとしても、帰る道が見えない。帰ることもできない。

行くこともできない。とどまっていてもどちらかの河に流されてしまう。

にっちもさっちもいかないところ、三定死。

そして、西岸上からの呼び声を聞いた一念に、

白道が無碍の大道に変わり、旅を続けることができた。

 

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親の恩に報いるには

日常でも、受けた恩に報いる時には、
まず相手の喜ぶことをしなければなりません。

 

母の日にはプレゼント送りましたか。

お母さんの喜ぶことは何か、知るところから始まります。

お母さんが、甘党か辛党かによって、渡すものが違ってきます。

もし、甘党ならば、チーズケーキにしようか、シュウクリームにしようか、

辛党ならば、激辛ラーメンにしようか、。

甘いのが好きなのに、思いっきり辛いものを送っても喜ばれません。

 

相手が喜ぶと思ってしたのに、返って嫌われる嫌がられるようなことに

なってしまったら、苦労が報われません。

相手の喜ぶことをしることが先決です。

 

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世間へ使うことは恐ろしく思うべし(蓮如上人)

アメリカの高額紙幣にのっている建国の父

ベンジャミン・フランクリンは、

小さい頃、笛が欲しくなって、定価の4倍で勝ってしまった。

 

この話は、私達は真価以上に争ってものを手に入れている、

ということを言われている。

 

では、何を代償に手に入れようとしているのか?

一時の楽しみに対してお金、労力、時間を代償にしている。
一時の楽しみも将来的な楽しみもたいしてかわりはない。

しかし時間的な限界がくる。

また身体も年老いて、楽しみであったこともできなくなる、

ということがあるスポーツ選手なら、昔のようにはプレーができない。

運動会で、よくある光景、お父さんがよく転ぶ。

体力、能力、の低下。
楽しみたいと思っても、続かない。

ゆくゆくは、すべてうらぎられる。

しかし、蓮如上人は御一代記聞書の中で、

仏法の為にどんなにお金や時間を使っても使いすぎ、

ということは無い、と言われている。

 

「世間へつかう事は、仏物を徒にする事よと、恐ろしく思うべし。さりながら、仏法の方へは、いかほど物を入れても飽かぬ道理なり。又報謝になるべし」と云々。
蓮如上人御一代記聞書227番)

物は仏法の為に活かせと教えられている。

 

世間へつかう事は、仏物を徒にする事よと、恐ろしく思うべし。

というのは、学校がおわると下宿でドラクエ

何時間も使って終わった後、今まで使った時間は何だったのだろう?

と思いながら、ついついやってしまう。

楽しいことは過ぎてしまうと、人一倍さびしい。空しい。
秋がさみしいのは、夏のあとだから。夏はチューブ。砂浜。夏の海。
秋の日はつるべおとし。気温の差は激しい。

夢・幻を得るために、限られた時間を使ってしまったのか。
ところが、楽しいときは、夢とは思えない。
臨終になってはじめて知らされる、という人が多い。

 

さりながら、仏法の方へは、いかほど物を入れても飽かぬ道理なり。

又報謝になるべし

仏法は、時間や労力を使って果たさねばならないものは何なのか、

を教えられている。

お釈迦様がその答をズバリ教えられた御言葉が、

「人身うけ難し今すでに受く」
喜びに満ち溢れたお言葉。
生まれ難い人間にうまれることができてよかった、

という生命の歓喜をうることが人生の目的。

 

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