仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

田辺哲学を学ぼうと思ったヨーロッパの若者

あるヨーロッパの若者が、田辺哲学を学びたいと思ったそうです。

でも、田辺哲学を極めるには土台が教行信証だから
教行信証を読まないとわかりません。
教行信証を読みたい。

では教行信証は誰の本かというと親鸞聖人です。
では教行信証を読み、親鸞聖人の哲学を学ぶにはどうしたらいいのでしょうか。
教行信証を図書館で探したが母国語はなかった。
英語もなかった。
インターネットの探したら教行信証の英訳があったがわかりませんでした。

それはそうですよね。
日本人が読んでも漢文だからわからないものです。

漢文の教行信証、英訳誰がしたかわからないが読んでもわかりません。

それで彼は決意した。よし、教行信証をマスターすれば
人間に生まれてきた意味がわかるんでないか。
生きる意味がわかるのではないか。

それで16歳から19歳で、
教行信証が読めるように日本語を徹底的に勉強したそうです。
しかも教行信証は漢文ですから漢文がよめるように
日本語と中国語を両方勉強しました。

三年間で中国語と日本語がペラペラになって日本にきたそうです。
私は日本語上手だねというと
僕はまだ日本語はまだ上手ではありませんと言います。

それを答えられる時点で上手だと思いますが、
実は日本語よりも中国語のほうが得意なんですといいます。

これより中国語できるんかとおもったが文法が母国語に似ている。
日本語よりも中国語のほうが勉強しやすいんですよといっていた。

そういうことで日本語で教行信証よめる力を身につけて
日本で教行信証を教えてもらおうとおもってきたそうです。

ところが、教行信証を教えてくれる人が誰もいなかったそうです。

それなら、こちらの浄土真宗のサイトのほうがずっと分かります。

世界的に注目される日本人

20世紀最大の哲学者といわれるハイデガーは、老後の日記に、歎異抄との出会いを記しています。

そして、歎異抄 の言葉に感動し、こんなことをいうすばらしい聖者があるのであれば自分はギリシア語もラテン語も勉強せず、日本語を勉強したかったと言っています。

ギリシア語やラテン語哲学では必須です。
その勉強量は大変なものです。

英語ができるといってもピンきりでちょっと会話ができるという人もあります。
その人はハローと挨拶できます。
それも英語ができるのうちです。

またアメリカに1年ほど留学して大抵の会話ができという人もあります。
これもできるといえます。
じゃあねこれてたいていの会話ができるといっても
英語の新聞、経済の言葉わかるか、医学書読めるかというと、
そんなのは読めません。

日本人が日本語の医学書読めるかというと単語からしてわかりません。
ギリシャ語で哲学書を読めるというのは相当の年数ハイデガーギリシャ語を勉強したと思われます。

それを全部やめて日本語を勉強すればよかったと言っています。
日本にいってこの親鸞聖人の教えを勉強したかった、だが遅かったと書いています。

えー世界最大の哲学者といわれたハイデガー
そこまでいう哲学が日本にあったのかと
この日記を読んで日本人がびっくりしました。

皆さんも知らんかったのでないでしょうか?
へー親鸞といえば名前は聞いたことありましたよね。
浄土真宗という宗派は親鸞というひとの開かれた宗派ですが、浄土真宗親鸞聖人までは知っていてもハイデガーの日記を読むまではいかない人もたくさんあります。
ここまで注目されていることを知らなかったのです。

 

いろは歌の元の文はブッダの言葉?

私がはじめて聞いた仏教の話はこのいろは歌でした。

色は匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず

いろは歌は誰が作ったかわかりませんが一説によれば弘法大師といわれています。
でも誰であっても元になった言葉は仏典の

諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽

というブッダのお言葉です。

いろは歌 の言葉はその時出されませんでしたが。
苦しみ悩みの心を今日越えたぞ、
その時の表現でいえば日本晴れの心です。
浅い夢をみているような酔っ払っているようなぼんやりした幸せではなく
日本晴になれる。

日本晴という言葉は魅力的な言葉ですよね。
そのほうがいいでしょ。
朝起きて雨降っている。
一日中じとじととおもう。

朝起きて曇っている。
一日中曇っていると思う。

それが今日みたいな日本晴れな天気だといいでしょ。
このブログも読まれる方が日本晴れの心になって貰えたらいいなと思って書いているんです。

そういうことでいろは歌 の後半には虚しい寂しい人生が、明るい心、日本晴れの心。
寂しい心がなくなる、なくなるというと語弊があるが寂しい心が楽しい心に
変わってしまうということです。

いろは歌の後半の意味

いろは歌

有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず

とあります。

いろは歌は、弘法大師が作ったともいわれる、仏教の歌です。

後半の「有為」とは苦しみ悩み。
それが有為の奥山ですから多い、深い。
それを奥深い山に例えられています。

人生のことを有為の奥山、苦しみ悩みの奥深いもの。
これが人生。
なぜそうなのかを説明されたのが前の2行。

色は匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ

これは諸行無常ということです。
わかりやすくいえば続かないからです。
どんなに幸せだ幸せだといっても崩れてしまうからです。

以前、21歳のアイドルがガンでなくなったという
ニュースがありました。
なんで死んだか?ガン。
最初は小学校2年で脳腫瘍。
脳腫瘍と戦い全身に転移しそれで亡くなった。

そういう人のニュースがありましたが、どうですか?
小学校2年といったら7歳から21歳。
人生の2/3。
それが脳腫瘍との戦いの人生。

まさに有為の奥山でしょ。
じゃあ7歳まではそうでなかったかというと
7歳まではほとんど覚えていない。
ものの本によると小学校1,2年までの記憶は殆ど残らないといわれる。
毎日刻銘に覚えているという人はないよね。
人間としての自覚がなかったころ。

その中アイドルとして歩みはじめたんだからやっと苦しみ悩みから離れられる
と思ったらいろんなとこ転移して。
食べるものも食べられない。食べても吐いてしまう。
肺にたまる水を取るのにくだを通す。聞いただけで嫌。

そんな生活したい?
だからああこんな子がいるんか。
アイドルになっているんだから可愛い子なんでしょう。
才能もあり容姿もあり、だけど苦しみの連続の人生でしかも21歳でおわり。
そんなのを聞くとかわいそうと思うがその子だけかというとそんな人一杯いる。

ところが仏教には、有為の奥山今日越えて、
生きている今、苦しみ悩みを解決して、
変わらない幸せになる道が教えられているのです。

いろは歌に教えられた変わらない幸せ

私たちは幸せを求めて生きているがいつかは失ってしまいます。
このことはゲーテという人は

幸福というものが同時に不幸の源になっている。
これも定めなのだろうか。

と言っています。

幸福を手に入れるとセットで不幸も手に入れている。
幸せを求めているのに、最後失って苦しむ結末なら
苦しむために生きてきたということになる。

なんのために生きるのか?と質問して
苦しむためだよ。

それをきいてよっしゃ頑張ろうという気にはならないでしょう。
死んだほうがマシとなる。

では崩れない、本当の幸せはあるのか?
プラトン
変わらない幸せは万人に共通した目的である
といっています。

思えば、津波で家を流された人が次に家をたてるのはどこか?
津波におそわれる恐れのない、高台に立てる。
あんな辛い思いはもう二度としたくないと思うから。
私達の本心を叩いてみれば変わらない幸せをすべての人は
みんな求めている。
こうプラトンはいっています。

ここで問題になるのは、そんな変わらない幸せはあるんだろうか。
ということです。
この問いかけに対して答えているのがいろは歌です。
一言でいうとここで、そういう変わらない幸せがあるんですよと
書かれています。

有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず

「有為」とは苦しみのこと
「奥山」とは山が幾重にも連なっている様子
失って求め、求めては失ってを繰り返す人生を有為の奥山とたとえています。

そんな人生を、今日越えてと書かれています。
いつかは失ってしまう幸せばかりの中で、変わらない崩れない幸せにいまなったぞということです。

病気になっても会社が倒産しても変わらない幸せがあるのか?
というと夢でもみているのかと思ったり、何かに酔っているのではないかと思ったり、おかしな宗教にはまったのではとおもうが、
いろは歌 では、「いやいや、浅い夢をみているのでも、酔っているのでもない。
 今ハッキリと、変わらない幸せになったということがあるんですよ」と歌われています。
 芥川龍之介が驚いたというのは、変わらない幸せがある、そういうものがあってこそ、とおもったからでしょう。
これを歎異抄には、無碍の一道とも言われています。

これは仏教に教えられていることなのです。

 

 

いろは歌の秘密

いろは歌は日本人には馴染みの深い歌です。

昔の日本人はいろは歌でかなを学びました。

弘法大師が作ったともいわれますが、定かではありません。
とにかく平安時代からありますから1000年前から読まれています。

1000年間も読み継がれる本というのはなかなかない。
現代の有名作家が書いた本といっても100年後まで読まれている作品はなかなかない。
ましてや1000年後の人にも語り継がれているということはまずありません。

天才といわれる芥川龍之介は、
我々の生活に欠くべからざる思想は
このいろは歌に尽きているかも知れない
と言っています。

なぜかというと、実は一回しか無い私達の人生、本当に後悔のないものにする上で
欠かしてはならないことがこのいろは歌につきているからです。

 

信心は同じになるのかどうか。

親鸞聖人34歳のときに3人のお友達とケンカをされたことがありました。
これを信心同異の諍論といいます。

親鸞聖人が、先生の法然上人と信心は同じだというと、
勢観房・念仏房・聖信房が、そんなはずはない、
自惚れるのもいい加減にしろと言った所から始まります。

勢観房・念仏房・聖信房、いずれも法然上人のお弟子でありました。
この3人は最後法然上人の御裁断があるまで、
どうしても信心が同じになるだなんて思えなかった。
自分の考えが間違っているとは、ユメ思えなかった。

親鸞聖人が真仮廃立を実地になされた争いです。
真と仮を正信偈に説かれただけでなく、争いをされておられる。

真仮廃立とは、同じ阿弥陀仏に向かっていても、
それに真と仮があり、仮を捨てなさいという教えです。
仮とはどういうことかといいますと、
阿弥陀如来を私達の心で信じている人達です。

信心と聞くと、考えたこともない人多いです。
しかしいずれにしても、信心というのは
とても同じになれるものではありません。

「仏一音をもって説法を演説し給うに衆生類に従って解を異にす」

一人一人の智慧や学問で理解しますので、
話をされる方は一つのことしか言われていないんですが、
違った解釈をする。

ですので、同じ話を聞いても、同じ本を読んでも、
一人一人感想を書くと、同じものは一つもありません。

違って当たり前です。

ところが親鸞聖人が、信心が同じになるといったのは他力の信心の場合なのです。